あれから何十年も過ぎて、あの子は人間でいう六歳ほどの姿まで成長した。父親の遺伝子を引き継いだのか知性に富んだ賢い子供で、本に深い興味を示し、また部屋でずっと読書をしている父親とは違って外で遊びたがる活発な子供だった。
 私は勿論彼も親には向いて居なかったようで、私はあの子を甘やかすことは出来ても躾は出来なかったし、彼は愛情の欠けた躾しか出来なかった。それでもあの子が元気に育っているのは、吸血鬼の身体が無駄に頑丈なことや、他の住人が楽しげに面倒を見ているからだと思う。
 幸いにしてあの子は、父親の嫌味な性格を受け継ぐことなく、また母親の極端に感情の変化に乏しい冷たい性格を受け継ぐこともなく、比較的健康な精神を持ってすくすくと成長している。




「母上!」
 部屋でルキと話をしていたら、ユーマに外で遊んで貰っていたはずのあの子が両手に何かを抱えて訪ねてきた。ルキの存在に気付いた途端、恐縮したように背筋が伸びる。どんな躾をしてきたんだろうと呆れてしまう瞬間だ。
「父上、ごめんなさい。お話の途中でしたか?」
「いや、いい。大した話じゃない」
「そうですか、良かった」
「どうかしたの」
「あの、母上、本を読んでくれませんか?」
「本……?」
 問い返せば、期待に満ちた笑顔で肯定され、両手に抱えていたらしい本を掲げられた。最近この子が読んでいるらしい本よりも幾らか易しい、幼児に読み聞かせるような絵本だった。今更こんなものをどうして、とも思うが、断る理由もないので手招きをすれば、嬉しそうに礼を言われ、彼はベッドにのぼってきた。私の隣にちょこんと腰掛け、にこにこしながらこちらを見上げてくる。
 本を朗読していても、この子は隣から絵本を覗き込むこともせず、ただ楽しそうに私を見ている。しだいにうつらうつらと頭を揺らして舟を漕ぎ始め、やがて私の腕に頭を預けてすやすや眠ってしまった。
 この子はこういうところがあった。彼がとっくの昔に読んだであろう本を持ってきては朗読をせがみ、内容を聞くでもなくただ楽しそうに笑っている。他にも散歩に付き合ってくださいと頼んで私を屋敷の外に連れ出しては、ユーマが作った家庭菜園や庭の薔薇園を歩き回り、嬉しそうに笑っている。
 その気持ちが理解出来ないわけではなかった。この子はかなり頭のいい子で、もっと幼い頃から既に思慮や理性というものが備わっていた。手がかからず育てられたのはそれも一因だっただろう。けれど他の住人たちに遊んで貰って全力で楽しんでいる姿もよく見かける。歳の割に大人びている一方で、子供らしい心も持ち合わせているのだ。だからこの子がこうして私に寄ってくるのは、淡白で放任主義の母親に構って貰いたいがためだろう。本を読んで欲しいというのも、散歩に付き合って欲しいというのも口実に過ぎなくて、自分へ親の関心を、ひいては愛情を向けて欲しいのだ。
 その姿がほんの少しだけ自分の幼い頃と重なって見えた。けれど私は生まれた時から母親が居ないし、父親はああだった。愛情なんて今ひとつ理解出来ないものだ。だからこの子が求めているものを、ちゃんと返してあげられているのか、たまに疑問に感じる。この子が生まれてから、人間が書いた心温まると噂の家族の話を読んでみたりしたけれど、冊数が増えれば増えるほど、自分は親にはなれない人格の持ち主だと確信が強まるばかりだった。と言っても、私の父親は勿論、兄弟の母親達も親に相応しくない人格の人が多かった。吸血鬼は放置していても人間の子供と違って勝手に成長するし、親の自覚だとか人格だとかはあまり関係ないのかもしれない、とも思う。
 望んで産んだわけではない。けれど一度産み落とせば、自分の血を分けた子供というのは、何だか胸の奥を擽られるような不思議な存在だった。出来れば私のような幼少期を過ごさせたくないとも思う。何かを求められるなら応えてやりたいとも。
 自分の腕にもたれていた頭をそっと持ち上げて、枕の上に移動させた。先ほど読んでいた本をその隣に置く。気持ち良さそうにすやすや眠る寝顔を眺めてから、柔らかい頬をゆっくり撫でると、自分の頬が自然と緩んでくるのがわかる。可愛い、と思う。小動物を愛でるのとはまた違った心地だ。
 伏せられた目にかかっていた前髪を払ってやったとき、ふと横合いから伸びてきた手が私の手首を掴んだ。言わずもがな、ずっと部屋にいたルキの仕業だった。
「どうかした?」
 突然の制止にそう問うても返事はなく、彼はじっとあの子の顔を見下ろして、それからこちらに視線を移す。掴んでいる手首を引っ張られ、私があの子にしていたように、もう片方の手が私の頬を撫でていく。もう一度「どうかした?」と問えば、今度は薄い唇が開いた。
「お前の姿がまるで本に出てくるような『母親』みたいだと思った」
「?」
「俺は、自分の母親に本を朗読してもらった記憶がない」
「ふうん」
「彼女は子供を産んでも自分が女であることを辞めようとしなかった。煌びやかな服や宝石にだけ興味を示していた。本を読んで貰ったことも、散歩に付き合って貰ったことも、何かを教えて貰ったこともない」
「そう」
「まあ、子供を放ったらかしにした甲斐あってか、綺麗な女性ではあったがな。……お前が本を朗読してやっているのを見て、ふと思い出した」
 彼は父さんから私の昔話を聞いて、どんな出生でどんな幼少期を過ごしたか詳しく知っているようだけれど、私は彼の昔の話を何も知らない。何処で生まれたのか、どうして人間を辞めたのか、何ひとつ。彼の過去に興味も無かったし、彼もあまり自分のことを話したがらない人だから、今まで彼の過去に話が及んだことはなかった。
 だから訥々と家族の話をする彼が珍しいな、と思った。ただの雑談ではなく、何かを訴えようとしているようにも見えた。
「君、随分素直になったよね」
 あの子の隣に置いた本を取って、先ほどの続きのページを開く。印刷された大きな文字を彼にも見えるよう太腿の上にのせた。それを見た彼の眉間に皺が寄る。
「……何の真似だ」
「君にも本、読んであげる」
「俺の母親気取りか」
「そうだね、子供がふたりいる気分だよ」
 ちょいちょいと手招きすれば、手首を解放され、今度は両手が腰に回された。額を首筋に押し付けられる。これでは本の文字も見えないだろうに。髪が肌にこすれてくすぐったい。
「昼寝の方がいい?」
「……朗読でいい、お前はそのくだらん童話をただ読み上げていろ」
 掠れた声がそう言ったあと、寄りかかる重みが増した。彼が力を抜いたのだ。朗読していろ、自分は勝手に寝る、ということなのだろう。本当に子供がふたりいる気分だ。片方は私よりも図体のでかい、子供と呼ぶにはあまりに狡猾でいやらしくて大きすぎる人だけれど。私のより少し硬い猫っ毛の頭をゆっくり撫でながら、あの子に読んでやったところの続きから読み上げていると、そのうちほんの微かに寝息が聞こえてきた。
 二つの寝息が重なる。朗読をやめて本を閉じ横に追いやってから、窓の外を眺めた。大きな窓枠に切り取られた空は青々と澄んでいて、遠くで鳥が飛んでいた。
 段々私も眠くなってきた。穏やかな空と、静かな部屋に響く寝息がその眠気を助長させる。首元に収まったままの黒い頭に頬を預けて、目を閉じた。


   ◇


 耳元で寝息が聞こえて、眠りから覚めた。薄目を開けて伺えば、ナマエが俺に寄りかかって眠っている。
 子供を産んでから、彼女は少し変わった気がする。小さな頬を撫でながら浮かべた彼女の笑みは、柔らかくて慈愛を感じさせる、『母親』と呼ぶに相応しいものだった。
 彼女は自分が母親になり得ない人格だと思っているし、実際その通りだ。子供に求められれば構ってやり、甘やかしてやるものの、子供のためを思った躾や教育などは一切しない。あれでは子供を育てているというより、ペットを愛玩しているのと大差ないだろう。それでも彼女は自分で思っている以上に『母親』の顔を見せている。出産の際に芽生えた母性本能なのかもしれない。本人は自覚していないようだが。
 それはかつて俺の見たことのない表情だった。当たり前といえば当たり前の話だが、見慣れない彼女の表情を目の当たりにする度に、形容し難い感情が胸に広がった。そして同時に、両親のことばかりを思い出す。記憶の中にいる美しい母がナマエと重なりそうで重ならない。俺が彼女に言った通り、俺の母親は子供を産んでも女を捨てず、使用人に世話を任せて自分磨きに励むような女性だった。それを露骨に見せることはなかったが、今思い返せば、優しく接してきた母親の関心は、いつも俺より彼女自身へ注がれていたように思う。人間だった頃はその事実に気付かなかったし、母に対して不満を抱いたのは、没落して自分の愛人とさっさと逃げたと知った時くらいのものだった。けれど最近は毎日のように母への不満が募る。いや、不満とは少し違う。恐らくこれは寂寥感と呼ばれる類いのものだろうと、薄々思ってはいる。
 端的に言ってしまえば、俺はこの子が羨ましいのだ。自分が得られなかった母親からの愛情を与えられている。それも、母性とは程遠い位置にいたあのナマエから。別にこの女から『母親の愛情』が欲しいとは思わないが、自分の努力では覆しようのない過去がある以上、どうしても羨望が消えることはなかった。
 ……子供が羨ましいなんて馬鹿馬鹿しい話だ。親になり得ない人格か、人のことは言えないな。



20150204


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -