※色んな意味で痛い




 ずっと違和感があった。
 喉に魚の小骨が刺さったような、微かでありながら決して無視のできない違和感。
 それはアヤトとユイと最後に会ったあの日から始まっていた。
 大事な何かを見落としている気がする。その『何か』とは一体なんなのか。正体不明の焦燥感に駆り立てられ、私は来る日も来る日も答えを探し続けた。
 そうしてある日、靄が晴れたように頭の中がクリアになって、自分が重大な思い違いをしていたことに気が付いた。




「明日この屋敷を出て行くつもり」
 ルキの部屋を訪れ開口一番にそう告げた。彼はソファに腰掛け本を読んでいたところで、ワンテンポ遅れてこちらへ視線を移し、少し首を傾げて「理由は?」と問うた。
「父さんに会いに行きたいの」
「……カールハインツ様に?」
 形のいい眉が怪訝そうに寄せられる。
「あの方を憎み怯えていたお前が、わざわざ何のために」
「確かめたいことがあるの」
「それは何だ」
 一瞬、彼に理由を話して良いものかと逡巡する。けれど今更隠し事をするような仲でもないし、何より全てを話すことが、今まで世話をしてくれた彼に対する礼儀に思えたから、続けて口を開く。
「ユイがどうして私のことを覚えていたのか確かめるため」
「……」
「アヤトとユイの式の日、シュウとユイが揃って私に『以前会ったことはないか』って訊いてきた話はしたよね」
「ああ」
 父さんの手でアダムの林檎計画が再始動されたとき、この世のすべてから『逆巻ナマエ』に関する記憶が消された。今私のことを覚えているのは父さんと無神の四人だけだ。だからあの日ユイとシュウは私と初対面の筈だった。けれどふたりは私に既視感を覚えた。それは何故か。
「父さんの力は絶対的だよ。だからあの人が記憶を消し忘れるなんてヘマをやらかすはずがない。でも、それにも例外がある。父さんの力の及ばない記憶の領域とかね」
「……それが魂に刻まれた記憶、か」
「そう」
 父さんは神にも等しい存在であるけれど、本物の神ではない。脳に保管された記憶を操作することは出来ても、人の思いや、強く想い魂にまで刻み込まれた感情を消すことは出来ない。
 そしてもうひとつの可能性が、父さんが私を陥れるためにわざと記憶を残したということ。むしろあの人のかつての言動を鑑みればこれが一番現実的だ。子供の悪戯のような気軽さで人の心を弄び、長い命の退屈を紛らわせるような、残酷で無慈悲な男なのだから、あの父は。
「ユイはともかく、シュウとは仲が良かったけれど、それでも魂に刻んでくれるほど私のことを思っていたとは考えられない。だからユイもシュウも父さんが意図的に記憶を残して、それに縋る私を見て嘲笑おうとしてたんだって、思ってた」
 ルキの顔から表情が消える。何の感情も浮かばない冷めた黒眼で先を促すようにこちらを見ている。
「自分でもどうしてなのか分からないけれど、本当は四つある選択肢を無意識に二つに絞り込んでた」
 すなわち、ユイとシュウがふたりとも同じ要因によって記憶を保持していたと。けれど、本当はそれだけじゃない。
「気づかなかったんだ。ユイの方は父さんが嫌がらせのために記憶を残して、シュウは魂に私の存在を刻んでいてくれた可能性と」
「逆巻の長男はあの方の仕業で、イブは彼女自身のお前への想いによる可能性、に?」
 言葉を引き継いだルキは変わらず無表情だった。驚いた様子など微塵も感じられない。
 ふと、もしかしたら彼は私の違和感の正体を最初から知っていたのではないか、という推測が頭をもたげた。そして、それを知りながら敢えて私に教えなかったのでは、と。聡明な彼がこんな単純な勘違いをするはずがないのだから。
「お前の目的は分かった。だが、今更あの方に確認をとってどうなるんだ。仮にイブが心でお前を覚えていたとして、お前は彼女の隣に居ることを望むのか? 彼女が幸せならそれで良いと、くだらない自己犠牲で諦めたのはお前自身じゃないか」
 声には嘲るような色が滲んでいた。
 彼は私がユイの傍にいることを諦めた理由を酷く嫌っている。自己犠牲や偽善を何よりも嫌う人なのだ。そんな彼にとって不愉快な理由で一度手放したにも関わらず再び希望に縋ろうとしている私は滑稽で、また嫌忌するものなのだろう。
「それに、イブ自身がお前を覚えているというのは、お前の願望が作り出した幻想だろう。可能性は確かに四つだが、お前の望みは確率で言えばゼロに等しいぞ」
「そうだね。何せ記憶を消したのが父さんだから。私の存在そのものを不愉快に思っているあの人が私を陥れるためにユイに記憶を残した、っていうのが一番現実味があるよね」
「……」
 父さんを慕い尊敬するルキは父さんを貶めるような同意を返さなかった。けれど否定もしない。この沈黙は肯定と同じだ。こんな時でも正直で嘘を言わない彼が面白かった。或いは、神が地を見下ろすようにすべてを見透かす父さんの怒りに触れるのを恐れたのかもしれない。彼は、臆病者だから。
「私の願望が現実だったとして、どうしたいかだけど。それはまだ分からない。自分で諦めたくせにユイと一緒に居たいと望んでしまうかもしれない。やっぱり私は隣に居るべきじゃないって諦めるかもしれない」
「……」
「でも、真相なんてどっちでもいいんだよ。それより、父さんに確かめないまま、答えの分からない曖昧な希望に縋って生きていくことなんてできない」
 シュレディンガーの猫と同じだ。父さんに真相を確かめなければ、私の望む真実は四分の一の確率で現実だと言える。その四分の一の可能性に縋るだけで私は希望を持てる。けれどそれは、偽りの幸せであるし、虚しい行為でもある。
 父さんの類似品としてルキに必要とされ、彼の憎悪や怨嗟を解消する道具である私に、希望なんて必要なかったんだろうな。きっと四つの可能性になんて気付かなかった方が、私も彼も幸せだったかもしれない。けれど気付いてしまった以上、何も知らなかった時のように彼の負の感情を受け止めることは出来そうになかった。
「カールハインツ様が意図的に記憶を残していた場合はどうするんだ?」
「どうもしないよ。やっぱりかって納得してそれで終わり。でも、この屋敷に戻って来ることはない」
「どちらにせよ屋敷を出て行くことに変わりはないのか」
「うん」
 彼はふん、と鼻で笑って、一言。
「好きにしろ」
「え」
 予想外の反応に面食らう。
「……いいの?」
「どうして俺がお前を引き留める必要がある? この屋敷を出たいのなら好きにすればいい」
「……」
 投げやりに言って、これ以上この話に興味はないとばかりに本へ視線を戻してしまった。ぽつんと突っ立った私だけが取り残される。
 正直、引き留められると思っていた。
 私は父さんの代用品だ。彼の父さんへの恨みが尽きるか、私に飽きるまでその役目は終わらない。
 ルキは父さんのことを心の底から慕っていて、それと同じくらい殺意を抱いている。父さんに愛されたいと願う彼は、自分の息子のことや自分自身のことしか考えていない父さんに恨みや憎悪を感じずにはいられないのだ。それでも彼は決して父さんに従うことをやめない。だから恨みも決して尽きることはない。
 自分で言うのも可笑しな話だけれど、彼は私のことを父さんと同じくらい必要としているのだ。
 だから、引き留められると思っていた。それでも私の意志は変わることがないから、どんな手を使ってもこの屋敷を出るつもりではあったけれど。反対されると分かっているのなら黙って出て行けば良いとも思うが、やはりこれは私を必要としてくれた彼への私なりの礼儀だった。
 一悶着あるのも覚悟していたのに、こんなにあっさり許して貰えるなんて。拍子抜けしてしまった。
「いつまでそこにいるつもりだ?」
 呆然とする私に暗に出て行けという言葉がかかったので、彼の部屋を辞して自室に戻った。




 そして、翌日。
 鏡の前に立って、制服を纏った自分の姿を確認する。
 制服を着るのなんて何年ぶりだろう。この屋敷に連れて来られた日に着ていたものであり、前の家からの唯一の私物だ。もう着ることはないと思ってクローゼットの端に追いやっていた。鏡面に映る姿は、最後に制服を着たときと全くといっていいほど変化がなくて、苦笑してしまう。時間の流れに取り残された吸血鬼。哀れで醜い生き物だ。
 振り返って部屋を見回す。もともと物に執着がないせいで殺風景だった部屋は、先ほど整理整頓したせいで更にこざっぱりして見えた。これで最後だと思っても何の感慨も湧いて来ないのは、ここにあるものがすべてあの男に与えられたものだからか、それとも私が吸血鬼だからか。
 まあ、どちらでもいいか。
 もう一度鏡を見て、軽く服を整え、二度と使うことのない部屋を出た。




 玄関へ向かうと、近くの廊下に背を預けてルキが立っていた。腕を組んで目を瞑っていた彼は、私の気配を感じると壁から背を離しこちらを見る。
「見送りにでも来てくれたの?」
「まあ、そんなところだ」
「……へえ」
 珍しい。明日は槍でも降るのだろうか。別れを惜しむような感傷的な人でもないと思うんだけれど。内心首を捻りながらも彼に近寄った。
 向かい合って、少し頭上にある黒い双眸を見上げる。この屋敷に私を拉致した彼は、この瞳で碌でもないどろどろの感情を静かに燃やしていた。その炎に恐怖し、そうして私はこの男から決して逃げられないと思い知らされたのだ。
 けれど今の彼にはそんな悍ましい感情は見当たらない。その事実に安堵した。きっと彼は父さんへの恨みを克服したのだろう。それとも私に飽きたのか。どちらにせよ彼にはもう私は必要ないのだ。それはすなわち彼の精神が安定したことを意味する。
 この世で唯一私を必要としてくれた彼が独りで立てるようになったことに少しだけ寂しさを覚えた。けれどきっとこれが最善の結末なんだと嬉しく思う気持ちもあった。
「今までありがとう。何だかんだ言って君と一緒に居るのは楽しかったよ」
 黒い瞳にほんの少し驚きが浮かぶ。私がこんなことを言うとは思っていなかったんだろう。私だって自分がこんな言葉を口にするなんて思ってもいなかった。けれど、らしくないのはお互い様だ。
「本当に行くんだな」
 確認するような問いに頷く。そうか、と素っ気ない相槌が返ってきた。ふたり揃って口を噤み、沈黙が降りる。
 彼と話をしていると不思議と気分が落ち着いてくる。自分と同じ空気を感じるからだろうか。孤独と、虚しさ。一番欲しいものが手に入らなかった絶望。そんな、薄ら寒い空気。身を焼かれると知りながら眩しい太陽に手を伸ばしたくなる一方で、心地よい夜の冷たさに浸っていたくなる。
 これ以上彼の顔を見ていたら名残惜しくなって屋敷に留まってしまいそうだ。小さくかぶりを振って僅かな未練を断ち切った。
「もう行くね。さようなら」
「ああ」
 淡白な返事を背に受けて、私は彼とすれ違った。「さようなら」は決別の言葉だった。きっともう彼と会うことはない。たとえ私たちが永遠に等しい命を持っていたとしても。
 扉に手をかけて外側へ押し開く。隙間から外の光が射し込んで――




 目覚めると冷たい地面に転がっていた。
 身体を動かすと鈍い痛みが走って口から呻き声が漏れる。眉を寄せ、痛みを堪えながらゆっくりと上体を起こそうとして、初めて背中側で両手首を縛られていることに気付いた。両手を無造作に動かすとジャラジャラと金属が擦れ合う音が聞こえる。これは、手錠か。
 ずりずりと芋虫みたいに身体を動かして、バランスをとりながら上体を起こした。辺りを見回す。物が一つもない殺風景な空間だった。剥き出しのコンクリート壁には窓一つなく、壁に取り付けられた燭台の心もとない明かりが広い空間を薄暗く照らしていた。床と天井を繋ぐ柱から伸びる影が、オレンジ色の炎に合わせて揺らめいている。唯一の出入り口と呼べる通路は鍵付きの鉄格子で塞がれていた。牢屋、という単語が頭を掠める。
 私はどうしてこんなところにいるのだろう。妙に頭がぼんやりしていて思考が空転するが、それでも何とか記憶を手繰り寄せた。
 そうだ、私は確か屋敷から出ようとして玄関の扉を開けて。
 ――それで、どうしてこんなところにいる?
 言い知れぬ寒気が背筋を走り、緊張で身体が強張る。
 とにかくここから出なければ、と立ち上がったところで、遠くから小さな物音が聞こえてきた。息を殺して耳を澄ませる中、それは徐々に大きくなる。コツコツと硬い靴底が床を叩く音だった。聞き覚えが、あった。
 やがて鉄格子の向こうに人影が現れた。ぎいい、と錆びた蝶番が音を立てて開かれる。中に入ってきたのは、案の定ルキだった。
「なんだ、起きたのか」
 いつもと変わらない口調だった。そして今の状況にはあまりにも不釣り合いな声。緊張が高まり、知らないうちに私は一方後退っていた。それを見たルキがくすくすと笑う。
「その警戒心丸出しの目、懐かしいな。お前をここに連れて来た時を思い出す」
「……ここはどこなの」
「見てわからないのか? 屋敷の地下牢だ。ああ、そうか、お前はこの部屋に入ったことがなかったのか」
「存在も知らなかったよ。うちの屋敷にも地下牢があったけど、吸血鬼っていうのはこういう物騒な部屋を作るのが好きなのかな」
「さあ、どうなんだろうな。この屋敷はカールハインツ様が俺たちにあてがって下さったものだが、その前にも誰かが住んでいたらしい。その住人が人間か吸血鬼か、それとも別の生き物だったのか、何も聞かされていないからな」
「……ふうん」
 本当に、いつもと変わらない。くだらない雑談に興じるような何気ない声と口調。表情も至って普通だ。場所と私の両手を拘束する手錠だけが異質だった。それとも、逆なのか。
「それで、私はどうしてここにいるの。君が連れてきたんでしょ」
 視線を走らせて、彼との距離や部屋の広さを把握する。隙があればいつでも逃げ出せるように。
「ああ、そうだ」
「どうして」
「心当たりはないのか?」
「意図は分かるけど、理由がわからない。だって君は私のことを引き留めなかったから」
 ここに連れて来られたのは単に屋敷の外に出さないためだろう。けれど屋敷を出て行く、という私に彼は好きにしろ、と言ったのだ。だから屋敷の外に出さない理由がわからなかった。
 ルキは首を傾げて苦笑した。まるで出来の悪い子供を見る親のようだ。
「お前は基本的に頭の良い女だが、相変わらずこういうところは抜けているんだな」
「……?」
「確かに俺は『好きにしろ』とは言ったが、『屋敷を出て良い』とは一言も言っていない」
「…………なるほどね」
 口汚い悪態をついてしまいそうになる。何のことはない、いつもの彼の手だった。嘘は言わないけれど本当のことを全て語ったわけではない、そういうことである。彼の性格なんて嫌という程知っているはずなのにまんまと彼の罠に引っ掛かったのだ。
「でも、私が『出て行ってもいいの?』って訊いたとき、君は引き留めなかったでしょ」
「当たり前だろう。お前は俺の所有物なんだぞ? どうして引き留める必要がある。俺の物をどうしようが俺の自由だろう?」
「……『出て行きたいなら好きにすればいい』っていうのは?」
「お前が出て行く努力をするのはお前の勝手だろう。身の程知らずとは思うがな」
 傍若無人なことをさも当然のように言い放つ。いいや、彼の言うとおりだ。確かに私は彼の所有物であるし、そのことに不満を抱いたことはない。私が分不相応なものを望んでしまっただけ。彼と暮らす日々があまりにも平穏だったものだから、失念していたのだ。元から彼はこういう男だった。至って普通の顔をしながらその面の皮の向こうで碌でもないことを考えているような人なのだ。
 すたすたと近づいてくるルキから逃げるように後退るが、あっという間に壁に背中が当たって逃げ場はなくなってしまった。彼との距離は一メートル弱ほど。
「所有物の分際で屋敷を出ようとした愚か者には仕置をしてやらないとな。さて、何にしようか」
