本編五年後直後。補完。




 屋敷に戻ると、ルキは彼の自室には向かわずに何故か私の部屋までついて来た。一刻も早く眠りたい私を差し置いて先に部屋に入り、ベッドに腰掛ける。雑な仕草でベストを脱ぎ、ネクタイを解いて襟から引き抜き、布団の上に放った。それからカフスのボタンを外して袖を肘まで腕捲りしたところで、部屋の入り口に突っ立っていた私を見た。「何をしているんだ? 早く入れ」と呆れ顔で言われるが、私は私の部屋で我が物顔をして寛ぐ彼の無遠慮さに呆気にとられていたのだから、彼にそんな表情をされる筋合いはない。けれどそんなことを言っても仕方ないのは理解しているので、言われた通り中に入って扉を閉めた。
 無言で手招きをされたから、それに従ってベッドに歩み寄り、彼の前に立つ。パーティに行く前彼のネクタイを締めてあげた時と同じ構図だった。
 パーティなんて行かなければ良かった。無理矢理私を連れて行ったのが父さんの命令なのか、ルキの独断なのかは知らないが、やはり碌なことにならなかった。私はユイと会うべきではなかったのだ。そうすれば、私は自分の欲深さを自覚することもなかったのに。後悔したって遅いんだけれど。
 唐突に手首を掴まれぐいっと引っ張られ、思考が中断させられる。彼の方に倒れこみそうになるのを、咄嗟に彼の腿の横に片膝をつくことで堪えた。もう片方の手で腰を抱かれ、彼の膝に軽く乗り上げるような体勢になり、首筋がちょうど彼の口の辺りに当たる。
 ああ、吸血されるのか、と思ったときには既にキバが首筋に穿たれていた。こくこくと血液を嚥下する控えめな音がすぐ近くから聞こえてくる。今日は比較的冷静なのか、上品で大人しい吸血をしているようだが、何となくキバに力が込められている気がする。この性急な行動から察するに、よほど父さんとの会話が辛かったんだろう。
 本当に馬鹿な人だ。そう思った途端、父さんと話したことで傷付いているルキの姿が、ユイと接触した時の私と重なって見えて、胸が苦しくなった。ほとんど無意識に彼の背中に腕を回す。それは彼の痛んだ心を慰めるのと同時に、自分の抉られた心を慰めるための行為だった。幼い子供が泣いているのを宥めるように、ゆっくりした動きで背中を撫でてやる。肌を穿つキバから少しだけ力が抜けた気がした。そういえば、吸血されている最中に彼に抱きつくような真似をしたのは、これが初めてかもしれない。
 キバが引き抜かれた。次の場所にキバを穿たれるかと思ったが、肌に穴を開けられる感覚はやって来ず、代わりに私の腕に応えるように、腰に添えられた手に力がこもった。私の首筋に顔を埋めるような体勢で抱き寄せられる。頬に当たる黒い髪がくすぐったい。
 服越しとはいえ、密着すればルキの身体の温度が低いことが伝わってくる。この体温の低さは吸血鬼の特徴の一つと言えるだろう。まるで死体みたいな体温だ。そう、私たち吸血鬼は生ける屍であり、世界の流れから取り残された、無様で哀れで忌まわしい存在なのだ。温かい体温を持つ人間、ユイとは大違いだ。
 アダムとイブはかつて吸血鬼だったらしい。それが、禁断の果実を口にした罰として、イブには死という概念を与えられ、人間にされてしまった。けれど、私からすれば、死んだように生きる吸血鬼よりも、命に限りのある人間の方がよほど幸せな存在に思えた。
 ふと、我に返る。自然と思考がユイのことに行き着いていた自分に心底嫌気がさした。いつまでも希望に縋りたがる自分の甘えを律するように、腕に力を込めた。
 どれくらいそうしていただろうか。やがて気が済んだらしいルキの腕から力が抜ける。身体を離そうとしたら、今度は腰を掴まれベッドの上に押し倒された。顔の両横に腕をついて覆い被さってくるルキを見上げる、普段彼が吸血する時の体勢だった。

