二度と帰らないと誓った部屋で、私はまた生活することになった。

 指は治った。流石は吸血鬼の治癒力とでも言うべきか、大した治療をしていないのに骨は綺麗にくっつき、あの日のことなど無かったかのように元通りになった。
 けれど指は動かなくなった。神経が傷ついた訳でもないのに、動かそうとしても指は微かに震えるばかり。何かを掴むなど以ての外だ。これでは生活もままならない。
 それでも不自由はしなかった。何故なら以前にも増して世話焼きになったルキが身の回りの面倒を見てくれるようになったからだ。
 朝起きれば髪を梳かれ服を着せ替えられ、顔を洗われて歯まで磨かれる。本を読みたいと言えば図書室から探して持ってきてくれるし、何もすることがなくてぼんやり窓の外を眺めていたら暇潰しに雑談をしてくれる。空腹になったら言わずとも察して食事を提供し、夜は風呂に入れられ身体まで洗われて、そうして眠るまでの全ての世話をされる。
 元々面倒見の良い人ではあった。けれどそれは善意から来るものではなく、例えば寝起きの髪や食事など、私が無頓着で手を抜いてしまう部分が目障りで仕方がないから嫌々世話をしている、という感じだった。
 今だって善意ではないだろうが、かつてと違って嫌な顔ひとつせずせっせと私の面倒を見ている。まったく、気味が悪い。けれど拒むことなんて出来なくて、私は甘んじてそれを受け入れている。




 この部屋に閉じ込められてから分かった。
 私はあの時、心のどこかでユイに会うことを望んでいたのだと。
 父さんに真相を確かめたい、真相を知った後はどうするか分からない、なんてお利口で澄ましたことを言いながら、本当はユイに会いたくて仕方がなかった。一度は彼女の幸せを思って隣に居ることを諦めたくせに、今更になって薄汚い欲望が湧いてきた。そんな醜い心を認めたくなくて気付かないふりをしていただけなのだ。
 けれど、この気持ちを自覚してしまったら、もう自制は利かなかった。堤防が決壊したみたいに、ユイを求める感情がとめどなく溢れ出して、胸をいっぱいに満たしていく。熱くて、苦しくて、息が出来ない。それでも、あのおひさまみたいなユイの笑顔がもう一度見たい。手を伸ばしたい。許されないと分かっていても。
 ――ユイに、会いたい。
「何を考えているんだ?」
 その声ではっと我に返った。
 ベッドの上でルキと向かい合って座っていた。そうだ、食事の時間だった。
 心の中を覗き込むような彼の瞳から逃げるように視線を逸らして、数回意識をして深呼吸する。胸を詰まらせた感情がすうっと引いていき、ようやく、息が出来るようになる。
「別に、なんでもない」
「ふん、……まあいい」
 ルキは上着を脱ぐと、私の手を掴んで自分のそばへ引き寄せた。膝立ちになって彼の脚の上に座る。目の前には白くて綺麗な首筋。そこにいくつか赤黒い点がある。急に、空腹を感じた。
 片手を彼の鎖骨の辺りに添えて身体を支えながら身を乗り出し、首筋に唇を近づける。そのままつぷり、とキバを皮膚に押し込んだ。傷口を押し広げながら、深く深くキバを突き刺す。冷たい血が溢れてきて、舌の上に待ち望んだ味が広がる。夢中でこくこくと血を飲み下すと、お腹の中が熱くなって、思わず吐息が漏れる。血は冷たいのに、喉を焼かれているような気さえした。
 飢餓が吸血で満たされるのは、目眩がしそうなほどの幸福感を呼んだ。
 キバを抜いて、息を吐く。彼の肩に額を押し付けて、目を瞑り、身体を震わせる快楽にも似た充足感に耐える。
「まだ吸い足りないか?」
「……大丈夫。だけど、もう少し、このままで居させて」
 くすくすと笑い声が頭上から降ってきて、腰に冷たい両手が添えられた。
 この部屋で再び生活を始めてから、ルキは私に人間の食事を一切与えなくなった。毎日三回行われていたダイニングでの食事にも随分長い間出席していない。喉を潤すために水や紅茶などは渡されるものの、食べ物はない。代わりに提供されるのが、彼の血だ。
 かつて私は吸血行為を避けていた。吸血鬼の餌として最適とされるのは人間の若い雌の血であるが、混血の私にとって人間はいわば同族だ。同族から血を吸う気にはなれなかった。それは吸血鬼に対しても同じ。けれど他の動物から不味い溝のような血を吸うのは吸血鬼としてのプライドが許さなくて、結局私は飢餓感が極限に達するまで吸血を我慢するのが普通になっていた。
 しかしそれは、人間の食事で空腹を紛らわせることが出来たから可能だったのだ。人間の食事が摂れないとなると、私の空腹はあっという間に限界に達する。そうして、血の提供者当人が「好きなだけ吸うと良い」なんて甘言で誘ってくるのだ。同族を吸血することへの躊躇いは、飢餓を前にすると呆気なく崩れ去った。
 数日に一度。彼は私の空腹が限界に達するのを見計らって自身の血を提供するのが恒例になっていた。
 熱く滾るような充足感が徐々に凪いでいく。そこでようやく震えも収まり、私は彼の肩から顔を離した。
「……ごちそうさま」
「どういたしまして」
 膝の上に座っているせいで私の方が少し目線が高い。
「君が頻繁にご飯をくれるせいで、お腹が減るスパンが短くなってる気がするよ」
「お前の本来あるべき姿に戻りつつあるだけだ」
「そうなのかな」
 返事は気のないものになった。頭がぼんやりして、急激に瞼が重くなっていく。食欲を満たしたあとは睡眠欲だなんて、私も存外本能に忠実な生き物だ。執拗な眠気に逆らえず目を閉じた。
 添えられていた手が腰を掴んだかと思うと、浮遊感を覚えて、直後背中がシーツに触れた。頭の下には枕の感触。気配で彼が覆いかぶさってくるのがわかる。これも、恒例になりつつある。
「俺も腹が減った。眠いなら寝ていろ」
「……ん」
 短く応えると、キバを首筋に穿たれた。血を抜かれる脱力感と疲れは眠気をますます濃くさせて、意識を深い眠りへ沈ませた。




 目が覚めた。
 隣を見れば、こちらに背を向けてルキが眠っている。そっと身体を起こし、顔を覗き込んでみる。長い睫毛を伏せて静かな寝息を立てていた。無防備な姿だ。
 以前にも増して、彼は私の部屋で眠ることが多くなった。四六時中私の世話をしているせいもあるだろうけれど、何よりも大きな理由は多分、監視のため。私が二度と逃げ出さないように、自分の目の届く範囲に私を置いておこうとしている。世話を焼いているのも同じような理由だろう。彼が『指が不自由な女』を善意や哀れみで介助するはずがないのだ。何食わぬ顔をして、今までとほとんど変わらないような態度で接していながら、腹の底では私を逃がさないように策を巡らせている。空恐ろしい人だと思う。
 人は寝ている間、唾液を飲み込まないという。彼の喉は動いていない。確かに寝ているようだ。
 ごめんなさい。声には出さずに謝った。
 やっぱり私は、ユイに会いたい。
 ユイのことを考えると、また胸が詰まったように苦しくなって、呼吸が出来なくなる。何故か目尻が熱くなって、わけも分からず泣いてしまいそうになる。
 手のひらを胸にぐっと押し当てて、湧き上がってくる感情を抑え込んだ。
 もう一度ルキの喉が動いていないことを確認してから、気配と息を殺してベッドから抜け出した。足音を立てないように扉へ近づく。
 指は動かないから、手のひらで包み込むようにノブに触れて、音を立てないように回す。カチャリ、と扉の内部でロックが外れる微かな音が鳴る。ノブを廊下の方へ押そうとして、

「どこへ行くんだ?」

 すぐ耳元で、声がした。
 気配がした瞬間、背後から伸びてきた両腕が私を閉じ込めるように扉へ添えられた。背中に彼の胸が触れてしまいそうなほどに近い。吐息が耳に当たって、くすぐったい。
「野暮なこと訊くんだね。ちょっと、トイレに行きたかっただけ」
「ふ、……嘘はよくないな」
 僅かに低くなった声がそう告げて、耳朶にぬるりと舌が這った。嬲るようにキバが押し当てられ、時折ちゅう、と皮膚を吸われる。
「また性懲りも無く屋敷を出て行こうとしたんだろう? わざわざ俺が寝ているのを確認していたしな」
「…………」
 私が観察しているのを見越して寝ている人の特徴を演技してまで寝たふりをしたらしい。その用心深さには呆れを通り越して感心してしまう。
「賢くて性格の悪い人って手に負えない」
「褒め言葉として受け取っておこう」
 扉についていた腕の片方がノブに添えた私の手に伸びてきた。覆うように手を重ねられ、ノブを元の位置に戻される。先ほど外したロックがカチャリと音を立てて再び施錠された。
「さあ、戻っておいで」
 宥めるような甘い声がそう囁く。濡れた耳朶に当たる吐息は冷たくて、ぞっと背筋が冷える。ぐらり、と視界が揺れた気がした。
 『来い』ではなく『おいで』。彼はあくまでも私自身の意思で戻るように促している。けれど決定を委ねられたからこそ、自分の選択肢が一つしかないことを思い知らされる。
 一見すると穏やかなようで、けれどその裏側で狂気が渦巻いている、危うい声だった。私が彼を突き飛ばして逆らえば、彼の中にある強靭な理性は簡単に千切れてしまうだろう。驚くほど、呆気なく。あの日から彼はずっと壊れたままだから、ふとした瞬間に押し込めた狂気が溢れ出してしまう。
 ユイに会いたい。
 けれど、この男が、どうしようもなく怖い。
 きっと初めから逃げられるなんて思っていなかった。それでも足掻いてみたかっただけ。だからこんなに簡単に諦めがつく。
 ノブから手を離すと、満足げに笑った彼の気配が遠ざかった。くるりと振り返ってルキに向き合うと、ダンスにでも誘うように手を差し出される。その手を取ると、ベッドの方へ導かれた。再び眠る気はないのか、私を壁の方へ追いやって、ベッドの上に座る。
 じっと真正面から私を射竦める。
「どうしてまた逃げ出そうとしたんだ?」
「……」
「そうまでしてイブに会いたいのか」
「……そんなんじゃないよ」
「お前は嘘が下手なんだ、自覚した方がいい。さっきの食事の時といい、イブのことを考えているのが丸分かりだ」
「…………」
 表情の変化は乏しい方なんだけれど。こんなに簡単に私の表情を読み取れるのは、ユイとこの男くらいなものだ。
 ルキが私の右手を取った。自分が作った彫刻の出来を確認するみたいに、何度も角度を変えながら観察し、口元に笑みを浮かべる。それから、慈しむように、指に唇を落とした。柔らかいそれが悪戯のように指を食む。動かないながらも感覚は保持している指が、じいんと痺れる錯覚。
 彼はよく私の指に触れた。そうして動かないことを確かめると、愛おしそうに唇を落とす。それをされるたび、おもりでもつけられたように、指はますます動かなくなった。
 きっとこの指が動かないのは彼のせいなのだろう。まるであの日の仕置がずっと続いているみたいに、この指は、彼の狂気という鎖で雁字搦めにされてしまっている。そしてその冷たい唇で何度も何度も毒を注ぎ込まれている。
 見えない枷を嵌められているような気分だ。
「指だけでは足りなかったのか?」
 唇を触れさせたまま言葉を漏らす。
「今度は足にしてやろうか。そうすれば、お前は自力で何処へも行けなくなるだろう?」
 黒の視線が私の右足に注がれた。妖しい光を灯し、獲物を狙うようなその目つきに、ぞくりと背中に悪寒が走る。これは冗談ではない。彼はその言葉通り、私の両足を潰してしまうだろう。私の指を動けなくしたように、足にも枷が嵌められるのだ。