 その背後、鉄格子の扉に視線を向ける。鍵は先ほど彼が開けたままだ。彼の脇をすり抜けなんとか逃げ切ることは出来ないだろうか。
「しかしお前は賢い女だからな。この瞬間をやり過ごしたところでまた逃亡を企てるかもしれない。それにお前自身が言っていたしな、カールハインツ様に真相を確かめず曖昧な希望に縋って生きていくことができない、と」
 そこまで考えて愕然とした。今まで何をされようとも彼のやることを受け入れてきた私が、どうして彼から逃げることを真剣に考えているのか。彼になら殺されて良いと思った。父さんの代わりであれ私を必要としてくれるなら死ぬより辛いことをされようと構わないと思った。けれど今はどうだ。彼に怯え、彼の与える得体の知れない仕置とやらから逃れようとしている。まるで生き延びたいと望む意思ではないか。
「ああ、だが、仮にイブが魂でお前を覚えていたとしても、彼女の隣にいることを望むとは限らないんだったな。なら、後日俺が代わりにカールハインツ様に真相を確かめておいてやろう。それで満足だろう?」
 まさか、ユイに会いたいと願っているのか、私は。
「だからひとまずは、お前に自分の立ち位置を思い出させてやらないとな」
 更に一歩踏み出し距離を縮めたルキは、無造作に私の肩を掴んで身体を反転させた。コンクリートの壁に向き合った私はそのまま冷たい壁面に押し付けられる。片腕で体重をかけながら背中を押され、胸が押し潰されて息が苦しい。もう片方の手が両手首を拘束する手錠に伸び、手首を覆う金属の輪っかの縁を撫でる。やがて指が蛇のように手の平に這ってきて、私の右手の人差し指を掴む。
 そしてそのまま、関節を逆の方向に曲げられた。あまりの激痛に一瞬目の前が真っ白になる。
「うっ……あ、あ」
「流石のお前でもこれは痛いのか」
 楽しそうに言って、今度は中指を掴んだ。背筋が凍る。彼を押し退けようとするより前に、ぼぎん、と鈍い音を響かせて再び指をへし折られた。ちかちかと視界が明滅する。激痛で身体が痙攣し、力が抜けて倒れこみそうになるが、背中を押さえつけられているせいでそれも叶わない。
「なあ、ナマエ。俺が本当にお前を逃がすと思ったのか?」
「な、に……? あ、ぐっ」
 痛みの直後右手の薬指の感覚がなくなった。意識が遠退きそうになるのを左手を爪が食い込むほどに握り締めてどうにか耐える。
「そんなことあるはずがないだろう。お前は何のためにまだ生きているんだ」
 今度は小指。半開きの口から断続的に呻き声が漏れる。
「俺に必要とされることでイブを手に入れられなかった孤独を埋めていたような醜い女のくせに。……俺を差し置いて自分だけ希望に縋るだと? ふざけるなよ、そんなこと絶対に許さない」
 ワントーン下がった声と共に右手は完全に使えなくなった。激痛を通り越しもはや感覚がない。
 突然背中を押さえつける力がなくなって、ずるずると壁伝いに床に座り込む。気配で彼も床に片膝をついたのがわかった。 冷たいコンクリート壁に頬を当ててハァハァと息を漏らしていると、カチャリと小さな音が鳴って手首の拘束が緩み、手錠が外された。自由になった腕を使って壁に身体を押し付けながら反転し、ルキと向き合う。
 黒い双眸は冷たく、普段と何ら変わらないように見える。少なくともこの屋敷に連れて来られた時のような碌でもない炎は灯っていない。
 いいや、ちがう。
 どうして勘違いしたのか。
 その瞳にあるのは静謐ではない、深淵だ。全てを呑み込む底のない暗闇。彼の父さんへの憎悪はなくなったわけではなく、単に彼の心の深く底に押し込められているだけ。その憎悪は緩和されるどころか増している。爆発寸前だからこそ落ち着いて見えたのだ。嵐の前の静けさとでも言うべきか。
 彼は私が必要ないほど精神的に安定したわけではなくて、もうとっくの昔に元に戻れないほどおかしくなっていたのだ。そして、自分の所有物である私が彼のもとを去ろうとしたことで、完全に壊れてしまった。
 本来彼は直接的な暴力をふるう人物ではない。蛮行を嫌い理性的に言葉で解決するタイプの人だ。実際に私は吸血以外の暴力をふるわれたことがない。そんな彼が、骨を折るなどという野蛮な行動を平然と行っている。これこそが彼が壊れている証だ。
 恐ろしい、と思った。背筋がぞっと凍って身体が冷えていく。見知った彼が誰か知らない人に見えた気がした。
「……いい顔だ、お前の怯えた表情を見ていると心が安らぐ」
 物騒なことを言い放ち、ルキは私の右手を掴んだ。五本全てが妙な方向に曲がっているいびつな指を観察するように眺め、唇を這わせて、愛おしそうに口づけを繰り返す。皮膚に吐息が当たるが、感覚がほとんどないせいでぶよぶよの脂肪を隔てたみたいに遠くに感じた。
「俺が見たかったのは今のお前の顔だ。小森ユイという望みに縋り希望に満ちた顔じゃない」
 ぱくりと人差し指を口に含んで軽くキバを押し当てられ、ぷつり、と音がした。恐ろしいほどに冷えた黒い瞳をふせて、割れた肉から滲む血を舐め取っていく。やがて飽きたように右手を放り出して、今度は左手を掴んだ。
「……君ってやっぱり歪んでる」
 私の吐き捨てた言葉に、ルキはくすりと笑って、応えるように左手の小指をへし折った。ぼぎんっ、と六回目の鈍い音が鳴って、また意識が遠退きそうになる。口にうまく力が入らなくて、荒い息と呻き声が漏れる。
「そんな歪んだ男に必要とされなければ生きていけないようなどうしようもない馬鹿は、どこのどいつなんだ?」
 頬に片手を添えて、唇を合わせられる。冷たいそれが私の下唇を食み、それからぬるりと舌を捻じ込んできた。大して抵抗も出来ないままこちらの舌を引きずり出され、鋭いキバの感触が生まれる。
 ああ、噛まれる。
 けれど痛みは別のところからきた。左手の薬指だ。
「っが、ん、ふぁ」
 舌を捕らえられているせいで呻きはどこか上擦った声になった。間抜けなその声にルキはうっすらと笑みを浮かべて、続けて舌にキバを突き刺した。深く深く肉と筋肉を抉られ、口の中に血の味が広がる。続けざまに与えられる痛みと、口を塞がれているせいでうまく呼吸ができなくて、半開きになった唇の端から唾液混じりの血液がぽたぽた落ちていく。その血の跡を追うように彼は頬へ舌を這わせ、そのまま首筋に辿り着くと今度はそこにキバを穿った。片手で私の肩を壁に押し付け、肉を食いちぎるように皮膚に噛みつき、吐息を漏らしながら血を飲み下していく。そしてもう片方の手で次々と私の指を折っていく。
 静かに憤怒と嫉妬に狂った彼は、十本の指をへし折ったあと、自分の行為を慈しむように指に唇を落とし、また吸血を続けた。時折奇妙な方向に曲がっている指を纏めて掴んで、更に骨が砕けるほど強く握られる。これで終わりだと思うなよと言外に告げられているのか。それとも二度と指が治らないようにしたいのか。
 感覚がぼやける中でも吸血と骨折の痛みは確かに存在していて、その苦痛が私の脳みそを少しずつ鈍らせていく。希望に縋りたかった強欲な心も、ルキの傍には居られないという気持ちも、全部が叩き潰されてぐちゃぐちゃになっていく。
 ただ、訳も分からない頭が導いたのは、やはり私は彼から逃げられそうにないということだった。


(ひとつの終わりのかたち)



20141210
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