「……落ち着いた?」
「ああ」
「そう、よかったね」

 手を伸ばしてルキの頬を撫でる。唇に血はついていなかった。やはり今日はまだ冷静な方らしい。彼は冷静さを欠いた状態で吸血すると、多少唇に血を零していることがあるから。
 汚れていない唇を親指で撫でていたら、ルキが頬に添えた私の手を掴んで引き剥がした。

「だから、今度はお前の番だ」

 私の番? 意味が分からず首を傾げる。普段の彼なら、ある程度傷が癒えた時点で吸血をやめて部屋を出て行くなりここでそのまま眠るなりするのだが、私の番だ、というのは初めて言われた言葉だった。
 黒い瞳が私を真っ直ぐ見下ろす。

「あの日、お前が俺に返した言葉を覚えているか?」

 唐突な話題と要領を得ない話始めだったが、すぐにそれが帰りのリムジンで交わした会話の続きなのだと気がついた。この屋敷に連れて来られた日、ルキに「お前には、俺以外誰も残らない」と言われた時に、私が何と返事をしたか覚えているのか、ということだ。ちゃんと覚えている。肯定の意味でこくんと頷き「君なんか要らない、って言った」と答えると、ルキが僅かに唇の端を持ち上げた。

「そうだ。俺を拒絶したお前が今更になって俺を受け入れた。……どういった心境の変化なのか、お前自身の口から聞きたい」
「……」
「もちろん、原因がイブなのは分かっている。今日のパーティでイブと会って、お前が何を考え、何を思ったのか。それを語れ」

 ルキは頬から引き剥がし掴んだままだった私の手の指に自分の指を絡めると、ぎゅっと握ってシーツに押し付けた。
 黒い瞳は私を射抜くようにこちらを向いていて、揺らぐことがない。まるで標本にされた蝶のような気分だ。逃げることもはぐらかすことも許されない。その瞳の奥に、どろどろした不吉な感情が垣間見えて、背筋が凍りそうになる。ここに連れて来られた日と同じような、碌でもない意図が感じられるのだ。
 きっと彼は、私がどんな気持ちでユイを見ていたのか、全部知っているんだろう。観察眼が優れている人だし、五年も一緒に暮らしているため、私の表情から内心を読み取るなんて彼には容易いことだろうから。それを敢えて私の口から語らせ、私が苦しむ姿を見ることで楽しもうとしている。本当に、性格の悪い人だ。

「……初めて、ユイに忘れられたことが悲しいって思った」

 そんな碌でもない彼の意図に従ってやるのは、多分、自分ひとりで抱えるのが辛くて仕方がないから。

「心の大切な部分が抜け落ちたような喪失感と、そこから傷口を広げるようなじくじくした痛みがあった。私はユイと一緒に居たかったんだって、気がついたの。悲しいって気持ちとか、何かを欲しがる欲望が自分にもあったんだって驚いた。でも今更自覚したって望みは叶わない。だからすごく、辛かった」

 ルキが楽しそうに笑っている。やっぱりお前は俺が思った通りのことを考えていたんだな、っていう納得と、苦しむ私を嘲笑っているのが、彼のその笑みから読み取れる。
 彼が問うたのはここまで。彼はあの後私がユイとふたりで会ったことを知らないはずだ。だから、ここまでで語るのをやめても彼は満足しただろう。なのに、私の口は勝手に続きの言葉を紡ぎ始める。

「……あの後、ユイが私を追いかけてきた。それで言われた。『前にどこかでお会いしたことはありませんか?』って。もしかしたら、ここで私が肯定して全てを話せば、ユイは私のことを思い出してくれるかもしれない、そう思った。でも、そうしたら、今のアヤトとの幸せが壊れて、ユイはあのお日さまみたいな顔で笑えなくなるかもしれない。それを考えたら、頷くことなんて出来なかった」

 ルキの顔から笑みが消えた。

「父さんがユイや兄弟から私の記憶を消したのなら、それは完璧に遂行されたはず。でも、もしかしたらユイは本能のどこかで私を覚えていてくれたのかもしれない。それを思うと嬉しかった」
「……」
「その後、君を探すためにバルコニーに出て、そこでシュウに会ったの」
「逆巻の長男か」
「そう。……それで、言われた。ユイと同じように、『前にどこかで会ったことはないか』って。で、分かった。私は父さんに踊らされそうになったんだって。父さんは意図的にユイやシュウに私の記憶を残してたんだって。そうしたら、父さんにお膳立てされた希望に縋ろうとしていた自分が情けなくなった」

 ルキは無言で話を聞いてくれている。馬鹿だなって笑うことも、哀れだなって嘲ることもせず、何を考えているのかわからない無表情で私を見下ろしている。それに何だか安心してしまって、私の口は勝手に動き続ける。

「私は自分の欲を自覚してしまった。でも、どうやったってユイと一緒に居ることは出来ない。そうしたら、突然、ひとりで居ることが怖くなった。ひとりなんて慣れていたのに、ユイと一緒に居た日々が温かすぎて、孤独に耐えきれなかった」

 拘束されていない方の手を、もう一度ルキの頬に添える。手のひらを通して彼の冷たい体温が伝わってくる。ユイの温かさとは比べものにならない、自分とよく似た低い温度に、酷く安堵を覚える。ルキは僅かに瞳を細めた。

「……その時、思ったの。ああ、私には君がいたって。君が必要なんだって」
「俺は、小森ユイを手に入れられなかった孤独を埋めるための『身代わり』というわけか」
「そう。君が私を父さんの代わりにしてるのと同じ。……君は何度も言ってたよね、『お前と俺は似ている』って。その意味がやっと分かったんだよ。絶対に叶わないのが分かっていても父さんに愛を強請り続ける君のことを、馬鹿だな、可哀想な人だなって思ったのに、私も似たようなものだったんだよね」

 そこまで聞いて、ようやくルキは表情を浮かべた。笑み。それも、嘲笑や愉悦ではなくて、苦笑。

「お前の口からそんな言葉を聞ける日が来るとは思っていなかったな、驚いた」
「多分、私が一番驚いてると思うよ」
「なあ、覚えてるか? 図書室で逆巻アヤトと小森ユイの逢引を見たとき、お前は俺に言った。『俺の絶対に叶わない望みの傷を舐める、馬鹿みたいで可哀想な行為に付き合う』と」

 首肯する。もちろん覚えている。あの日、私は彼の気が済むまで彼の戯れに付き合うと決めたのだ。あれから五年、長いようで、やはり短かった。永遠を生きる吸血鬼にとって五年の月日など、取るに足らない時間でしかない。それでも、そんな取るに足らない歳月ですら、ユイや世界は確実に変化していて、私はそこから取り残されている。
 その事実には寂寥を感じずにはいられない。けれど、彼が居るなら、父さんの身代わりとして必要としてくれるのなら、まだ少しは生きていられる気がする。

「なら、俺もお前に付き合ってやる。小森ユイを手に入れられなかった孤独の傷を舐める、愚かで哀れな行為に。お前が命を終えるその日まで、ずっと、な」

 ルキは指を絡めあっていない方の手で私の顎を軽く掴むと、柔らかい笑みを浮かべて、まるで誓いを立てるように、触れるだけの口付けを施した。
 荒廃した大地には自然の恵みである雨が降り注ぐことはなかったけれど、その代わりに、腐敗臭のする毒が大地を覆い尽くすように広がり、じっとりとひび割れに染み込んでいった。


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