 恐ろしい、と心が震えている。身体の自由を奪われることへの恐怖がせり上がってくる。
 けれど、気づいてしまう。
「……それも、いいかもね」
 その言葉に安堵している自分がいることに。
 ユイを求めることが許されないなんて、初めから分かっている。私が彼女に手を伸ばすのは彼女の幸せを壊す行為であるし、私を必要としてくれるルキへの裏切りでもある。互いの傷を舐め合うようなこの歪な関係から独りで逃げ出すなんて、彼が認めるはずがない。
 けれどこの心はユイを求めてしまう。あの太陽を自分のものにしてしまいたいという薄汚い独占欲がぐつぐつと湧き上がる。
 だから彼の手で枷を嵌めて、もう二度と逃げ出せないよう、縛り付けて欲しい。そうしてユイを希求するこの心に思い知らせて欲しい。私にはもう彼の隣しか居場所がないことを。
 きっと再びユイの隣へ立ったところで、私は彼女に身を焼かれて息も出来ずに死んでしまうだろうから。
 ルキにつられて自分の足を見下ろすと、はぁ、と溜息が聞こえた。
「興を削がれた」
 足から顔に視線が移る。黒い双眸には退屈そうな色が滲んでいる。
「足、壊してくれないの?」
「お前を喜ばせたい訳じゃないからな。俺を唆して利用しようとしても無駄だ。お前の自虐に付き合う気はない」
 彼には私の心なんてお見通しなのか。それとも、未だに父さんを求めて止まない彼自身と私が重なったのだろうか。
「俺が見たいのはすべてを諦めて俺に迎合するお前の姿じゃない」
 以前は彼の考えていることを察せたけれど、今はもうこの人が何を考えているのか、さっぱり分からなくなってしまった。何かが壊れてしまったんだろう。
「俺を裏切ったお前に安寧を得る資格なんてない」
 声は低く、どす黒い感情を抑え込んでいるような、危なげな不安定さがあった。
「イブに会いたいという希望はずっと持っておけ。好きなだけ彼女への想いを募らせて、いつか俺の寝首を掻いて逃げ出すことを夢見ていろ。その度に俺はお前の薄汚い願望を潰し、絶望の底へ叩き落としてやる。俺はその時のお前の顔が見たい」
「……君らしいね」
 けれどとても安心する。
 だって彼は私を捨てない。敢えて希望を持ち続けさせ、それを潰すことで絶望させると宣言していながら、私のことを自分のもとへ縛り付けてくれる。それは何よりも私が望むことだ。
 私もおかしくなってしまったのかもしれない。きっと指だけではなく、知らないうちに彼の毒は全身に回っていたのだ。毒は肉を腐り落ちさせ、心の奥に大事にしまい込んだ、見たくないからと閉じ込めてしまった汚い心を、全部彼の目の前に曝け出してしまう。その汚い心を嘲笑い、私のことを貶めながら、それでも彼は私の居場所になってくれる。だから息が出来る。肺一杯に彼の毒を吸い込みながら、心から安堵してしまう。
「私も案外馬鹿なのかもしれないね」
「今更自覚したのか」
「ん」
 無謀にも、無様にも、ユイを求めてしまう。そして彼の元から逃げ出そうとして、何度も思い知らされる。結局私はここでしか息が出来ないのだと。
 真綿で首を絞められるような圧迫感も、指先から注ぎ込まれる毒も、すべてが心地いい。徐々に自由を奪われて行く恐怖で胸の奥が痺れるのさえ、甘美だと感じてしまう。目を閉じて、底のない沼にずぶずぶと浸かっていたくなる。
 ああ、だめだ、やっぱりもう戻れない。
 戻りたく、ない。
「ルキ」
 呼びかけに応えるように、指先にキバが穿たれた。




20141213
ルキくんは最近カールハインツに会いに行っていません。
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