(視点:無神ルキ)

 傍らに立つナマエの表情を目にした途端、背筋をぞくぞくと快感のようなものが駆けていった。唇の端が吊り上がりそうになるのを何とか堪える。片手間に逆巻の三男と小森ユイへ受け答えをしつつ、意識の大半をナマエに向けていた。
 ――ああ、やっと、念願が叶った。
 俺は、彼女のこの顔が見たかったんだ。
 小森ユイに自分の存在を忘れられたことに傷ついている、この顔が。
 一度手にした幸せを手放すのは、それを手にしなかった時の不幸よりも遥かに大きな痛みを伴う。それは俺自身がよく知っている。
 ナマエは幼少期に孤独な時間を過ごし、その後小森ユイという幸せを手に入れた。普通に考えれば、自分の人生で唯一とも言える幸せに縋るのは、人間にしろ吸血鬼にしろ、人の形をした生き物ならば当然の行動だ。
 だが、彼女はそれをしなかった。「ユイが幸せならそれでいい」などという、反吐が出そうな自己犠牲的思考によって、自分の存在を忘れられた事実を受け入れていた。
 その、何にも希望を持たないとでも言いたげな受け身かつ消極的な姿勢が、心底気に入らなかった。
 希望に縋り、それでも叶わなかった時の、死にたくなるような絶望へ叩き落としてやりたかった。何にも動じない彼女の心を揺さぶって、粉々にしてやりたかった。
 それがやっと叶ったのだ。

「……ねえ、人酔いしたから、隅っこに行ってる」

 いたって平常時と変わらないような顔をしているが、流石に五年も一緒に生活していたら、その無表情の中に浮かぶ感情も読み取れるというものだ。
 心を傷つけられ、それでいて自分がどうして傷ついているのか分からず動揺している。今の彼女はそんな表情をしていた。
 そそくさとこの場を立ち去る彼女の後ろ姿を見ていると、今度こそ唇が歪むのを堪えられなかった。

「ルキくん、ナマエさんって、本当はルキくんの何なの?」

 ナマエの後ろ姿から小森ユイの方へ視線を移すと、悪戯っぽい艶やかな笑みを浮かべ、小首を傾げていた。五年でこの人間の女は随分変わったらしい。相変わらず体つきは貧相なものだが、多少は色気が出てきたように思う。彼女の隣に立つ逆巻アヤトが絶えずこちらを警戒しているのを気に留めつつ、「『本当は』も何も、さっき言っただろう。居候だ」と返す。

「うそ」
「どうしてそう思う?」
「だってルキくん、ナマエさんを見てるとき、とてもただの居候相手とは思えない顔してたよ」
「しばらく見ない内に多少は利口になったらしいな」

 呆れて笑ってしまうほどに愚鈍だった彼女が他人の顔色を伺うなんて真似を出来るようになったのだ。人間の成長もなかなか馬鹿には出来ないかもしれない。とはいえ、どこか見当はずれなことを言っている辺り、やはり彼女は少々頭が足りていないらしいが。

「お前はナマエが俺の恋人か何かと勘違いしているらしい」
「……違うの?」
「ああ、違う。あの女はそんなものじゃない」

 ナマエはカールハインツ様の身代わりだ。それを言っても彼女には到底理解出来ないだろうし、詳しく話してやる義理もない。先を聞きたそうにこちらを見上げる彼女の無言の訴えは無視しておいた。

「……ナマエさん、ヴァンパイアなんだよね?」
「そうだ。俺よりも幾分まともなヴァンパイアだな」
「じゃあ、人間の女の子にするような家畜扱いじゃなくて、ちゃんと大切にしてあげてね」

 ナマエが姿を消した方を見つつ、憂うように忠告してくる。恋人じゃないと言ったんだが、まだそう思っているらしい。もう訂正するのも面倒だった。
 呆れて物も言えない俺に、「ね?」と言いながら首を傾げて念を押す。先ほどの艶っぽい笑みは何処へやら、高校生より幼い子供のような顔で笑っていた。
 人間の二十二歳というと、まだ精神は成熟しきっていないのだろう。子供っぽい中に大人の女の雰囲気が混じっていて、不思議な印象を与えられる。ついでに、今にも俺に飛びかかってきそうな逆巻アヤトの様子に気づいていないのも、彼女がまだ子供っぽい面を持っていて、視野が狭いせいだろう。見ている分には愉快だから、黙っておくが。

「大切に、な」

 言葉を口の中で転がして味わうように呟くと、その違和感に思わず笑ってしまいそうになる。
 それは俺のナマエに対する態度の対極に位置する言葉だ。何故なら俺が彼女を捕まえているのは、カールハインツ様の身代わりとして彼女を壊すためだからだ。
 この能天気な人間の女には、いや、その隣にいる純血のヴァンパイアにすら、俺の気持ちは理解出来ないだろうし、されてたまるかという気持ちだった。
 ナマエの傷ついた顔も見れたし、これ以上こいつらと話をする意味もない。今にも逆巻アヤトが俺の方に飛びかかってきそうなのと、視界の端に敬愛するあの方の姿が飛び込んできたこともあり、俺はそこで会話を切り上げてその場を後にした。
 後ろから逆巻アヤトが小森ユイに詰め寄っている会話が聞こえてくる。逆巻のあの剣幕から察するに、新婚初夜はさぞ楽しい時間になるのだろう。




(視点:小森ユイ)

 初めて見たとき、胸の辺りがざわめいた。色素の薄く金色っぽい髪と、スバルくんやレイジさんのような赤い瞳。遠目にも分かる陶器のようなすべすべの肌。中性的な、芸術品みたいに整った顔。背筋が凍るような冷たい空気と、形容し難い神秘的な雰囲気を纏った、不思議な人。綺麗だとか、可愛いとか、そういう短絡的な言葉で片付けることのできない造形だった。細い身体を包むシンプルな黒い細身のドレスは、何の飾り気もないものだけれど、それが逆に彼女の魅力を引き立てているように思えた。
 どきどきと心臓が激しく脈打っていた。どうしてだろう、わたし、女の子相手にドキドキしてる。自分が信じられなかった。
 アヤトくんとルキくんと話している時も、我関せずを貫いている彼女が気になって仕方が無かった。だから勇気を振り絞って、ルキくんに紹介してくれるように促してみた。

「初めまして、わたし、小森ユイって言います」

 震える声で、なんとか笑みを浮かべた。ナマエさんは無機質な赤い瞳でわたしをぼんやり見つめると、

「……初めまして、ナマエと申します」

 不思議な響きの声がそう返してくれた。
 その『初めまして』に無性に違和感を覚える。ナマエさんの声が、少しだけその単語に力が込めていた気もした。何だろう、この感じ。自分の中に生まれた得体の知れない感覚に内心首を傾げながらも、わたしたちは会話に戻っていった。
 自己紹介をし合っても、ナマエさんはわたしたちの会話に混ざることなく、我関せずを貫く。やがてルキくんに小声でこの場を離れる旨を伝えると、さっさと立ち去ってしまった。
 ちゃんとお話ししてみたかったけど、引き止めるのも不自然な気がして、結局不思議な雰囲気を纏うナマエさんを見送ることしかできなかった。
 もうひとつ不思議なのは、ルキくんと彼女の関係だ。彼の言う家主と居候という関係とは到底思えなかった。
 会話の最中、ずっとルキくんがナマエさんの方に意識を向けていた気がする。彼女が立ち去る後ろ姿を見ている時も、相変わらず無表情だったけれど、彼の黒い瞳に何か並々ならぬ感情が宿っている気がした。
 それは、愛情だとか恋慕だとかそんな類いのものじゃなくて、もっと黒くてドロドロした感情だったんだと思う。背筋がぞっと寒くなるような、そんなもの。それでも、長年連れ添ったようなふたりの雰囲気からして、その関係を形容する言葉が私には『恋人』というものしか見つからなかった。
 だから、『恋人』であることを否定されても、多少落胆はしても納得するものがあった。
 ルキくんが立ち去ってから、アヤトくんがぷりぷり怒り始めた。オレ以外の男と何楽しそうに話してやがる、なんてことを言われると、ああ嫉妬してくれたんだって思って、嬉しいな、愛しいな、って気持ちが湧いてくる。でも「今晩覚悟してやがれ」と言われた時は、流石に顔が引きつった。
 それからむくむくと疑問が湧いてくる。何だろう、何か大事なことを忘れている気がするのだ。ナマエさんに関する何かを。
 きっと彼女とは二度と会えない気がしたから、居ても立っても居られなくて、わたしはアヤトくんに謝罪してからその場を走り去った。「おい待ちやがれチチナシ!」なんて、久しぶりにその蔑称で呼ばれ、意地でも逃げ切ってやるなんていう変な対抗心が生まれ、わたしは必死に足を動かした。

 ナマエさんは人酔いしていたらしく、人気のないホールの隅で壁に肩を預けていた。やっぱりナマエさんを見ていると不思議な気持ちになる。多分これは『懐かしい』っていうものなんだろう。そこに気がついたとき、もしかしてわたしは彼女と会ったことがあるんじゃないかな、と突拍子もない考えに至った。突拍子はないけれど、そうかもしれないと思えば、本当にそうだって気がしてくる。あの不思議な響きをもつ声で『ユイ』と名前を呼ばれた記憶があるような気がするのだ。
 だから、理由の分からない期待感を持って彼女に「どこかで会ったことはないか」と訊き、それを否定されたとき、わたしはとても気分が落ち込んでしまった。「誰かと間違えているのかもしれませんね」と言われたけど、わたしにはそうは思えなかった。
 でも、ナマエさんはそれ以上追及することを拒むような、無機質な笑みを浮かべて、空っぽな響きの祝いの言葉をわたしに贈り、さっさと姿を消してしまった。
 わたしを追ってやってきたアヤトくんに文句を言われながら、わたしはずっとナマエさんの後ろ姿を思い出していた。
 声をかけたいのに、声をかけられず、彼女の細い背中が遠ざかる。その光景に、言いようのない既視感を覚えたのだ。




(視点:無神ルキ)

 カールハインツ様と言葉を交わせる喜び。彼の選ぶ話題への不満。そして忠誠心の揺らぎ。そんなものが俺の中でふつふつと湧き上がり混ざり合っていた。
 カールハインツ様は俺の姿を見つけると、俺や他の兄弟がどうしているか、一見気にかけてくださっているような言葉を投げたあと、すぐさま彼の息子たちへ話題を移した。最初に俺たちの近況を聞こうとしたことが、ただの社交辞令であることが分からないほど俺は馬鹿じゃない。けれどそんな不満をおくびにも出さず、俺はカールハインツ様との会話を続けた。
 『アダムの林檎計画』、すなわち逆巻アヤトと小森ユイの行く末をしっかり見守ること、それがお前たちの役目だ。
 何度聞いただろう。まるで「お前たちは役立たずなんだ」と言い聞かせるように、会う度にこう念押しされる。そしてその度に俺は不満を押し殺しつつ「心得ております」と答える他ないのだ。
 ナマエの傷つく顔が見たくてパーティに来たのに、カールハインツ様と会話することで俺が精神的疲労を感じていては意味がない。彼との会話を終えた時には、もはやナマエの傷を抉ってやるほどの気力もなく、彼女が早く帰りたいと言うのに同調し、さっさと会場を後にした。
 あまり気分の良いパーティではなかった。ナマエの傷付いた顔を見て抱いた高揚感が、カールハインツ様との会話で受けた精神的負担に叩き潰されたのだ。全体的に見てマイナスに終わった日と言える。
 俺も早く屋敷に戻りたかった。腐敗し始めた忠誠心を一刻も早く浄化したかった。
 が、その道中、ナマエの零した「君はさ、『お前には、俺以外誰も残らない』って言ったよね。その通りになったな、って、今思った」という言葉に、俺は久しぶりに全身が満たされる感覚を味わうことになる。
 ああ、やっと俺と同じところまで堕ちてきたのか、と。




(視点:???)

 いくつかあった可能性の話をしよう。
 一つが、意図的に記憶を残した可能性。一つが、記憶を消された者の『想い』が、その記憶の削除を押しのけた可能性。
 どちらもあり得そうで、確かめようのないものだ。
 さて、ナマエは、小森ユイが彼女の存在を微かに覚えていたことにも、逆巻シュウが同じような反応をしたことにも、前者の可能性で理由付けを行い、『意図的に記憶を残した者』を憎み、その手には乗らないと二人の言葉を否定した。
 だが、小森ユイと逆巻シュウがナマエの存在を覚えていた理由が、二人とも異なっている可能性は? 何故ナマエはそのことに思い至らなかったのか?
 彼女は心の底から人を疑うことを知らない。警戒心は強いものの、どちらかといえば性善説の上に立っている節がある。そして、兄弟の中でも頭の良い方ではあるが、どこか抜けている面がある。だからこそ、小森ユイと逆巻シュウが同じ方法で記憶を消されたなどという、ありもしない前提の下に思考を進めたのだ。
 もし、小森ユイは記憶の削除主が意図的に記憶を残し、逆巻シュウは『想い』の強さで記憶を取り戻した可能性――或いはその逆の可能性を想定出来ていれば、ナマエの未来は変わっていたのかもしれない。
 だが、結果はご覧の通りだ。
 ナマエが母親から受け継いだ人間らしい側面は、自己犠牲的な考えを生み出し、小森ユイの幸せを実現するために、彼女を幸せから遠ざけた。
 ナマエの吸血鬼として不完全な部分、すなわち人間に通ずる部分。それは『アダム』になるには必要なことだったのかもしれないが、結局彼女は不完全であるが故に『アダム』であり続けることは出来なかった。
 そんな矛盾を孕み絶望へ転落していくナマエが、とても愛おしくて、粉々に壊したいほど憎らしかった。
 まあ、こんなことは今更語ったところで詮無いこと。ナマエが真相を知る術はないし、他の者にだって何も出来はしない。
 全てを知っているのは、私だけなのだ。
 いつ来るか、そもそも訪れるかすら不明な私の命の終焉まで、元人間の紛い物と半人間の紛い物には、手のひらの上で踊り続けて貰うことにしよう。


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