無駄に長いので、途中で途切れるかもしれません。もし切れていたらどこまで表示されたかと共にお知らせ頂ければ幸いです。



 何か冷たいものが顔の上に降ってきて、乱暴に眠りから覚醒させられた。ぱちぱちと瞬きをして、寝起きでぼやけた視界に少しだけ輪郭を取り戻す。部屋の扉の方を向いて横向けに眠っていた私の目線の先に、二本の棒、もとい誰かの足があった。僅かに視線を天井の方へずらせば、ここ数年で毎日嫌と言うほどに顔を合わせている男が。彼の右手には五〇〇ミリリットルのペットボトルが握られていて、蓋の開けられた飲み口は私の方に向けられていた。そこまで確認して、鈍い思考は『彼に水をかけられた』ということを理解する。ああ、顔と枕が水でびしゃびしゃだ。気持ち悪い。
 のろのろと腕を動かして布団で顔を拭きつつ、ルキに「なに……?」と問うてみた。

「人の話を聞く態度じゃないな。早く起きろ」
「……ねむい」
「ああそうだろうな、何度声をかけても無反応だったから、相当深く眠っていたようだ」
「…………水かけてまで起こして、何の用?」

 乱暴な方法で起こされたことに若干の苛立ちを覚えつつそう問えば、私の眼前に二つ折りに畳まれた紙が差し出される。意味はわからないがとりあえず腕を伸ばしてそれを受け取り、中を開いてみる。どうやら手紙らしい。ベージュっぽい色の羊皮紙に、細かい文字が刻まれていた。眼を細めて何とか文章を読もうとするも、寝起きの霞んだ視界には文字が細かすぎて、インクを零した汚れにしか見えなかった。
 文字を読むのに手こずっていると、上から手が伸びてきて羊皮紙を取り上げられ、呆れた顔をしたルキが私の代わりに手紙の内容を読み上げ始めた。
 何かの招待状らしいそれを適当に聞き流していた私の耳に、最後に添えられた差出人の名前だけが鮮明に飛び込んできた。彼の落ち着いた声はこう言った。『カールハインツ』と。

「……父さんの」
「カールハインツ様の城で今夜パーティが開かれる。これはその招待状だ」
「ふうん、良かったね。楽しんできてね」
「何のために俺がここに来たと思っている? お前も連れて行くからに決まっているだろう。寝惚けるのも大概にしろ」
「…………」

 ――この後、行きたくないとごねる私と、布団から引きずり出そうとするルキのちょっとした攻防があったんだけど、それは省こうと思う。




 結局根負けした私は、ルキに引きずられ、まず浴室に連れて行かれた。お湯を張られた浴槽に放り込まれ、放心しているうちにいつの間にか頭と身体を洗われ、バスタオルで乱暴に水気を拭きとられたところで、今度は彼の自室に連れて行かれた。そこには私の下着と、女物の細身の黒いドレスやらなんやらが置いてあって、その用意周到さには流石に顔が引きつった。ドン引きしている私をよそに、ルキはテキパキと私に服を着せ、髪に残った水分をドライヤーで飛ばしながら丁寧に櫛で梳かし、その他諸々私の身なりを整えてくれた。時計を確認すると最初に水をぶっかけられて起こされてから一時間と経っていなかった。相変わらず彼の仕事の早さには感心させられる。思わず「君、良い介護士になれると思うよ」と呟けば、とても嫌そうな顔で舌打ちされた。
 そんなこんなで私の準備は完了した。今はルキの自室で勝手に本を拝借しつつ、ソファに腰を落ち着け、彼自身の準備を待っているところである。先ほどまでよりかは幾分ゆったりした動きで着替えている彼の様子から察するに、私の用意はかなり急いで行っていたようだ。
 それにしても、風呂にまで入れてくれるなんて、随分と面倒見がいいものだ。レイジですらあそこまで世話をしてくれたことはない。もちろん、ルキが常時この面倒見の良さを発揮しているわけじゃない。そう、今日は特別なんだ。
 ちらり、本から視線を上げて、ベッドの前に立ち私に背を向ける形で着替えをしている彼を盗み見る。下はすでに、一目で上物と分かる質の良い黒く細身のスーツのズボンを履き終えていて、今はYシャツを羽織りカフスのボタンを留めているところだった。視線をベッドの方に移せば、これから着用予定のネクタイとベストがある。
 本をソファ前のテーブルに置いて、彼の傍に歩み寄る。前のボタンを留めながら怪訝そうにこちらを見てくる彼の視線を受け止めつつ、私はネクタイに手を伸ばした。無地の黒だ。

「……ネクタイ締めてあげる。そこ、座って」

 言いながらベッドを指差せば、「理由は?」と問われたから、「さっき私の用意を手伝ってくれたささやかなお礼だよ」と答える。数秒間、思案するように黙り込んだ彼は、とりあえずベッドに腰を下ろしてくれた。不審そうな表情からして、納得はしていないようだけれど。
 彼の首に腕を回すような形でネクタイを襟の下に通す。実は言うと私はネクタイを締めた経験がないのだが、レイジが制服のネクタイを結んでいた微かな記憶を頼りに、手を動かしていく。ルキから待ったがかかっていないということは、間違ってはいないのだろう。それなりに綺麗な逆三角を作り、更に形を整えてから、それをゆっくりと押し上げて襟の真下にくるように調整していく。

「それで、ひとつ訊きたいんだけど。君を普段の何倍も面倒見のいいひとにしてしまうようなパーティって、なに?」
「愚問だな。カールハインツ様からの招待なんだぞ。万全の態勢で臨むのが当然だろう」
「ふうん」

 逆三角が襟の下の正しい位置に収まる。そこから更に、上へ押し上げた。ギリギリと首が絞まるようにネクタイを引っ張る。わずかに顔を顰めているルキに顔を近づけた。ネクタイで首を締め上げる手は止めない。

「――嘘だよね? 父さんからの招待だからっていう割には、面倒見が良すぎる。なんて言うのかな、万全の態勢で臨むというより、何としても私をそのパーティへ連れて行きたいって意図が透けて見えるんだよ」
「……」
「それが君の思惑にしろ、父さんからの命令にしろ、どっちにしたって碌な理由じゃないよね。ねえ、私をそうまでして連れて行きたいパーティって、なに?」

 ルキが黒い瞳を細めて私を見上げる。ネクタイを更に締め上げることで、早く話せと言外に促すと、彼は深い溜息を吐きだした。息苦しさと言うよりは鬱陶しさが勝っているような不機嫌面で私の手を払いのけ、一旦ネクタイを解いて、再び締め直していく。流石に私よりは手慣れているようで、動きに迷いがない。

「会場でお前がどんな反応をするのか見てみたかったが、仕方ないな」
「……?」

 首を傾げる私に、彼は世間話でもするような気軽な口調で続けた。

「逆巻アヤトと小森ユイの結婚披露宴だ」

 さっきよりも随分見栄えのいい逆三角が、きゅっと衣擦れの音を立てながら、襟下へ押し上げられた。




 人混みは苦手だ。
 幼い頃、父さんの城の一室に引きこもって生活していた私は、あまり人と話すのが得意ではない。口下手なのも自覚している。一対一ですらそれなのだ。また、父さんは私を出来るだけ人目に触れないようにしたかったらしく、過去に父さんの主催で開かれたパーティは数え切れないほどにあるものの、それに呼ばれた回数は他の兄弟を遥かに下回っている。そんな訳で、人慣れもパーティ慣れもしていない私は、閉鎖空間でひしめき合う人混みに混ざるのがとても苦痛だった。
 顔を顰めて壁の方に逃げようとする私を、ことごとくルキが邪魔してくる。彼は私よりも幾分パーティの雰囲気に慣れているようで、人混みに臆することなく目的地へ足を進めていた。彼がどこに向かっているのか簡単に想像出来る私は、手首を引っ張られながら、何度も溜息を吐くほかなかった。
 私たちが会場に到着した頃には、挨拶や何やらも既に済んでいたようで、ホール内ではきらびやかなドレスや質の良いスーツに身を包んだ吸血鬼の連中が談笑していた。その中で、一際人混みの密度が濃い場所。そこに、彼らは居た。
 このパーティの主役たちだ。
 久しぶりに見たアヤトとユイは、突然現れたルキを目の前に、随分と驚いた顔をしていた。
 好奇の目に晒されるのを避けるために、場所を人気のないホールの隅に移して、私たちは向き合っていた。正確には、アヤトとユイの二人に向き合うルキの少し後ろで、私はぼうっと三人を見ているだけなのだが。

「この度は、ご結婚おめでとうございます。お二人の晴れの門出を心から祝福申し上げます」

 柔和な笑みを浮かべながらすらすらと祝いの言葉を述べたルキ。ユイは恥ずかしそうに頬を赤く染めて、けれど嬉しそうに笑って「ありがとう、ルキくん」と返す。アヤトはルキの口から祝いの言葉が出てきたのがよほど気持ち悪いらしく、警戒心丸出しでルキを睨みつけていた。
 それから続いて、久しぶりに会ったことの挨拶、軽い近況報告を交わし始める。ルキがアヤトをからかって、アヤトがルキにキレて、ユイがそれを窘め、そのユイを更にルキがからかう。『アダムの林檎計画』を遂行していた高校在籍当時では到底考えられないような、平凡なやりとりが繰り広げられている。
 その三人の会話を、スクリーンの向こうに映しだされた映像を見ているような、現実味の伴わないものとして聞き流す。徐々に、脳がその音声さえシャットアウトしていく。音のない世界で、見慣れた顔が見慣れない姿で笑っているのを視界に収めながら、私の思考は内側に埋没していった。
 黒いウエディングドレスに身を包んだユイは、吸血鬼という闇の眷属だらけのホール内にあっても、その純白さを失っていない。黒にも闇にも染まることなく、白いままに咲く彼女は、闇の眷属の一員である私には、すこし眩しい。まるで太陽みたいだ。身も心も全て、その慈悲深い光に焼き尽くされそうになる。
 最後に見たときよりも随分大人びているようだ。薄く化粧をしていることもその一因だろうが、何よりも、五年という歳月は人間のユイを変化させるには充分な時間だった。あの時彼女は十七歳だったから、いまは二十二歳か。天真爛漫な子供のような表情はなりを潜め、今はすっかり落ち着いた気品の漂う大人の表情になっている。自分が知らない間に彼女が変わっていたことに少しだけ寂寥感が湧いた。
 けれど笑みだけは、あのお日さまみたいな、見る者の心を温かくしてくれるような優しいもののままだった。その事実にひどく安心する。
 何度、彼女のこの笑顔に救われただろうか。
 同族からは疎まれ、かといって人間と暮らすことも出来なかった私は、父さんの城の一室に引きこもり独りきりで過ごすことに慣れてしまっていた。そうして、ひとりぼっちの孤独の寂しさから必死に逃げていた。そんな私を救ってくれたのがユイであり、彼女の笑顔だった。彼女が傍にいて、嬉しそうに笑ってくれるだけで、私の心はかつてないほどの幸福に満たされた。
 ユイは私の存在を忘れている。彼女だけでなく、他の六人の兄弟も、私という記憶を失っている。父さんが彼らの記憶を弄ったらしい。忘れられたことに多少の寂しさは付きまとったけれど、何よりも私にとって重要なのは、ユイが幸せそうに笑っていられることだ。
 無神ルキに拉致された日からおよそ三ヶ月後、嶺帝学院の図書室でアヤトとユイの逢引を見たとき、ああ、これで良かったんだ、と思った。だってあの時のユイは、アヤトへの愛情を全身で表現しているように思えたし、あの傍若無人なアヤトもその想いに応えているように見えたから。中途半端な私と一緒にいるより、アヤトといる方がよほどユイにとっては幸せだ。
 そして今も、同じことを思った。アヤトの隣で微笑むユイには、この世の幸せを全てそこに詰め込んだような光に満ち溢れていた。彼女が幸せに笑えるなら、それでいい。

「ところでルキくん、そちらの方は……?」

 ユイがおずおずと、何故か頬を赤く染めながら私の方に視線を向けた。問われたルキはああ、と相槌を打ち、私の名前を告げ、「俺の屋敷の居候だ」と心外な説明を加える。が、訂正する必要性も感じなかったから、黙って軽く会釈する。
 ユイは僅かに委縮したように、それでいて照れと羨望が混じった眼差しでこちらを見つつ、にっこり微笑む。

「(……ああ、ユイのこういうところ、変わってない)」

 その態度は、彼女が逆巻の屋敷にやってきて初めて私の姿を見た時や、書庫で彼女が初めて私に話しかけてきた時の態度にとても良く似ていた。
 大人びても、やっぱり昔の純真無垢な温かい雰囲気が変わっていないことに、どうしてこんなにも安心するんだろう。

「初めまして、わたし、小森ユイって言います」

 ――そして、どうしてこんなに、苦しいんだろう。
 ユイが、私の大好きな温かい笑顔を浮かべている。彼女が笑っていられるならそれでいいと思っていたはずなのに。それで私も幸せだと思っていたはずなのに。どうしてこんなに苦しくて、胸が締め付けられるんだろう。何か大切なものがぽっかり胸から抜け落ちてしまったような喪失感が全身に広がっていく。
 書庫で初めて話した時みたいに、「知ってるけど」と返しそうになって、慌てて口を噤む。そうだ、ユイは私を忘れているから、私も彼女と初対面のはずなんだ。
 その事実を再確認すると、ぽっかり空いた胸の穴が、じくじくと不愉快な痛みと共に、その大きさを広げていった。

「……『初めまして』、ナマエと申します」

 はじめまして。この言葉を口に出した途端、私はもう駄目だと思った。
 その後のことは、よく覚えていない。三人が引き続き会話している中、ルキに「人酔いしたから隅っこに行ってる」とだけ告げて、私はそそくさとその場を後にした。




 人間と吸血鬼に流れる時間は違う。
 人間が一生を終えるおよそ八十年の月日で、吸血鬼は赤ん坊から人間でいう十歳程度までにしか成長しない。その後吸血鬼の成長速度は更に遅くなり、およそ十代後半から二十代前半の容姿で変化が止まってしまう。永久を生きる吸血鬼とはそういう存在だ。世界の変化から取り残され続ける、哀れな種族なのだ。
 だから、人間のユイと吸血鬼の私が相容れないのは当然だ。
 知らない間に成長したユイと、あの時から何も変化がなく時間が止まってしまった私。相容れないのは当然なんだから、気に留めることでもないのだ。
 なのに、その事実が心を抉ってくる。私は人生で初めて、世界から取り残されたことに寂しさを覚えた。
 人が近寄ってこないホールの隅っこ。壁に背中を預けて、私は深く息を吐き出した。あの場からここにくるまで、ずっと彼らの視線が背中にへばりついているような気がして、満足に呼吸が出来なかった。その息苦しさがようやく緩和される。
 大嫌いな人混みをぼんやり視界に収めながら、私はずっと考えていた。ぐるぐると気持ちを整理していけば、さすがに自覚しないわけにはいかなかった。先ほどの胸の痛みの正体を。
 ユイと一緒に居たかった、自分へ笑いかけて欲しかった。そんな欲望と。
 それが叶わなかった寂しさ、そして悲しさ。
 こんな感情が私にあったなんて、知らなかった。出来ることなら知りたくなかった。だって、ユイはもう私のことを覚えていないから。今更こんな欲望を自覚したって、どうにもならない。胸の痛みは決して心地のいいものではない。味わわなくて済むのならそうしたい。
 この冷たい身体に血液を送り出す『核』の辺りに手を置いて、痛みが鎮まるように念じる。けれど私の思いに反して、じくじくと不快な痛みは私を苛み続ける。
 早く、帰ろう。今日のことは忘れよう。ユイのことも、他の兄弟のことも全部忘れてしまおう。そうしたら、きっとこんな苦しい思いをしなくて済む。
 一人で帰っても良かったが、何となくそうする気にはなれなくて、無意識の内にルキの姿を探す。
 ――そして、気がついた。

「あ、ナマエさん!」

 ユイが私のところにやって来ている。何枚もレースを重ねられてふんわり膨らんだドレスで、ちょっと動きにくそうにしながら、小走りで近づいてくる。カンカンと甲高く響くユイのヒールの音が、喧騒の中妙に耳についた。彼女は私の前までやってくると、はぁはぁと荒い息で、剥き出しになった白くて細い肩を上下させ、必死に呼吸を整えようとしている。その間に、私も、湧きあがった疑問と動揺を必死に押し殺した。

「どうかしましたか?」

 きっと私は相変わらずの無表情なのだろう。昔から自分でも嫌になるほど表情筋の働きが鈍かった。今はそれが動揺を隠すのに幸いしたのだが。
 ユイはまだ整わない呼吸のまま、にっこりと微笑んで、「ナマエさんに訊きたいことがあったんです」とここに来た理由を教えてくれた。

「あの、わたし、前にナマエさんと会ったことありませんか?」

 思考が、止まった。

「ユイさんは面白い方ですね、どうしてそう思われるんですか?」

 口は勝手に言葉を吐きだしていく。

「ナマエさんを初めて見た時、何だか、すごく懐かしい感じがしたんです。それから、何か大事なことを忘れてるぞって、誰かに言われてる気がして」

 ――ああ。
 これは、喜べばいいんだろうか?
 吸血鬼の王であるカールハインツの力は絶対的だ。彼がユイや兄弟から私の記憶を奪ったのなら、それは完璧に遂行されているはず。となると、彼女が私を見て『懐かしい感じがした』というのは、父さんが敢えてそうなるよう、ユイの中に僅かな記憶を残しておいたか、ユイが本能的な部分で私の存在を覚えていてくれていたかのどちらかだ。
 個人的には後者の方が喜ばしいが、真実はわからない。でも、原因が父さんの思惑であれ、ユイのおかげであれ、彼女が私のことをまだ心のどこかで覚えてくれているという事実に変わりはない。
 もしかしたら、ここで五年前の全てを話せば、ユイは私のことを思い出してくれるかもしれない。すぐには思い出せなくても、優しいユイのことだから、思い出す努力をしてくれるに違いない。そうしたら、また一緒に居られるんじゃないか。そんな打算に塗れた感情が首をもたげる。

「……いいえ」

 でも。

「貴女とは今日初めてお会いしましたよ。誰かと間違えているのかもしれませんね。何だかごめんなさい」

 でも、やっぱり、そんなの駄目だ。
 そんなことをしたら、ユイのアヤトとの幸せはきっと壊れる。今みたいに幸せそうな、あのお日さまみたいな笑顔を浮かべられなくなるかもしれない。
 胸の痛みはとても不愉快で、ユイに忘れられた哀しみも寂しさも身を引き裂くようなものだ。これが解消できるなら、ユイと一緒にいられるなら、そんな欲望は消えない。
 けれど、五年前から私が一番望むものは変わっていない。
 ユイが幸せならそれでいいんだ。
 自分の欲望を自覚してなお、そう思った。

「そ、うですか……」

 ひどく落胆した様子のユイを見ていられなかった。彼女から目を逸らせば、ふと視界の端に、ユイの元に走ってくるアヤトの姿を見つける。

「旦那さまとお幸せに。ご結婚おめでとうございます」

 何とかそれだけ言いきって、私は逃げるようにその場を後にした。




 もう会場内に居る気にはなれなかった。人に酔ったのもあるし、あれ以上あの空間にいたら、ますます思考がマイナスの方へ傾く気がした。だから、人が少なく、新鮮な空気を吸うにもちょうどいいであろうバルコニーへ足を向けたのだ。
 予想通り、バルコニーには殆ど人影が無かった。パーティの参加者の大半は会場内で談笑に夢中だ。深い呼吸を繰り返しながら、ガラス扉越しに会場内を眺める。早く帰りたくて、バルコニーをゆっくり歩き回りながら、ホール内にいるはずのルキの姿を探す。
 ふと、ヒールに何かが引っ掛かった。下を見てみれば、黒くて細長いネクタイが落ちていた。特に理由もなくそれを拾い上げると、横合いから声が聞こえてくる。

「あー……そこのあんた、そうそう、あんた。悪いんだけどさ、そのネクタイこっち持ってきてくんない? そこまで行くの面倒でさ」

 やっぱり兄弟は、吸血鬼だから、五年経っても変わらないな。
 最後に見たときとまったく変化のない兄の姿がそこにあった。薔薇が咲き乱れる花壇の石垣の上にぐでんと身体を横たえ、澄んだ青い瞳をこちらに向けている。彼の腕がのろのろ持ちあがり、私の手の中にあるネクタイを指差して「それだよ。聞こえてんだろ? 持ってきて」と催促される。
 断る理由もないので傍に近寄ると、シュウはやはり怠そうに身体を起こして、頭をガシガシかいた。ふわふわした金髪に葉っぱがくっついている。気付いていないのか、気付いていて取るのが面倒なのか知らないが、シュウはその葉っぱを頭にくっつけたまま、手を伸ばしてきた。持っていたネクタイを彼に渡す。またのろのろした動きでネクタイを首に回すと、ルキとは比べ物にならないくらい雑にそれを結び始めた。
 その場を去るタイミングを逃してしまい、シュウの前に突っ立ったまま、振り返って背後のガラス扉の向こうを見る。隅から隅まで視線を走らせて、ようやくルキの姿を見つけた。彼は誰かと話をしているようだ。

「(……ああ、また馬鹿なことやってる。いい加減やめればいいのに)」

 見間違うはずもない、そこにいたのは、大っきらいな私の父親。
 ルキは未だに、会話をする度に傷つくのを分かっていて、それでも父さんに会いに行っているらしい。この五年間ずっと変わらない。そしてこの先もきっと変わらない。相変わらず彼はカールハインツに愛を強請っていて、それを貰えないことに恨みを抱き、そしてその負の感情を私にぶつけている。本当に、馬鹿な人だ。

「なあ、あんた」

 唐突に声をかけられて、私は再びシュウに向き直った。肌蹴たシャツに、胸のあたりで緩く結ばれているネクタイ。彼も結婚式に参加しているひとりなのだから、服装はちゃんとしないといけないはずなのに、相変わらずこの長男はその辺りに無頓着らしい。レイジが見たら悲鳴を上げそうなくらい乱れた着こなしだ。

「なんでしょう」

 シュウも私を忘れている。初対面のふりをして、丁寧な敬語で訊いてみた。シュウは私をじっと見上げて、数秒間何かを考えるように黙ったあと、ぽつりと、独り言をこぼすように言った。

「あんた、前にどこかで会ったことないか」

 シュウも、私のことを覚えていた?
 ……なんだ。そういうことか。
 答えは決まっている。先ほどユイに返した時よりも幾分スムーズに言葉は出てきた。

「いいえ、貴方とは今日初めてお会いしましたよ」
「……そうか。変なこと言って悪かったな」
「大丈夫です、お気になさらず。それでは、私はこれで」

 納得がいかないといった様子のシュウにそう告げて、私は会場に戻った。
 見ればルキは父さんとの会話を終えていた。どうせ彼もこれ以上ここに居たいとは思わないだろう。早く帰って寝たいものだ。




 無神邸へ向かうリムジンに揺られながら、シュウの言葉を頭の中で反芻する。

『あんた、前にどこかで会ったことないか』

 父さんの力は絶対的だ。彼が記憶を消したというのなら、それは完璧に遂行されたはず。それでも記憶が残っている可能性として、父さんが意図的にそうしたか、あるいは記憶を消された人の本能がそれを覚えていたか、その二つくらいしか考えられない。
 ユイとはそれなりに仲良くしていたつもりだったから、後者の可能性もあるかな、と思っていた。いや、後者の方が私は嬉しかった。
 けれどシュウは違う。確かに、シュウとレイジは下の四人よりも幾分かは交流の多かった兄たちだが、それでも『接触のほとんどない家族』程度でしかない。シュウが特別私のことを想っていたなんてことは天地がひっくりかえってもあり得ないから、さっき挙げた後者の可能性は否定されたことになる。
 つまりは、父さんの手のひらの上で踊らされかけたのだ。父さんは敢えて、私についての記憶の一部を彼らに残していた。そうやって、懐かしさを覚えた彼らが私に『前に会ったことがないか』と訊いてきたとき、私が彼らの本能が覚えていてくれたのだと喜び、『会ったことがある』と答えていたら。父さんは、さぞ滑稽な娘の姿を見れたのだろう。
 本当に、性格の悪い。やはり私はあの父親が大嫌いだ。
 そして何よりも、一瞬でも希望に縋りそうになった自分が情けなかった。

「随分顔色が悪いようだが、パーティは楽しめたか?」
「その言葉、そっくりそのまま君に返すよ。父さんとのお話は楽しかった?」

 少し距離をあけて隣に座るルキが問うてきたから、顔色の悪い彼にそう返せば、彼は肩を竦めて自嘲気味な笑みを口元に浮かべ「あまり気分の良いものではなかったな」と答えた。
 疲れたように溜息を吐きつつ、ネクタイを緩め、Yシャツのボタンを二つほど外していた。彼は几帳面ではあるが真面目な人物ではない。大好きなカールハインツ様に会うから一応きちんとスーツを着てはいたが、帰りの今はその堅苦しさを煩わしく思う気持ちが勝ったんだろう。

「何の話してたの」
「逆巻の三男と小森ユイの行く末を見守れ、と念を押された」
「ふうん」

 『アダムの林檎計画』でアダムになれなかったルキにとって、そう念を押されるというのは、「お前は失敗した、もう戦力外だ、だからただ黙って先を見ていろ」と言われているようなものだ。自分の手で父さんのくだらない野望に貢献したかった彼にとって、それを何度も言われるのは相当の苦痛を伴っているはず。
 こんな思いをしてもまだ彼は父さんに忠誠を誓っているんだ。本当に、馬鹿な人だ。
 ――いいや、馬鹿なのは私も同じか。
 一瞬でも自分の欲望を満たそうと、父さんによってお膳立てされた『希望』に縋ろうとしたのだから。
 欲しいものが手に入らないのも、父さんの手のひらで踊らされているのも、彼と同じだ。
 そういえば、ルキは何度も言っていたっけ。「お前と俺は似ている」って。今ようやくその意味が自分なりに理解できた気がした。

「私が君にあの屋敷へ連れていかれてから、三ヶ月くらい経った時だよね。学校の図書室でアヤトとユイの逢い引きを見たのって」

 脳裏に情景を思い浮かべながら横に座る彼に問えば、ああ、と短い返事が返ってきた。座席に浅く腰かけ、背もたれにどっしり背中を預けて、肘かけに肘を置いて頬杖をついている。普段の彼よりもだらしない座り方だった。よほど疲れているらしく、眠るように瞼も閉じられていた。

「……あれからもう五年か」
「ふっ、時間の経過を想起して感傷に浸っているのか。永久の時を生きるヴァンパイアとは思えない発言だな」
「半分は人間だから。……君と同じ紛いもののヴァンパイア」

 記憶を遡り、やがて彼に屋敷へ拉致されたあの日のことを思い出した。

「君はさ、『お前には、俺以外誰も残らない』って言ったよね」
「ああ、言ったな」
「その通りになったな、って、今思った」

 視界の隅でルキが目を開けてこちらを見ていた。一瞬驚いたように目を見張ったかと思えば、唇の端を歪めて、底意地の悪そうな笑みを浮かべる。勝ち誇ったような彼の表情に、もはや何の苛立ちも湧いてこなかった。


終わりましたー!長かった。休止中にふと思いついてからずっと書きたかった話です。これでルキとバッドエンド本筋は終わりです。なんかまとまりがないぐだぐだしたものになりましたが……。ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました!
ユイちゃん、アヤトと結婚おめでとう!幸せになってね!
長女とルキくんは幸せにならないでね!



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -