目が覚めたら辺りが薄暗かった。足に冷たい地面の感触がある。頭の中を誰かに掻き回されているような不快感で吐き気がして、ユイは二度咳き込んだ。
「ようやく目が覚めたか」
 声は後ろから聞こえた。振り返るよりも早く、手首を無遠慮に引っ張られる。同時にジャラジャラと耳障りな金属の擦れる音。手首を冷たい何かが覆っている。手錠だ、と直感的に理解した。
「る、ルキくん、ここは……?」
「見ての通り地下牢だ」
「……ち、か、牢……?」
 どうしてそんな場所に連れて来られたのか全く分からない。呆然としているユイをよそに、ルキは楽しそうに喉の奥で笑うと、ユイの髪を鷲掴んで首を捻らせた。
「きゃっ、いたい……! やだ、やめて!」
「ほら、よく見てみろ」
「な、なに……?」
 首を無理やり捻られている痛みに耐えながら、ルキの指す先を見る。瞬間ユイは目を見開いた。少し離れたそこには粗末な木製の椅子と、そこに後ろ手に手錠をかけられ拘束されているナマエの姿があった。虚ろな赤い瞳がユイたちをじっと見ている。
「ユイ、お前はあの女を連れて帰りたいと言ったな。それにナマエも、出来ることならお前と共に帰りたいと言った」
 こんな状況だと言うのにユイはその言葉に喜んでしまった。ルキと意味ありげな会話をしていた時はどうなることかと思ったが、ナマエも自分と同じ気持ちだったのだ。その事実がユイをこれ以上ないほど安心させる。
 しかしその安心感を断ち切るように、ルキが「だが」と続けた。
「残念ながらあの女は今は俺のものだ。カールハインツ様の『イブからナマエを引き離せ』という命令も続いているし、何より俺にはあいつが必要だ」
「そんな……」
「とはいえ、俺だって鬼じゃない。お前たちが互いと共に居たいと願うのなら、一度だけチャンスをやる」
「チャンス、って……?」
 何故ナマエを連れて帰るのにルキの許可が要るのか不思議でならないが、結婚披露宴の時に彼がナマエに向けていた瞳を思い出して、素直に従うのが得策だろうと思った。自分がこの屋敷で暮らしていた頃の彼と今の彼は、決定的に何かが違ってしまっている。それもあまりよくない意味で。ユイはそれを本能的に理解していた。
「俺が今からすることに耐え切れば、二人とも解放してやる。此処は地下牢だから、声は上の階まで届かない。思う存分泣いても喚いても構わない。何が何でも耐え切って見せろ。そうまでして帰りたいと思うのなら、このくらい出来るだろう?」
 泣いたり喚いたりせずには居られないことをされるのか。ユイは顔を青くした。
「安心しろ、何も命を奪おうって訳じゃない。お前でも十分耐え切れるはずだ。良かったな? 俺が比較的温厚な性格で」
「……本当に、殺さない……?」
「ああ、約束しよう」
 殺されないのなら、チャンスはあるはずだ。ユイは身体の震えを抑え込んで、何とか一度首を振った。
 ルキは口元に笑みを浮かべると、徐にユイの服の背中側を縦に裂いた。驚きで声も出ないユイをよそに、露わになった白い背中に指を這わせる。
「見事に穴だらけだな。しかしこれは……全て同じ男のものか。流石に人妻になった女から吸血するほど逆巻の連中は馬鹿でもないようだ」
 白い背中に点々と残る吸血痕を冷たい指が順番になぞっていく。それは彼の言う通り全てアヤトがつけたものだった。アヤトと想いを通じ合わせてから、ユイは彼以外に吸血をされていない。更に結婚後はアヤト以外の兄弟から狙われること自体がなくなった。ユイの血は欲しいが、吸血すればアヤトが黙っていないのを皆理解しているからだ。
 アヤト以外の男に素肌を見られていることに恥ずかしさを感じると同時に嫌悪感が湧いてきて、ユイは逃げるように身を捩った。
「なんだ、もうギブアップか?」
 からかうように言われてて慌てて静止する。
「…………ち、違うよ。大丈夫、だから」
「そうか」
 指先がまたアヤトの吸血痕をなぞる。まるでこんなに沢山吸血されているんだな、と言外に揶揄するように、ゆっくりと、場所を一つずつ確かめていく。
 ユイは心の中で何度もアヤトに謝罪を繰り返した。ごめんなさい、アヤトくん以外の人に身体を見られて、ごめんなさい。ぎゅっと目を瞑って辱めに耐える。
「女は処女を失うと血の味が変わるらしい。
当然この屋敷で暮らしていた頃と味は違っているんだろう?」
「なっ……!」
 アヤトとの行為を暗に仄めかされてユイの顔が真っ赤に染まった。
「吸血鬼の男に散々貫かれて穢された身体はどんな味の血が流れているんだろうな。良い機会だ、思う存分味見させて貰おう」
 嘲りの言葉と共にルキがユイの背中に舌を這わせた。腰の辺りからアヤトの吸血痕を順番に辿り、そして首筋に至る。逃げそうになるユイの腰を掴んで、身体を強張らせるユイを馬鹿にするように鼻で笑うと、首筋にキバを突き刺した。
「う、ぁ……!」
 気力も体力も、身体の中から全てを奪われていくような感覚と、同時に襲いかかる尋常ではない疲労感。全身に鈍い痺れが迸り、指先の感覚が薄れていく。ほんの少し吸われただけだというのに、全力疾走した後のように心臓がばくばくうるさかった。
「ほら、お前が吸血されている時の顔をナマエによく見せてやれ」
「やっ、やだ! んっ……!」
 顎を掴まれナマエのいる方に固定され、赤い瞳と無理やり視線が合わせられる。その手から逃れようとしても続け様に与えられる吸血の快感と疲労感で身体の自由が利かない。
 アヤト以外の男に素肌を見られ吸血された罪悪感よりも、自分が吸血されている様をナマエに見られていることが何よりも恥ずかしくて悲しかった。アヤトに吸血の快楽を教え込まれ、その快楽を自覚してしまったこの身体が、吸血中どんな反応をしているのか、自分がどんな顔をしているのか、ユイはとっくに知ってしまっている。まるで盛りのついた雌猫のような顔。アヤト以外の男に吸われているというのに、この身体は吸血の快楽に忠実で、嫌なのに気持ち良いと思ってしまう。
「ああ……相変わらず血だけは極上だな。昔と味は違うが、今のも悪くはない。自分の持つ欲を知り尽くした女の味がする」
「……っう、あ、あ」
「たった数年、されど数年、か。この屋敷で暮らしていた頃から随分と汚れたらしいな。逆巻アヤトにどんなことをされたんだ?」
「やだ、やめて……」
「ならば諦めるか」
「…………」
 自分とアヤトのプライベートを土足で踏み荒らすような彼の言葉はとても聞いていられるものではない。羞恥心と屈辱で涙さえ浮かんだ。けれどこれを耐え切ればナマエと共に家に帰れるのだ。自分さえ我慢すれば全てが解決する。ユイは唇をぎゅっと引き結んで、首を横に振った。
 ルキは次々とユイの身体にキバを突き刺していった。アヤトの吸血痕を全て潰し、それよりも多く傷痕を作っていく。
 他の男に散々吸われたと知ったらアヤトは怒り狂うだろう。その怒りの矛先はルキだけでなくユイ自身にも向けられるはずだ。下手をすれば殺されるかもしれない。けれどユイにはそんな簡単なことを想像する力も残っていなかった。ただナマエと一緒にもう一度暮らしたいという願望だけが彼女の意識を繋ぎとめていた。
 ルキに遠慮なく血を吸われたせいでユイの身体は限界を迎えつつあった。貧血で頭痛と吐き気が止まらない。視界の端が徐々に白く染まっていく。
 それでも、これを耐え抜けば願いは叶うのだ。ルキは理不尽な人物であるが、自分で取り付けた約束を反故にするような人ではない。殺しはしないと言ったのも、耐え切れば二人を解放すると言ったのも真実なのだ。
 だから耐えられる。心を殺してただ耐えればいい。それでもこちらを射抜き続けるナマエの赤い瞳を見るのが辛くて、ぎゅっと目を瞑った。
 その時、ルキの指がユイの背中を横断する下着のホックを外してしまった。
「え……?」
 ユイは呆然と目を見開いた。ガチャリと音がして、その直後手首が解放される。手錠が外されたのだ。
 やっと終わったのか。俄かに沸き起こる安心感。しかしそれを叩き潰すように、ルキがユイの手首と肩を掴んで冷たい地面に仰向けに押し倒してしまった。
「え、えっ、やだ、なに……っ!」
 ユイに馬乗りになったルキが両手首を捕らえて彼女の頭上で再び手錠をかけてしまう。
 冷たい手のひらが蛇のように太腿を這い、スカートの裾から中に侵入してきた。内股を何度も撫で上げられ、彼の行為の意味することを理解した途端、ユイの目から涙が落ちた。それを見たルキが呆れたような顔になる。
「何を勘違いしていたのか知らないが、吸血ごときで終わるはずがないだろう?」
「や……お願い、それだけはやめて……!」
「注文の多い奴だな。『殺しはしない』その条件だけで俺は十分譲歩している」
「だって、こんなの……っ」
 ポロポロと涙を零すユイを感情の読めない目で見下ろしていたルキが、スカートから手を抜いてユイの顔の両横につき、顔を近づけてきた。鼻が触れそうな距離で、離れたところにいるナマエには聞こえない、内緒話でもするような小声で囁かれる。
「俺にはあの女が必要なんだ。それでもお前が彼女を連れて帰りたいというのなら、それ相応の覚悟を見せて貰わなければ俺とて納得のしようがない」
「……」
「お前は欲張り過ぎたんだよ、イブ。お前は自分を愛してくれる男一人で満足しておくべきだったんだ。他人の大事なものを奪おうとすればどうなるか、身を以って学んで帰るといい」
 またこの目だ。あの日、遠ざかるナマエの背中に向けられていたルキの視線。得体の知れない感情がドロドロ渦巻く、狂気じみた光を孕む瞳。
 恐い、と思った。自分の心までその黒い感情で塗り潰され、底のない沼に突き落とされるような。心臓に見えないナイフを突きつけられているような。そんな想像が脳裏を掠めて、背筋がぞっと冷えていく。
「どうして、」
 そうまでしてナマエを引き留めようとするのか。
「ル、キくんは、ナマエちゃんが、好きなの……?」
 口に出した後やってしまったと思った。同じような質問はあの日もした。そして否定されたのだ。今の彼の気分を害すればどんな目に遭わされるかわかったものではない。
 しかし怯えるユイの予想とは対照的に、ルキは口元を緩めて軽く首を傾げただけだった。
「さあ、どうなんだろうな。お前はどう思う、イブ?」
 問いのようでありながら独り言のようであった彼の言葉を最後に、内緒話は終わった。
 ルキの顔が下がっていき、今度は首筋に舌が這わされる。手のひらはまたスカートの裾から入り込んでいた。慌てて抵抗しようとするが、手首を頭上で拘束され覆い被さられている状況では大した抵抗は出来ない。
「パーティで見た時は少しは大人びたと思っていたが、短慮な所は相変わらずのようだな。お前は俺を訪ねてきたと言っていたが、此処は曲がりなりにも吸血鬼が住む屋敷だぞ? それがどれほど危険なのかお前はよく知っているはずだ。それなのに番犬も連れずひとりでノコノコやってくるとはな」
 番犬、アヤトのことだ。
 彼の言う通りだ。確かに今日アヤトは魔界で用事があると言っていたが、それなら日を改めてついてきて貰えば良かった。彼が居ればユイはこんな目に遭わず済んだ。
 けれどユイは最初からアヤトを連れてくるつもりがなかった。吸血鬼の住む屋敷を舐めていた訳ではない。自分でもどうして独りで来ようと思ったのか分からなかった。
 どちらにしろルキの言う短慮だったことに変わりはない。
「やだ……やだよ……ナマエちゃん、助けて……」
 気がつけばユイはそんな懇願を口にしていた。呼びかけた相手から返事はなく、代わりに楽しげな男の笑い声だけが聞こえた。
 ユイの頭の中で薄暗い考えが首をもたげる。
 そもそもどうして彼女は今の今まで黙ってこの出来事を観察しているのだろう。視界の端にうつる赤い瞳は虚ろでありながら決して逸らされることなく自分に向けられている。まるで一部始終全てを目に焼き付けるがごとく、一度も逸らされることはない。
 自分が逆の立場だったらどうだろう。椅子に縛り付けられ、ルキに吸血され犯されるナマエを見て、黙っていられるだろうか。自問の答えはすぐに出た。そんなの不可能だ。大切な人が傷つけられるのを見ていられなくて、やめて欲しいと叫ぶはずだ。
 ならば、制止どころかなに一つ言葉を挟んでこないナマエにとって自分とは一体何なのだろうか。そんなナマエへの疑いの気持ちがどんどん膨らんでいく。
 いや、きっと優しい彼女のことだ、何か事情があるんだろう。そう信じたい気持ちと、けれどこの数年の間に彼女が変わってしまったという可能性が捨てきれなくて、ユイの中で二つの考えが鬩ぎ合う。そして一度沸き起こった不信感は、ユイを絶望に突き落としてしまう。自分が何故ここにいるのか、どうしてこんな酷い目に遭っているのか、この責め苦に耐える意味はあるのか。全てを見失ってしまいそうになる。
 ルキの手が下の下着にかけられた。
 けれどもう、どうでも良いかと思った。ナマエが自分のことをどう思っていようが、この苦行を乗り越え彼女と共に帰れるのなら。彼女を、独占出来るなら。
 それはユイが何か大事なものを捨ててしまった瞬間だった。
 男の手が下着を下げていく。そして、

「ルキ」

 澄んだ声を聞いたのは随分久しぶりのように感じた。いつの間にか視界を覆い尽くすほど涙が溢れていた。ユイは瞬きをして涙を落とすと、重たい頭を動かしてなんとかナマエの方を見た。いつの間にかルキの手も止まっていた。
「ごめん、ルキ。私が悪かったよ」
 ユイにはその謝罪の意味が分からなかったが、言葉を向けられた当人はそれだけで全てを理解したらしい。
 ユイの上から退き、ポケットから細長い鍵を取り出してユイの両手首を拘束する手錠を外した。
「やはりお前の方が先に音を上げたか。思っていたより早かったな」
「どういうこと……?」
 痛む身体を何とか起こし拘束され赤くなってしまった手首を摩りながら、読めない状況を問うと、ルキは心底楽しそうに笑いユイの耳元で小さく囁いた。
「お前が寝ている間、あいつにはこう言ったんだ。『イブが何をされても一言も喋らず一部始終を目に焼き付けていろ。逆らえばお前の目の前でイブを犯して殺してやる』とな」
「え……」
 ナマエはやはり事情があってただ見ていたということか。ならば、自分が考えていたことは……。
「俺には分かったぞ。お前が下着に手をかけられ、全てを投げ出したあの瞬間。お前はナマエに見捨てられたと疑っていただろう?」
「……!」
 内心を見透かされ、驚きに目を見張りルキを見返した。
「なんだ、図星か」
「ち、ちが」
「あいつも可哀想な女だな。あいつだって半分は人間の血を引いている。唯一大事に思うお前が目の前で俺に犯されて何も思わないはずがない。それなのに、当の本人からその思いを疑われるなんてな」
「ちがう、ちがう、私は!」
「何も違わない。お前の彼女への信頼なんてその程度のものなんだ」
「そうじゃないの、ちがう……」
 頭が真っ白になって、訳もわからずただ否定の言葉だけを繰り返すユイを、ルキは憐れみと軽蔑の入り混じった瞳で見ていた。
「やはりお前にあの女は相応しくない。残念だったな」
 小さな顎を鷲掴んで、混乱しているユイでも理解できるように一言一句はっきりとした口調でそう言った。
 絶句するユイから離れ、ルキはポケットからもう一本細長い鍵を取り出しながらナマエに歩み寄っていき、彼女の手錠も外した。ガチャンと鈍い音を立てて手錠が床に転がる。
 それからごく自然な動作で、ルキは白い頬に手を添えて口付けをした。それは何度も繰り返された日常的なことのような自然さだった。何度も唇や舌を吸う、まるで情事を思わせる水っぽい音と、聞いたこともないようなナマエの高い吐息が微かに聞こえてくる。
 赤面し恥ずかしい気分になりながら、それでも目の前の光景が信じられず目を逸らすことも出来ないユイの目の前で、ルキは流れるような手つきでナマエの服の首元を緩めそちらに顔を埋めた。何度も経験したユイにもわかる。吸血しているのだ。ナマエも抵抗一つせず、当たり前のことのようにそれを受け入れている。
 欠けていたピースがはまったような納得感があった。あのふたりがどんな関係なのか。どうしてユイが「一緒に帰ろう」と言った時、ナマエは即答せずにルキの様子を窺っていたのか。
「ユイ」
「……え、?」
 ルキに首筋を好き勝手吸血されながら、平然とした顔でナマエが呼びかけてきた。虚ろだった赤い瞳には、幾分普段の光が戻っている気がした。
「ここまで来てくれてありがとう。本当に嬉しかった。私のことを思い出してくれたのも、嬉しかった。でも、私のことはもう忘れて。二度とここには来ないで。ただアヤトのことだけを大事にしてあげて」
「な、なに言ってるの、ナマエちゃん……そんなの」
 そんなのまるで、決別の言葉ではないか。もう永遠に会うことはないとでも言うような。いいや、事実彼女はそのつもりなんだろう。
「上にはコウもユーマもアズサも居るから、誰かに私の部屋の場所を訊いて、適当に服を着て帰って。その服じゃ外、出歩けないだろうから」
「待って、……ナマエちゃん、ちょっと、待って」
 頭が状況を理解してくれない。いや、理解したがらない。楽しくもないのになぜか笑ってしまいそうになる。それなのに涙がぽろぽろこぼれていく。床にぺたんと腰をつけたまま、ただ縋るようにナマエに手を伸ばすが、当然届くはずもない。
 ルキの手があっという間に上の服を剥いでナマエの白い胸元を露わにしてしまった。ユイもほとんど見たことがないそこに無造作に唇を落としていた彼がユイの方を振り返る。
「まだ見ていたいと言うなら止めないが、きっとナマエに幻滅するぞ。それでも良いのか?」
「……酷い言いようだね、君」
「事実じゃないか」
 気が付けばユイは立ち上がり、重たい身体を引きずって地下牢を後にしていた。




 無心で屋敷を歩き回り、廊下の向こうから歩いてきたアズサに案内してもらってナマエの部屋から服を数枚拝借した。まるで逆巻邸で暮らしていた時のような、物の少ない、けれど所々に本が置いてある、『普通の』部屋だった。おかしな気分だった。ユイは何故か監獄のような部屋でナマエが生活していると思い込んでいた。
 屋敷を出て、重たい身体を引きずりながらの帰路。暫く歩き続けているうちに、ようやくユイの頭は回転し始めた。
 きっと全ては自分の傲慢から始まったことなのだ。自分がナマエを大事に思っているように、ナマエも自分を大事に思ってくれている。根拠もなくそう信じ込んでいた。いや、きっとそれは事実なのだろう。ただ勘違いしていたのは、過去から今までナマエにとって孤独を埋める唯一の存在が自分であると思ってしまったことだ。
 ユイがナマエのことを忘れて十年近くが経っている。時間は止まることなく流れ続けている。容姿に変化のない吸血鬼にだって同じだけの時が流れているのだ。何も変化がないはずがない。
 ユイが知らないうちに、ナマエはルキというもうひとつの孤独を埋める手段を手に入れてしまったんだろう。
 ふたりの間にあるのは恋だとか愛だとか、そんな単純な言葉で言い切れたりする、純粋で綺麗な好意だけではないだろう。それは結婚披露宴の時や、先ほどのルキの瞳に込められた感情を見れば明らかだ。
 けれどふたりは確かに、互いを必要とし、何かの絆で繋がっている。それはもうユイが入り込む余地のないものなのだ。
 もし、もっと早くナマエのことを思い出していたら、何かが違ったんだろうか。あるいはナマエがアダムとして覚醒しなければ、自分たちは一度も離れずに済んだのだろうか。
 一瞬浮かんだ仮定を、けれど即座に否定した。きっとどうにもならなかった。ユイがナマエという存在に惹かれたのも、ふたりが親しくなったのも、そうしてナマエがアダムとして覚醒してしまったのも、それをカールハインツが壊そうとしたのも、ルキが彼女を手にしてしまったのも、全ては必然だったように思えてならない。
 今更になってユイはどうして自分がアヤトに行き先を告げずあの屋敷に向かったのかを理解した。きっと自分の中ではアヤトよりナマエの方が大切だったのだ。彼女への感情がただの友情なのか、それを超えた感情なのかは関係無い。ただナマエという存在が、ユイの人生で最も大事な存在だっただけ。だから最愛の存在であったはずのアヤトに後ろめたさを感じて、詳細を告げる気になれなかった。
 けれど自分はそれほどまで大切に思っているナマエさえ疑ってしまった。
「結局、私が独りで空回ってただけなのかな……」
 そうひとりごちたユイの目から涙がぽろぽろこぼれ始めた。
 自分の短慮で旦那以外の男に吸血されてしまったことへの罪悪感、嫌悪感、そしてナマエを信じきれなかった自分への嫌悪で、ユイの胸の中に黒い感情が溢れ出す。
 今更ルキに嫉妬したところで、もう遅いのに。




「君も酷いことするよね」
「……ん?」
 ふたりは未だ地下牢にいた。椅子から降ろされ床に座るナマエの右の手のひらをルキが舐めている。そこには深い刺し傷があった。目の前の男がユイに吸血している時、強く手を握り締めたせいでついた傷だった。吸血鬼の爪は下手なナイフより鋭い切れ味を持つと言われている。白い手のひらを赤黒く染めるのは、何重にも重なり肉が抉れた、深く痛々しい傷だった。
 傷痕を嬲るように舌を這わされ唾液が沁みても、ナマエは顔色一つ変えずそれを受け入れていた。
「あんな状況で私を疑わない聖人君子なんてこの世には存在しないよ。それなのに、まるでユイを責めるような言い方するなんてね」
「ああ、あれか。なんだ、聞こえていたのか」
「聞こえるように言ってたくせに」
 人間ではあの囁き声は聞こえなかっただろう。けれど吸血鬼は人間の数倍鋭い五感を持っている。あの程度の会話を聞き取るなど造作もない。
 先ほどの光景を思い出したのか、ルキは楽しそうに唇の端をつりあげた。
「きっと今頃彼女は自分を嫌悪しながら帰路についているんだろうな」
「……」
 何度も言ってきた言葉だが、改めてナマエは「この男は性根が捻じ曲がっている」と思った。
 彼女の言う通り、あの状況でナマエを薄情と思わないはずがない。ユイはナマエのためにルキから暴行を受けていたというのに、当の本人は心配も制止もせずただ無言でその出来事を眺めていたのだ。あれでナマエを疑わない方がおかしい。
 更には、ナマエが降参した後にルキがユイに囁いた言葉。あのせいで、ユイは必要以上に自分を責めてしまうだろう。直前までの吸血の疲労で心身ともに限界だったユイには、否定をするだけの思考力は残されていなかったはずだ。そんな精神状態の彼女にルキは「お前が悪いんだ」と罪悪感を刷り込んだ。きっと彼女は何も疑うことなく自分が悪いのだと思い込んでしまったに違いない。
 それを全て分かった上でやっているというのだから、これで性根が捻じ曲がっていないと思う方がどうかしている。
「他人のものに手を出そうとすればどうなるか、これで愚鈍なイブでも理解出来ただろう。多くを望めば身を滅ぼす、ともな。慈善事業をしたあとは気分が良い」
「随分押し付けがましい慈善事業があったものだね」
 あの時。
 ダイニングでルキが振舞った紅茶。ユイのカップには睡眠薬が混ぜられていた。それを飲み干し意識を失ったユイを手錠で拘束しながらルキは「そんなにこいつと家に帰りたいのならチャンスをやる。この女に俺が何をしても一切口を挟まず目も逸らさず一部始終を見ていろ。それに耐えられたら解放してやる」と言った。「お前が降参する前に逆らったり、俺を殺そうとすれば俺は迷わずこの女を殺す」とも。
 吸血鬼にとって鉄製の手錠など拘束にもならない。引きちぎろうと思えば簡単に引きちぎれた。けれどそれをしなかったのは、そんなことをすればルキがユイを殺すのが分かっていたからだ。彼はやると言えば必ず実行する男だ。冗談で殺人予告をするほど悪趣味な人でもない。
 出来ることならユイがルキの条件を飲まず逃げてくれればいいと思っていた。けれど声を出すなと言われているナマエにはそんな助言さえしてやれない。結局心優しいユイはナマエを想ってルキの条件を受け入れてしまった。
 ユイがアヤト以外の男に吸血され屈辱に泣いているのは到底耐えられる光景ではなかった。何度手錠を壊してルキを引き剥がそうと思ったか分からない。けれど自分がルキの元へ辿り着くよりも早く、彼はユイの首をへし折ってしまうだろう。結局手のひらに爪が食い込み血が溢れるほど強く手を握りしめて耐えることしか出来なかった。
 ユイが犯されそうになって、彼女が全てを投げ出したような虚ろな瞳をした時、もうダメだと思った。ユイが殺されることはもちろん、彼女が壊れてしまうのも、ナマエにとって耐えられることではない。
 帰れるならユイと一緒に帰りたかった。けれどユイが犯されるのを見ているくらいなら、彼女を逃がして自分が然るべき罰を受けた方がマシだった。
「当然、分かっているな」
「もちろん」
 内容を聞かずとも彼の言うことは理解できる。そう、然るべき罰。
 この男が、「叶うならユイと帰りたい」などと口にしたナマエを許すはずがないのだ。彼はナマエの所有者であり、その生殺与奪を、更には精神の在り方さえを支配している。そんな彼女が彼を捨て自分の太陽に手を伸ばすなど、望むこと自体許されないのだ。
 ユイへの吸血は、彼女自身にナマエを諦めさせることと同時に、ナマエへの罰も目的としていた。お前のせいでユイはこんな目に遭っているのだと知らしめるために。
 けれどあれしきのことでこの男は満足しない。一体何をされるのか分かったものではないが、ユイが無事なら、もうそれでいいかと思った。どうせとうの昔にこの男に捧げた命と身体だ。今更どうされたところで痛くも痒くもない。
「もし本当に耐え切ったら、私を解放する気だったの?」
 ふと浮かんだ疑問だった。
「ああ。約束を反故にするほど俺は落ちぶれていない」
「ふうん」
「正直、イブの方は耐え切るかもしれないとは思っていた。だがお前が音を上げるのは分かり切っていたからな。どちらにせよ俺にとって結末は同じだ。お前の心の脆さは俺が一番よく知っている」
「……うん、君の言う通りだよ」
「最初、吸血された段階で俺を止めなかったのも、『もしユイへの吸血で済むなら彼女を犠牲にして解放されたい』とでも思っていたんだろう」
「…………それも君の言う通り」
 ナマエは苦笑いした。結局自分は薄情で、ユイには相応しくないと思い知らされた。一瞬でも吸血でルキが満足するなら、などとユイの好意に甘えて彼女に犠牲になってもらうことを考えてしまったのだから。
「イブが記憶を取り戻して良かったな」
 揶揄するように言ったルキの肩に額を押し付けて、ナマエは小さな声で答えた。
「……こんなことになるなら、思い出さない方がマシだったよ」
「ああ、お前はそうだろうな」
 自分の手を包み込んだユイの小さな手とは似ても似つかない大きなそれが、子供をあやすようにナマエの後頭部をゆっくりと撫でる。
 慣れ親しんだそれを心地よいと思ってしまうのだから、最初からこの屋敷を出る資格なんてナマエにあるはずがなかったのに。どうして目の前に現れた希望に縋ろうとしてしまうのか。何度同じことを繰り返せば気が済むのか。
 頭の中でぐるぐる回り続ける自己嫌悪の思考に滑り込ませるように、耳元でルキが囁いた。
「さあ、次はお前の番だ。俺を裏切ろうとした罪、しっかりと償って貰うぞ」
 押し当てられたナイフは最初に何処を切り裂くのだろうか。全てを受け入れるようにナマエはゆっくりと目を閉じた。


(ひとつの終わりのかたち)



20150127
20150130 修正
決してユイちゃんを虐げたいわけではないです
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