軌跡 ♂ノエ×♀ワジ



 開いた扉からゆっくりと胸に飛び込んできた身体は、ぞっとするほど冷たかった。ここは暖かいねと呟くその声があまりにも小さくて、ただそのか細さに背筋が凍った。しがみついてくる指から徐々に力が失われていって、けれど抱きしめ返すことも出来ないまま。
 ばん、と背中を叩かれて我に帰る。ロイドが自分の肩越しに、ワジ、と名前を呼んだ。そして彼女の腕に触れ、顔を顰める。バスルームに運んでやってくれエリィを呼んでくると言い残して踵を返そうとしたロイドは、ふと動きを止めた。その袖を弱々しく掴む指がある。ノエルがいい。そう聞こえた。聞き違いでは、なく。ロイドはこちらを一度見て、わかったとだけ言って部屋を出ていった。自分でも情けないほど性急に彼女を抱えて、バスルームのドアを押し開ける。彼女は軽かった。その重さに安心を感じられないほどには。

 いつもの彼女と違うように見えるのは、弱り切っているからなのだろうかと思った。胸を貸してくれるだけでいいと言った彼女はその通り、こちらに寄りかかったまま緩慢な仕草で濡れた衣服を取り去っていく。時折身体を支えながら、晒されていく冷えた肌に触れた。ただ少しでも体温を分け与えることが出来ればと、動揺した頭で安直に考えての行動だった。もう一度全身でもたれかかってくる肢体を抱える。視線は落とさず、いち早く彼女を湯に入れることばかりを考えて。
 けれど、認めたくはないが。全くそういう感情がなかったと言えば、嘘になる。




 湯は彼女の肩までを浸からせるには少し足りなかった。それでもティオの機転には深く感謝する。湯に浸かるのとシャワーとでは、温まる速さは比べるまでもない。
 バスタブの淵に腰掛けて、まだ小刻みに震えている肩に湯をかける。心配になるほど白い肌には、所々傷の跡があった。薄い古傷に少しの痣と、まだ記憶に新しい、二の腕を一直線に走る傷。

「ロイドは、何も言わなかったね」

 さっきに比べれば随分血色の良くなった顔が、こちらを見上げていた。膝を抱えた体制から上体を起こして、バスタブに背中を預けている。顔を見下ろせば目に入るあれこれからそれとなく視線を外したのは、無意識の行動だった。口元が笑っているように見えた。きっと何もかも分かっていて、それでも自分の答えを望んでいる。その声音はどこか無邪気で、なんというか。違和感が拭いきれない。

「ロイドさんは、気づいてるだろうからな」
「何に?」
「……色々と」

 そう、色々と。何かの拍子に、彼がこちらを嗜めるような目で見ていることは気づいていた。生産性を見出せないこの関係を、いつまで続けるつもりなのかと。そう思っているのは自分も同じはず、なのに。

「ロイドは何も言わなかったけど」
「……あの人のことだから、何か思うことがあるんだ」

 真意を掴み切れたことは、一度もない。だからこそ尊敬し、慕い、それでいて怖くもある。それはある意味で、彼女に時折感じる不可解さと似ていた。
 ふと、投げ出していた手を握られる。

「……ノエル、君は?」
「え?」
「なにか思うことは、ないの」

 いつものような、含みの感じられない声だった。普段に比べれば恐ろしく純粋な問いかけ。どう答えれば気が済むのか全くわからない。まぁこれは、いつものことだけれど。

「俺達の関係について、で?」
「あー……ううん、そうじゃなくてね」
「……?」
「僕が聞きたいのは、今、君が何を考えてるのかってこと」
「俺が?」
「ずっと手が強張ってるよ。気づいてる?」

 気づいていなかった。咄嗟に掴まれた手を引こうとして、出来なかった。しっとりとした頬が擦り寄せられている。離してくれと言うはずだった言葉は喉の奥で詰まって消えた。見透かされている。自分が思うよりずっと多くのことを。彼女が戻らないと報告された時からずっと感じていた後悔や焦燥や無力感のない交ぜになった忌まわしい何かが、喉から溢れ出さんばかりに暴れている。触れ合った指が震えた。

「……俺は君にとって、何の影響力もない人間だ」

 いくら必死に説教をしても、心配をしてみても。彼女のずっと根底の部分には決して届かない。いくら体温を知ろうと彼女の傷の位置を全て把握しようともそれは、彼女が過去に排してきたものの一例でしかないのだ。それでも。
 誰かがこの位置に収まる光景を想像するだけで、腸が煮え繰り返る。

「心配だった。心配だったんだきっと君が思う以上に。だから真っ先に飛び込んできてくれて、本当に嬉しかった」
「……ノエル」
「そうやって名前を呼んでくれることすらも、嬉しい」

 焼き切れそうな程の歯痒さを抱えながら、それでもそう思う。どう足掻いたところで、情けないほど変わらない。不安定な行動に惹かれ始めたのはいつのことだったか、今ではもう意識が勝手に彼女を追っている。ある日踏み出しすぎた一歩は、異常な形で受け入れられた。気まぐれが終わる日を恐れながら、それでもまだ自分は彼女の隣に居る。
 彼女がため息と共に手を離したのは、間も無くのことだった。

「……悔しいな」
「ワジ?」
「ごめんね。本当は、最初から単純な話だったんだ。ちょっとした出来心っていうかさ。……まさか、そんな答えが聞けるなんて思ってもなかったわけで」

 さすがに彼女の顔を見下ろしてしまう。言っていることの半分も意味がわからない。うつむいた彼女はまた膝を抱いた。

「本当にノエルは分からないね。からかおうとしたのに、逆に……悔しい」
「ちょ、ちょっと待ってこっちこそ意味がわからない。からかうってなんだ」
「――あのね」

 ぐるんと首を回した彼女と目が合った。頬が薄らと赤らんでいたのが印象的だった。

「僕は君が思うほど、淡白でも余裕があるわけでもないんだ」

 濡れた手が首に触れたと思った瞬間、柔らかい感触が唇に触れていた。温度の低いそれはすぐに離れて、視界いっぱいに広がっていた綺麗な顔が少しだけ寂しそうに笑っているのが見えて。と、鎖骨の先の一つの鬱血が、目に入った。
 唯一、敵ではないものに付けられた傷のはずだった。敵ではない、けれどそれを許されない立場にいるのが他でもない自分だった。さっき飲み込んだはずのどす黒いものが、腹からせり上がってくるのが分かる。自然と身体が彼女を追うように傾いた。片手がバスタブの淵を掴む。もう一方の手は、迷わず彼女の後頭部に向かった。
 噛み付いているようだ、と自分で思った。普段の遠慮が嘘のように制限がきかない。薄く開いた唇に強引に舌を捻じ込んで、そのくせ抵抗が恐ろしくなって後頭部を掴む手に力を込める。頼むから今だけは逃げないでくれとそれだけを考えていた。今だけは君のものになると、彼女は言ったから。――ああ嵌められている。彼女は今ごろ頭の中で予想通りの行動をした自分を嘲笑っているだろうか。してやったりと無邪気に微笑んでいるだろうか。それとも、もしかしたら。この薄く染まる頬のそのまま、嬉しそうに受け入れてくれているのだろうか。彼女の心を読めたことなど一度もないから、分からないけれど。
 無抵抗だっただけでも危ないのに、彼女はそのまま首に腕を回してくる。だから、そういう仕草が。

「……煽らないでくれ、頼むから」
「さっきまで素知らぬ顔してたくせに?」

 そんなわけないだろうと思う。自分は彼女が思っているほど、温厚でも理性的でもないんだから。彼女が慣れたように応えてくるだけで暴力的な衝動が込み上げてくる。生真面目でそういったことには純情に見える外面は、単にこの凶暴な内面を隠す為だけにあった。それを気づかせたのは彼女で、知っているのも彼女だけだった。

「君は弱ってる、のに俺は」
「うん、いいよ」
「よくないだろ」
「いいんだ。君が気遣わずにいられないことも知ってるから」

 ほだされてたまるかと、毎回思うのに。計算高い笑顔の裏で子供のように無邪気に信用されたのでは、もう抜け出せる気がしなかった。




(宇宙を壊してみたかった)




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はまると絶対一回は書く感じのアレ
人に捧げたのの二番煎じだけどすごい楽しかった



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