ナマエを動物に例えるなら、間違いなく猫になるだろう。

 彼女は小森ユイ以外の何物にも興味を示さず、他人を拒絶し独りで生きてきた冷徹な人物と思われているが、実際はそうじゃない。面白い本を勧めれば素直に読むし、律儀に感想まで述べる。俺が暇かつ彼女の気が向けば雑談だってする。口に合う料理が食卓に出れば顔には出さず喜んでいるし、コウやユーマやアズサに面倒な絡みをされた後は無表情で不機嫌になっている。
 基本的に表情筋の働きが鈍い女だし、感情の起伏も乏しいが、完全に感情がないわけじゃない。生い立ちのせいで他人を拒絶しがちだが、本当は誰よりも他人との関わりを持ちたがっているようなやつだ。
 ただ、当人の中で興味の有無や対象がはっきりしていて、更にはそれがその時々の気分に左右されているだけなのだ。
 気まぐれで、自分勝手で、不器用な態度で甘えたそうに擦り寄って来たかと思えば、無関心な顔をして遠ざかっていく。毛並みの良い血統書付きの猫。彼女はまさにそれだ。
 俺の弟たちも大概扱い難い連中だが、彼女は輪にかけてそうだと思う。




 朝食の時間になっても起きてこないナマエを呼びに行ったら、丁度廊下の向こう側から彼女が歩いてきた。
 寝起きだからか、金色の髪が少し跳ねているし、身体の下敷きになったとおぼしき部分は細い金糸が絡まっていた。それを指摘してやっても、彼女は屋内での身嗜みに無頓着だから、手櫛で軽く梳いただけで絡まった髪を放ったらかしにしてしまった。そのみっともない姿に思わず溜息が出る。
「ナマエ、こっちに来い」
 取り出した櫛を軽く掲げながら命令すると、数度瞬きをしてからのろのろとこちらに近寄ってきた。心得ているとばかりに俺に背を向けて立つ。長くゆるやかにウェーブした色素の薄い髪を手で掬い、丁寧に櫛を通していく。所々跳ねた寝癖も撫でつけて整えてやる。彼女は俺にされるがままになって、時折眠たそうに欠伸をしていた。
 この女が寝起きの乱れた姿で徘徊するものだから、朝は櫛を持ち歩くのが日課になってしまった。何故俺がこんなやつのためにと内心うんざりするが、気になってしまうのだから仕方ない。
 数分かけて、全体に櫛を通し終える。終わったぞ、と声をかけなくても彼女には終了のタイミングがわかるらしく、くるりと振り返り、無表情で「ありがとう」と言った。
「お前だって仮にも女なんだから、もう少し身嗜みを整えてから部屋を出ろ。みっともない姿で屋敷を歩かれたらかなわん」
「うん……覚えてたらね」
 そう言って覚えていたことは一度もない。正確には、覚えていて敢えて俺の言う通りにしていないのだろうが。その証拠に、
「でもまあ、私が忘れていたって君がどうにかしてくれるでしょ」
 こんなことを平然と言ってのけるのである。本当に手間のかかる女だ。当て付けのように溜息を吐いてやれば、ナマエは軽く首を傾げ、桜色の唇に薄い笑みを浮かべた。赤い瞳がからかうようにこちらを見上げている。なんて腹の立つ仕草なのだろう。
「コウたちで手一杯なんだ、これ以上俺の面倒を増やすな」
 眉間に皺を寄せて苦言を漏らす。これも何度も言った台詞だが、勿論彼女が従ったことは一度もない。




「ルキ、それとって」
 言いながらナマエは顎で軽くテーブルの上をしゃくった。そちらを見ればスープの大鍋とドレッシング数種類が並んでいる。迷わずドレッシングの一つを手に取り彼女に渡すと、おざなりな礼を言った後サラダにドレッシングをかけ始めた。俺のことを顎で使うのはこいつくらいなものだ。
 ふと、視界の端でコウが呆れた顔をして俺を見ていることに気がついた。
「なんだその顔は」
「いやあ……慣れって怖いなって思って。何だかんだルキくんはナマエの好みを熟知してるんだなって、ね?」
「……。その不愉快極まりない発言は取り消せ」
「あ、今図星だったんでしょ? あははは」
「…………言いたいことはそれだけか?」
「あはは……うんごめんおれが悪かったからそんなに怖い顔で睨まないで」
 取り繕われた謝罪には深い溜息で応えた。 スープとドレッシング数種類という選択肢から彼女の求めるものを選び出したことがそんなに面白いのだろうか。彼女がフォークを持っていたことや目の前にサラダの皿を置いていたことから目的がドレッシングなのは明白だし、一緒に暮らしていたらどのドレッシングを使うかくらい覚えるだろう。勿論コウたちが各々どのドレッシングを好むかだって知っている。ナマエが特別な訳じゃない。
 とはいっても、確かに言われてみれば思い当たる節もあった。気に入ったものを飽きるまで使い続ける偏食家のコウはともかく、ナマエを始めユーマやアズサは気分や体調によって選ぶドレッシングが違うが、俺は後ろ二人のそういった好みまでは把握していない。では何故ナマエの気分や体調による好みの変化まで覚えているのかと考えると、単に彼女が言葉足らずの癖に俺を顎で使うから自然と覚えてしまっただけなのだ。
 しかしそれこそがコウの言う『慣れ』なのだと気付き、自分が無意識の内にナマエの嗜好を覚えてしまっていたことに頭が痛くなった。
 そういえば彼女に勧める本も徐々に『俺の好きなもの』から『俺が気に入り尚且つ彼女も好きそうなもの』に変わっていっている。彼女の好みそうな内容が分かるようになったせいだ。一つ浮かべば幾つもコウの指摘に当てはまる事例が見つかった。
 俺の頭を悩ませている当人は素知らぬ顔で黙々とサラダを口に運んでいる。僅かに零れた薄茶色のドレッシングが桜色の唇を汚し、赤い舌がちろりと舐めとる。些細な動作ではあるが彼女がやると妙に艶かしく見えた。
「でもさぁ、毎朝やってる毛繕いもさぁ」
 コウは懲りずにまだ話を続けたいらしい。
「毛繕い? 何のことだ」
「ナマエの髪の毛梳かしてあげてるでしょ、アレだよ。見てていっつも思うんだよね、ルキくんはすっかりナマエの飼い主だなって」
 色素の薄い金色で毛並みのいい猫の姿が脳裏を過る。常々ナマエに対して「猫のようなやつだ」という印象を抱いていたことを言い当てられた気持ちになった。
 構ってやろうとした時には甘えて来ず、こちらが忙しい時や関心がない時に限って近づいてくる、気まぐれで自分勝手な猫。まあ、基本的にこの屋敷の全員を敵と思っている彼女のことだから、『甘える』と一口に言っても向こうから俺に話を振ってきたりこちらに興味を示す程度のことだが、それでも普段の彼女からすれば珍しい行動だし、十分『甘える』と表現出来るだろう。
 俺は猫が嫌いだった。褒めて甘やかせば尻尾を振って喜ぶ犬の方がよほど扱いやすいし、主人に服従する様を見ていると多少は可愛いという感情が湧いてくる。
 ナマエはスープをスプーンで口に運びながら赤い瞳を伏せていた。眠いのかもしれない。寝るなら朝食を早く終えて部屋に戻れと言いたくなる。しかしぐっと堪えた。コウにからかいのネタを提供してやる気はない。
「どうせ飼うならもう少し手間のかからない賢いペットが欲しいものだな」
「ええ〜そんなこと言いながら立派に飼い慣らしてるじゃん」
「どうでも良いがコウ、喋りながら食べてものをこぼすなよ」
「あっと、ごめんごめん」
 軽い調子で謝りながらコウはテーブルクロスの上に落ちたレタスにフォークを突き刺した。




 コウは俺がナマエを立派に飼い慣らしていると言った。他人の目からはそう見えているのだろうか。事実があいつの言う通りならどれほど良かっただろう。
 しかし実際は、むしろ俺の方が彼女の手のひらの上で転がされている始末だ。全く腹立たしいことこの上ない。何度も彼女の上に立とうと画策してきたが、そのほとんどが失敗に終わっている。流石は俺より数百年長く生きているというべきか、それともあのカールハインツ様の血を引いていると言うべきか、一筋縄ではいかない人物だ。
 そろそろあいつが床に這いつくばって赦しを請う姿が見たくなってきた。が、普段から弱味を見せない人物であるし、そもそも人の弱味の原因となる羞恥心や自尊心という概念を持ち合わせていないので、小森ユイ以外に弱味がない人物なのだ。そんな相手に一体どうしろというのか。
 コウに「ナマエの好みを熟知している」と指摘され内心苛立っていたのと、彼女の気まぐれな態度に振り回され鬱憤が溜まっていたのもあって、朝からずっとナマエをどう陥れるかの策を練っていた。




 夜中。ナマエの部屋で本を読みつつ雑談に興じていたら、いつの間にか彼女は眠っていた。俺という敵の前で寝顔を晒す彼女からは警戒心がまるで感じられず、その無防備さには呆れるしかない。しかし、俺が何故彼女をこの屋敷に閉じ込めているのか、その意図を理解しているからこそ、彼女はこうして無防備になれるのだろう。
 カールハインツ様への不信感と恨みをナマエへの暴行で昇華している俺には、生きている彼女が必要なのだ。貶め陥れたいという嗜虐心はあっても、殺すつもりはない。今のところは、だが。
 殺されないと分かっているから、……いいや違う、彼女の過去の発言を鑑みれば、『殺されても良いと思っているからこそ』俺の目の前でもこうして無防備になる。
 俺の行動原理は全てお見通しというわけだ。それが酷く腹立たしかった。
 寝顔を観察していたら、急にその唇に噛みつきたくなった。形の良い柔らかい唇に牙で穴を開けて、血を吸ってやりたい。明日起きた時に少しでも痛い思いをすればいいのだ。そんな子供じみた悪戯心が湧き上がる。
 起こさないようそっと近寄って、軽く顎を掴んだ。死んだように静かな寝姿。牙を刺すためにゆっくりと口を近づけて――。
 ふと、彼女が微かに呻き声を漏らしていることに気付く。唇が開いて、聞き取れない声で何かを言っている。よく見れば眉間に皺が寄っていた。
 夢に魘されているのか。珍しい。何度も同じ空間で眠ったことはあったが、彼女が魘されている姿は初めて見た。いや、耳をそばだてなければ聞こえないほどに呻き声は微かなものだから、俺が知らないだけで今までも夢に魘されていたのかもしれない。
 一体どんな夢を見ているのだろう。興味があった。彼女を起こし悪夢から救ってやるというつもりは毛頭ない。それよりも、彼女の寝言から内容を推測する方が大事だ。あわよくばそれが彼女の弱味に繋がっていればいいと思った。
 そんな期待を胸に、じっと観察を続けた。開いた唇からは浅い息が漏れている。白く細い指は小刻みに震え、何かを求めるように動き、やがて布団の端をぎゅっと握りしめた。よほど辛い夢らしい。苦しんでいる彼女を見ていると自然と唇が吊りあがっていくのがわかる。ただの吸血鬼と一線を画し、生を感じさせない不思議な空気を纏う彼女が、唐突に非力な存在に思えて、優越感がこみ上げてきた。
 時折大きくなる呻き声の内容や、唇の動きを読み。断片的な情報を繋ぎ合わせると、結局のところ、彼女は繰り返しこう呟いていた。
「ユイ、待って、ごめんなさい、行かないで」
 それが分かった途端脱力した。
 なんてくだらない。彼女の夢の中には小森ユイがいたのだ。どこまでもぶれない女だと感心すると同時に呆れた。
 そんなに小森ユイと共に居たいのなら、彼女を諦めたりせず、貪欲に求めれば良かったのだ。たとえカールハインツ様が小森ユイからナマエの記憶を消したとしても、共にいる方法なんて幾らでもあったはず。それを、「ユイが幸せならそれでいい」などという反吐の出そうな自己犠牲精神で身を引いておきながら、今更何を魘されているのか。
 段々腹が立ってきて、ナマエの肩を掴んで揺り起こした。
 赤い瞳が開いて、俺を見る。一瞬驚いたように目を見張っていたが、すぐに安心したように力が抜けた。小森ユイの姿が夢の存在と分かってほっとしたんだろう。こういう時だけナマエはとても分かりやすい。
 数度、魘され乱れた呼吸を落ち着けるように深呼吸してから、ナマエは普段の鉄壁の無表情を取り戻した。
「……それで、君はどうしてそんなに不機嫌そうな顔をしているの?」
 言われてようやく自分が眉を寄せていることを自覚する。が、取り合ってやるつもりはない。
「随分魘されていたな。よほど楽しい夢だったらしい」
 まあね、と。俺の嫌味なんてものともせず、いつもの彼女なら軽く流したはずだ。
 けれどナマエから返事はなかった。上体を起こし、胸の辺りに片手をおいて、軽く息を吐いている。赤い瞳が俺に視線を向けようとしない。彼女の顔には普段の鉄壁の無表情が浮かんでいるものの、どこか力のない、途方に暮れたような色も滲んでいた。
「……魘されて、私、何か言ってた?」
「ああ」
「……そう」
 出来ることなら聞かれたくなかったらしい。折角情けない姿を見れたにも関わらず、何故か気分は晴れない。腹の底でぐつぐつと何かが煮えたぎる感覚があった。
「今更何を嘆く必要があるんだ。欲しかったものを捨てたのはお前自身だろう。自業自得のくせに悲劇のヒロインぶるのはやめろ」
 やはり返事はない。普段の彼女なら、無表情で人を食ったような物言いをするというのに。
 数十秒間沈黙が降りた。赤い瞳を縁取る長い睫毛が、憂うように伏せられ、何度かまばたく。そしてふいに、視線がこちらに向いた。華奢な手のひらが伸びてきて、俺の胸に恐る恐る触れる。服越しに伝わる感触に温度はない。俺と同じ、吸血鬼の冷たい肌。手のひらは何かを確かめるように胸を撫でた。人に身体を触られるのはあまり好きではないが、自分と同じ体温を持った相手だからか、不思議と不快感はなかった。
 やがて手のひらは胸のある位置で動かなくなり、ナマエの唇からぽつりと「よかった」という言葉が零れた。
「……君の核は、まだ動いてる」
 彼女の手のひらの位置。それは人間で言えば心臓が埋まっている場所であり、俺たち吸血鬼はそこに心臓というべき『核』が埋まっている。
 何となく、話が見えてきた。彼女の夢の内容について。てっきり逆巻アヤトと小森ユイの結婚式でも追体験していたのかと思ったが、どうやらその予想は違ったらしい。
「夢に、ユイが出てきた。心臓が止まって冷たくなって動かないユイ。他の誰もいなかったし、ユイは最後に会った時の姿だったけど、人間の寿命を迎えたんだって分かった」
 俺の胸に触れる彼女の手には、核が脈打つ感触が伝わっているはずだ。
「人間の命が短くて儚いことなんてとっくの昔に知ってたはずなのに、いざユイの死体を目の前にしたら頭が真っ白になって、胸が苦しくなった。どうして私は吸血鬼なんだろう、ユイと同じ時間を生きたかったのに、って」
 訥々と語られる言葉に、相槌も打たずただ耳を傾けながら、考える。こいつが自分の内心を吐露するのは極めて稀だ。人間のような臆病心を抱えているくせに、それをおくびにも出さず鉄壁の無表情の仮面を被っているからこそ、彼女は冷徹な人物として知られていたのだ。その素顔を曝け出すような真似はまずしないはずなのに。一体何が彼女をそうさせるのか。
「ねえ、ルキ」
 赤い瞳が俺の核から顔へ視線を移す。
「君は、私より長生きしてね」
「……」
「もし私より早く死にそうなら、その時は、先に私を殺してから死んで欲しい」
「また随分な要望だな。理由は?」
「私にはもう帰る場所がない。君に殺されても良いと思ったからここに居るけれど、君に置いていかれたら、どうしていいか分からない」
「子供みたいなことを言うんだな」
「お願い、約束して」
 冗談ひとつ返せないとは、よほど切羽詰まっているらしい。胸に手を置いてこちらを見上げてくる赤い瞳は、不安げに揺れている。
 十数分前に腹の底で煮えたぎっていた激情が沈静化していくのを感じた。縋られて悪い気はしなかった。それどころか急速に何かが満たされていく。その何かの正体は分からなかったが、満たされる感覚は心地よかった。
 胸に置かれた手を握り、引き寄せる。バランスを崩してこちらへ倒れ込んでくる華奢な身体を抱きとめた。
「安心しろ。お前は俺が生きている内に、死んだ方がましだと思えるくらいの苦痛を味わわせてから、ちゃんと殺してやる」
 単なる口約束でしかないのに、ナマエはほっとしたように力を抜いて俺に身を任せた。
 それから彼女の首筋に牙を立て、ふたりで眠った。




 翌日になると、夜に見せた不安げで危うい姿なんて嘘のように、ナマエはいつも通りだった。
 起きて、髪の毛を俺に整えさせ、寝ぼけ眼を擦りながら朝食を済ませ、その後はずっと自室で本を読む。全く以って普段と何ら変わらない。ようやく聞いた彼女の弱気な発言を武器に精神的な揺さぶりをかけてみたものの、相変わらずの鉄壁無表情ですげなくあしらわれた。
 やはり扱いにくい、猫みたいな女だと思った。気まぐれにもほどがある。
 俺はますます猫が嫌いになった。



20141130
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -