※無意味に胸糞





 ユイにとって高校時代は人生の転換期であった。
 父親の海外転勤に伴い彼女は知人の家に預けられることになった。そこに住む逆巻の姓を持つ六人兄弟は人間ではなく吸血鬼で、ユイの心臓が彼らの母親の一人・コーデリアのものであることが判明した。極上の血を持つユイは、六人の吸血鬼に身体を狙われながら生活していた。
 その暮らしを始めて一ヶ月経った頃、彼女の目の前に『無神』を名乗る四人の吸血鬼が現れた。彼らは逆巻兄弟の父であり吸血鬼の王でもあるカールハインツの手駒で、『アダムの林檎計画』を成す為にユイを付け狙っていた。
 一度は無神邸に拉致されたユイであるが、ひょんなことから逆巻邸に帰ることができ、そこから逆巻の三男であるアヤトと想いを通じ合わせることになった。
 今はアヤトと婚姻関係を結び、神無町にある逆巻邸と魔界のカールハインツの城を行ったり来たりしながら生活している。魔王の血を引く女の心臓を持つユイを手に入れたことで、吸血鬼の王の座はアヤトが継ぐことになっていた。
 愛する男との暮らしは幸せに満ちていた。想いを通じ合わせる以前は、吸血鬼と人間の価値観の違いや、アヤトの幼少期のトラウマに根差す不信感などで幾度となく衝突を繰り返したが、今ではふたりなりの結論を見つけることが出来た。人間であるユイは、永遠に等しい命を持つアヤトよりも遥かに早くその命を終えることになる。別れはそう遠くない。けれどふたりは今この瞬間を共に過ごせることにこの上ない幸福感を抱いていた。
 しかしそんな一点の曇りもないような生活の中、ふとした時にユイの心に影が射す。それは決まって高校二年生の時、嶺帝学院に転校してからの数ヶ月間を思い出す時だった。
 脳裏に写真のように思い起こされる高校時代の情景、その所々に、まるで鋏で切り取ったように空白があった。逆巻邸で食事をしている時、登下校中のリムジン、繁華街を歩いている時、公園を散歩している時。そんな様々な日常の風景から、何かが失われてしまっている。
 それに、無神邸から逆巻邸に帰ることが出来た理由や、そこからどうしてアヤトと深く関わるようになったのかもイマイチ思い出せなかった。嶺帝学院に通い始め数ヶ月間の記憶には虫食いが多く、特に一時期に関しては記憶そのものが曖昧なのだ。
 記憶の空白には何があったのか。それとも最初から何も無かったのか。どうして記憶が曖昧な時期があるのか。ユイには何も分からないが、ただ「自分は何か大切なことを忘れてしまっている」と思った。脳裏に浮かぶ空白を見つめる度、ユイの胸には形容し難い寂寥感が沸き起こった。だから何も無かったはずがないのだ、と。
 失われたものの正体を探し日々を送っているうちに、ふと自分とアヤトの結婚披露宴のことを思い出した。
 久しぶりに会った無神ルキが連れていた『ナマエ』という女性のことが妙に気にかかった。彼女はユイと初対面だと言っていたけれど、ユイにはそう思えなかった。絶対に以前どこかで会ったことがある、そう確信出来るほどの既視感を覚えたのだ。彼女と話をする時、ユイの頭のどこかで「大事なことを忘れているぞ」と誰かが警鐘を鳴らしていた。
 そう、まるで高校時代を思い出している時のように。
 その共通点に気付いたとき、ほんの好奇心で、自分の記憶の空白の部分に『ナマエ』を当てはめてみた。ドレス姿の女性が制服姿の自分や逆巻兄弟の中に混じっているのは少し滑稽な光景だった。けれど何故かとても懐かしい感じがした。
 そう思った瞬間、頭の中で硝子が砕けるような甲高い音が聞こえ、突如記憶が怒涛の如く押し寄せてきた。今まで空白だった記憶の全てに『ナマエ』という存在が埋まっていく。ユイは彼女のドレス姿しか知らなかったはずなのに、記憶の中にいる彼女はユイと同じように嶺帝学院の制服に身を包んでいた。
 彼女が一体何者で、ユイとどんな関係だったのか。どんな性格だったのか。全ての記憶が蘇っていく。
「ナマエちゃん……」
 やっぱり初対面なんかじゃなかった。
 あの澄んだ声が「ユイ」と親しげに自分を呼ぶのも、ほんのたまに見せてくれた柔らかい笑顔も、わかりにくい遠回しな優しさも、全部鮮明に覚えている。
 何よりも大事な人だったのに、どうして忘れてしまっていたんだろう。




 彼女の本当の名前は逆巻ナマエだった。しかし何故か逆巻兄弟の誰に問うても『ナマエ』という姉や妹が居たことを覚えている者は居なかった。一応アヤトはその名を知っていたものの「披露宴の時にルキが連れていた女」という認識でしかなかった。
 縋るような思いで嶺帝学院に電話をかけてみたが、返事は「逆巻ナマエなどという生徒は居なかった」という期待外れのものだった。
 どこを探しても『逆巻ナマエ』という人物が存在した痕跡が無い。
 何故自分を含め誰もが彼女の存在を忘れているのだろう。それとも自分の記憶違いなのだろうか? けれど記憶の空白にナマエを当てはめた時の「あるべきものがあるべき場所に収まった納得感」は錯覚ではないはずだ。
 訳が分からないことだらけで頭がどうにかなりそうだった。何故誰もが彼女のことを忘れているのか。何故逆巻の家の者であるはずの彼女が逆巻邸に居ないのか。どうしても真相が知りたかった。
 唯一の手掛かりはルキの存在だ。きっと彼女と共にいた彼なら何かを知っているはず。もしかしたら今も一緒に居るかもしれない。
 幸いほんの短い間無神邸で暮らしていたユイは屋敷の場所を覚えていた。彼がまだそこに居る確証はなかったが、他に案が浮かばないユイはひとまず記憶を辿ってその屋敷に行ってみることにした。アヤトは魔界で用事があるらしく同行は出来ないそうだ。ユイも理由の分からない後ろめたさがあって、アヤトに行き先の詳細を話すつもりはなかった。不審げなアヤトを何とか説得し、ユイは外出の許可を得た。




 曖昧な記憶を辿ってやってきた先には、記憶の中にある通りの屋敷が残っていた。
「ごめんください!」
 大きな声で叫びながら玄関の扉に手を打ち付けた。反応はなく、叫んだ後の辺りは静寂に満ちていた。
 誰も居ないのだろうか。けれど玄関から伸びる石畳や噴水のある芝生は綺麗に整備されていて、今も人が住んでいることを窺わせていた。
 もしかするとこの屋敷にはもう別の誰かが住んでいるのかもしれない。その誰かは今この屋敷から離れていて、中は無人なのかも。あるいは突然現れた見知らぬ女を警戒し屋敷の中から様子を窺っているのかもしれない。最悪の場合怪しい女が玄関を叩いていると警察を呼ばれてしまう可能性もある。
 そう考えると無性に逃げ出したくなった。それでもせめてここに誰が住んでいるのかだけは確かめたい。踵を返しそうになる足をなんとか踏ん張ってもう一度玄関に手の甲を打ち付け、「ごめんください」と口を開きかけたところで、扉は呆気なく内側から開かれた。
「あ……」
「なんだ、珍しい客だな」
 そこには結婚披露宴の時から、いや、高校時代から何一つ変化のない無神ルキと、その後ろには探し求めていたナマエの姿があった。
 探していた人物に思いがけず出会えたことで頭の中は真っ白になった。呆然と立ち尽くすユイを黒と赤の瞳が見つめている。
 戸惑っているのはユイだけではないようで、赤い瞳の持ち主も僅かに目を見開いてユイを凝視していた。人形のように整ったその顔は表情の変化に乏しい。それなのにユイには彼女の感情の機微が手に取るようにわかった。何年も忘れていたはずなのに、まるで昨日も会ったような不思議な感覚だった。
 ただ一人平静を保っているらしいルキが軽く後ろにいるナマエの方に振り返る。
「ナマエ、部屋に戻っていろ」
「……わかっ、」
「待って!」
 彼女が踵を返した瞬間、ユイは慌てて制止の言葉を叫んでいた。斜め上から射すような視線を向けられるが、それを無視して真っ直ぐナマエを見つめる。
「私はナマエちゃんに会いに来たの」
 昔の呼称を持ち出せば、ナマエは先ほどよりも目を見張り、ルキは成り行きを見守るようにじっとユイを観察していた。




 いつまでも玄関先にいるのは何だからとダイニングに案内された。学生時代ほんの短い間だけ暮らした頃と配置が全く変わっていなくて、妙な懐かしさを覚える。
 長方形のテーブルの短い辺にルキとユイが向かい合うように座り、長い辺にナマエが腰を落ち着けた。
「今日は旦那は居ないのか」
「うん、アヤトくんは魔界でお仕事なんだって」
「そういえば、王座はあいつが継ぐことに決まったらしいな。あの短気な男にカールハインツ様の後継が務まるとは到底思えないが」
「あはは……でもアヤトくん、真面目に王座継ぐために頑張ってるんだよ。高校時代とは見違えたんだから」
「照れもせずに惚気られるようになるとは、お前も随分変わったらしい」
「結婚して数年経つからね」
 当たり障りなく交わされた近況報告がそこで一旦途切れ、ルキが本題を切り出す。
「それで、お前は何のためにこの屋敷に来たんだ」
「ルキくんに色々聞きたいことがあって。それから、ナマエちゃんを探してたの」
 言葉の代わりに黒い瞳が先を促すように細められる。ユイはここに来た経緯を全て話した。
 高校時代のことを思い出すと何故か記憶に欠落があること。結婚披露宴の時にナマエに会い、妙な既視感を覚えたこと。ナマエは「初対面だ」と言ったけれど、そうは思えなかったこと。記憶を取り戻したこと。そして自分以外の誰もがナマエの存在を忘れていること。結婚披露宴にナマエを連れてきたルキなら何かを知っているかもしれないと思いこの屋敷を訪ねたこと。
 相槌も打たずルキは黙って話を聞いていた。話題に挙がっているナマエ本人は何を考えているのか、どこか虚空を眺めてぼうっとしていた。
「順番に答えてやろう。まずお前や他の連中がナマエの存在を忘れていた理由だが。彼女の存在が『アダムの林檎計画』を成す上で不都合だったため、カールハインツ様が記憶を改竄した。そもそも、今でこそ逆巻アヤトがアダムとして覚醒しているが、最初に覚醒したのはナマエの方だった」
「え……そうなの?」
「なんだ、覚えていないのか」
「……うん」
 ナマエの存在を思い出したとはいえ、失っていた記憶の全てを取り戻した訳ではない。特にどうして自分が無神邸から逆巻邸に返されたのか、何をきっかけにアヤトと深く関わるようになったかなどは未だによく思い出せないのだ。自分の夫との馴れ初めもまともに思い出せないなんて、とユイは内心自己嫌悪してしまった。
「『アダムの林檎計画』については?」
「アヤトくんのお父さんから、少しだけ話を聞いたよ。特別な心臓を持った人間の女と吸血鬼の男から生まれる子供が、世界の系譜を塗り替えるって」
「そうだ。ナマエがアダムとして覚醒したところで、同性のお前との間に子供は作れない。だからカールハインツ様はお前たちの記憶を改竄し、お前から彼女を引き剥がすように命じた」
 アヤトの父親が自分の計画に邪魔だから大勢の者の記憶を改竄してまでナマエの存在を消したなんて、にわかに信じられることではなかった。ユイはカールハインツとあまり面識がない。まともに話をしたのはアヤトとの結婚を認められた時と、結婚披露宴の時くらいなものだ。その時の印象は、神秘的な空気を纏った優しそうな人、というものだった。あの優しそうな人がそんな酷いことをするのだろうか。
 しかしアヤトを始めとした逆巻兄弟は父親に対してあまりいい印象を持っていないようだった。彼らが父親との間にどんな確執があるのか、ユイは詳しく知らない。けれど彼らがあれほどまでに父親を嫌っているのなら、それ相応の理由があるようにも思えた。ユイが詳しく知らないだけで、記憶の改竄をして存在を隠蔽してしまうこともあり得るのかもしれない。
 存在を隠蔽するなんて、まるでナマエを意思を持つひとりの人物としてではなく物のように扱っているみたいで、ユイは気分が悪くなるのを感じた。こっそりナマエの方を窺い見るが、彼女はユイの方を向こうとはしなかった。
「何故お前だけが記憶を取り戻したのかは定かでないが、とにかく今話したのがナマエの存在した痕跡が残っていない理由と、お前が彼女を忘れていた理由だ。そして結婚披露宴で彼女がお前とは初対面だと言い張った理由だが」
 一旦言葉を区切ったルキは、ソファから腰を上げてナマエの方に視線を向けた。
「直接本人に訊いてみればいい」
「え、ルキくんはどこに行くの?」
「記憶を取り戻した状態で会うのは十年弱ぶりだろう。積もる話も、俺が居たらやりにくい話もあるだろうしな。ついでに紅茶でも淹れてきてやる」
「ルキくんが……?」
 目を見開いて問うと、整った眉が不愉快そうに寄せられた。
「なんだその顔は。俺が客人をもてなすこともしないような礼儀知らずに見えるのか」
 短い期間一緒に暮らしただけだが、この無神ルキという人物がどれほど理不尽で傍若無人かはよく知っているつもりだ。そもそも謙虚な吸血鬼なんてユイは一度も会ったことがない。『無神』の姓を名乗る四人は元は人間だったらしいが、そのあたりの性質は彼らも吸血鬼と同じだった。会話に気を遣って席を外し、あまつさえ飲み物を用意してくれるなんて、昔の彼からはとても信じられなかった。
 彼の言う通り、高校を卒業してから十年弱経っていた。吸血鬼にとって十年など取るに足らない年月ではあるが、この時間の流れが彼を幾分丸い人物に変化させたのかもしれない。
 ルキもナマエも高校時代から何も容姿が変わっていない。それは最愛の夫であるアヤトも同じだ。それに対して人間の自分だけがどんどん老いていく。そのことに寂しさを感じたのは一度や二度ではない。けれど中身は自分と同じように彼らも変化しているのかと思うと、何故か親しみが湧いて心が温かくなった。
「じゃあ、お言葉に甘えて、お願いします」
 にこにこ笑いながらそう言うと、ルキはキッチンの方へ消えていった。
 会話の相手がいなくなったことでダイニングには沈黙が降りる。今の今までナマエは一度もユイと目を合わせようとせず、今もまるで話しかけるなと無言で訴えるように顔を背けているが、ユイは怯まなかった。
「ナマエちゃん」
 昔の呼び方で呼べば、たっぷりと間をあけて、赤い視線がユイの方に向けられる。呼ばれたら無視は出来ないという辺りが彼女の優しさなのかもしれない、とユイは内心微笑ましい気持ちになった。
「ごめんね」
「……どうして謝るの」
「ついこの間までナマエちゃんのことを忘れてたから」
「別に、ユイが悪いんじゃないでしょ」
「うん、でもずっと一緒に居るって約束したのに、ナマエちゃんから離れちゃったのは事実だから。だから、本当にごめん」
 吸血鬼にもなりきれず、人間にもなりきれなかったナマエは、幼い頃からずっと孤独を抱えて生きてきた。
 最初はただ神秘的な空気に惹かれていただけだった。作り物みたいに美しい容姿と、近くに居るだけで本能的な死の恐怖を抱かせる、人間や吸血鬼を超越した不思議な存在の雰囲気がユイの心を惹きつけて離さなかった。親しくなる内に彼女が自分と同じように喜怒哀楽を持つただのひとりの女の子なのだと知ってからは、堪らなく大切な存在になっていた。彼女の孤独を自分が埋めてあげたい。ずっと一緒に居たい。そう思っていた。
 ソファから腰を上げて、ナマエの隣に座り直す。一瞬身体を強張らせたように見えたが避けられることはなかった。投げ出された手を取って両手で包み込む。白い手は吸血鬼特有の死人のような冷たさを持っていた。
「ユイの手、相変わらずあったかいね」
 眩しいものを見るように赤い瞳を細めて、ぽつりとナマエがこぼした。
 ユイが彼女と親しくなる少し前もこんな会話をしたことがある。あれは学校の図書室だった。十年近く昔のことなのに昨日のことのように鮮明に思い出せる。いや、それだけではない。ナマエと過ごした日々は年月を経た今でも全て鮮明に覚えている。胸の奥が擽られてあったかくなるような、心地よい記憶たち。それを取り戻せたことに嬉しさを覚えるのと同時に、そんな大切な記憶をついこの間まで忘れてしまっていたことが悲しかった。
 何よりも、ナマエをまた独りにしてしまったことへの後悔でユイの胸は押し潰されそうだった。
「ナマエちゃん、パーティの時どうして『貴女とは初対面ですよ』って嘘ついたの?」
「…………」
 赤い視線が気まずそうに逸らされる。それでもユイは彼女を見上げ続けた。
「私には言えない?」
「……別に、大した理由じゃないよ。ただ、ユイが私のことを忘れているなら、わざわざ面識があるなんて言わなくても良いかなって思っただけ」
「本当にそれだけ?」
「…………」
 頷いてしまえば話は終わるだろうに、嘘をつけない辺りも変わっていないらしい。
「お願い、ナマエちゃんが考えてたこと、ちゃんと知りたいんだ」
 そう言ってじっと見つめ続けていると、暫く沈黙していたナマエが、やがて諦めたように溜息をついた。
 昔から彼女はユイのお願いに弱かった。じっと見つめられると断れないというのは彼女の優しさやユイへの甘さのせいだろう。元々自分の考えをあまり話したがらないナマエに、彼女の弱点を利用して説明を強要するのは気が引けたが、ユイも引き下がる訳にいかなかった。
「私と一緒に居たところでユイは幸せになれない。昔のことを掘り返してユイの幸せを壊すような真似はしたくなかった。それだけだよ」
 視線は逸らされたまま素っ気なく告げられた言葉に、ユイは胸を締め付けられる心地がした。
 ナマエは自分の幸せを思って身を引いたのだ。ユイの既視感を否定し突き放すような答えでありながら、根底にあるのはユイへの思いやりだけ。いつだって彼女はそうだった。分かりにくく、真意を語ることをせず、ただ自分に遠回しな優しさを向けてくれる。
 ユイがナマエを何よりも大切に思うのと同じように、ナマエもユイのことを大切に思ってくれているからだろう。きっとこれは自惚れではないはずだ。
「私と一緒に居るのが嫌になったとか、そういうことじゃないんだよね?」
「……当たり前だよ。私がユイにそんなことを思うはずがない」
 澄んだ声がそう断言し、ユイは堪らずナマエに抱きついた。アヤトと違って華奢な、けれど安心感のある身体だった。仄かに漂う懐かしい甘い香りに涙がこみ上げてくる。冷たい手が宥めるようにユイの背中を撫で始めて、ダムが決壊したみたいに涙が溢れて止まらなくなった。
 不安だった。結婚披露宴の時にナマエがユイとは初対面だと言ったのは、もう彼女に必要とされていないからではないのか、と。彼女の孤独を埋めてあげたいと思った。それが自分であればいいと思っていた。彼女を独り占めにしたい。その独占欲が何から生まれるものなのかユイには判断がつかなかったし、深く考えるつもりもなかった。ただ自分にとってはナマエが何よりも大事な人で、彼女の孤独を埋めるのは自分でありたいし、彼女にも同じように思っていて貰いたかった。きっとルキの言う「ナマエがアダムとして覚醒した時」はお互いがこんな気持ちだったのだろう。何故ならイブと互いを想わなければアダムとして覚醒出来ないからだ。
「ごめんね……本当に、ごめん、ずっと、忘れてて、ひとりぼっちにして、ごめんなさい」
「ユイが謝ることじゃないよ」
「うん……でも、ごめんなさい」
 ナマエはそれ以上何も言わず、泣きながらただ謝罪を繰り返すユイの背中を撫で続けた。




 それから暫くしてルキが戻ってきた。ユイの席が変わっていることや目元が赤くなっていることには何も触れず、ただ紅茶を勧める。ユイは陶器のカップに口をつけて温かい琥珀色の液体を飲み込み、ほっと息を吐いた。
「それで、お前の目的は達成した訳だが」
 ソーサーに置いたカップの取っ手を指でなぞりながら、ルキが話を切り出した。真相を確かめた今どうするつもりなのか、という意味だ。
「ナマエちゃんさえ良ければ、私は一緒に帰りたいなって思ってるよ」
 ルキは一拍間をあけて「そうか」と答えた。
「お前以外の誰もナマエを覚えていないが、それはどうするつもりなんだ?」
「皆には私が説明するよ。それで記憶は戻らなくても、納得はしてくれるかなって」
 カップに口をつけているナマエを控えめに見る。
「ね、ナマエちゃん、私と一緒に帰ろう?」
 一応質問したが、答えは一択だろうと思っていた。
 そもそもこの屋敷にいるのはナマエの意思ではないのだ。カールハインツに命じられたルキが彼女をこの屋敷に留めているだけで、アヤトがアダムとして覚醒し、カールハインツの計画が成功し、尚且つユイが記憶を取り戻した今、いつまでもナマエがこの屋敷に留まる必要はない。
 だから、彼女が困ったように視線を彷徨わせて、言葉なく「どうすればいい?」とでも問うようにルキの方を向いた時に、頭に冷や水をかけられたような寒気を覚えた。
「お前のしたいことを口にすれば良い」
 そういえば、浮かれてすっかり忘れていた。結婚披露宴の時ナマエのことをルキがどんな目で見ていたのかを。恋でも愛でもなく、得体の知れないドロドロしたものを込めた瞳だった。彼はナマエのことを『ただの居候』と紹介したが、直感的にそれだけではないと思った。何よりも、ふたりの醸し出す雰囲気が、ただの居候と家主ではなかったのだ。
 自分の知らない間にふたりに何があったんだろう。お腹の底の方から、どす黒い、不快な感情がマグマのように湧き上がってきて、吐き気がした。
 ぐるぐると頭と視界が回って、気分が悪くなってくる。ソファに座っているはずなのに、自分の身体がどこにあるのか分からない。身体の感覚が徐々に薄れていく。
「私は……」
 絞り出すようなナマエの声を最後まで聞けないまま、ユイの意識はぷつりと途切れた。




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