胡散臭い男の厚意なんて信用すべきではない。



 午後十時頃のことだった。不本意ながらも、無神邸での生活にすっかり慣れてしまっていた私は、元いた屋敷よりも遥かに和気藹々と繰り広げられる晩餐会で、何の疑問も持たずに人間の食事を平らげ、自室に戻りベッドに腰掛けて本を読み耽っていた。私の役割は、この屋敷で最も権力のある男の暇を潰す手伝いをすることだけで、それ以外は基本的に自由時間だ。部屋を出て他の連中に絡まれるのも面倒なので、書庫で本を拝借する以外は自室に篭るのが常だった。
 本が盛り上がりに差し掛かった時、二度のノックの後返事を待たずに扉が開かれたかと思えば、そこには無神ルキが立っていた。彼は部屋に入って来るなり、「喉は渇いてないか?」なんて、胡散臭い笑顔と共に温まったカップを差し出し、紅茶を注いだ。どう考えても怪しい。胡乱な言動の意図を探って彼を睨みつければ、彼は部屋に備え付けてある椅子に腰を下ろして、自分もその紅茶を飲み始めた。あまりにも私が疑うものだから、害はないぞ、ということを証明をしたらしい。確かに害は無さそうに見えたし、断る理由もないので、渡されたカップに口をつけた。
 紅茶を飲みつつ読書を再開し、半分くらい飲み干した辺りで、視界の端にいた彼が自分の口元を手で覆っていることに気がついた。間も無く、それが笑いを堪えるための動作であることを理解した。私が首を傾げて見ているのに気付いた彼は、口元から手を離し、今度こそ隠しもせずに笑ってこう言った。

「お前、意外と間抜けなんだな。紅茶に何かを入れられていると疑うくらいなら、どうしてカップの方に細工をされている可能性に頭が回らないのか」

 やられた。カップが手から落ちて、琥珀色の液体が絨毯をゆっくりと汚していく。普段ならば、彼は家具を汚したことを叱責してくるはずなのだが、かけられたのは「ああ、勿体無いな」なんて適当な言葉だけで、彼は悠然とした態度で私を観察していた。その勝ち誇った笑みに嫌な予感が膨らんでいく。一体何を飲ませたのか。喉に手を当てて、意味はないと分かりつつも何とか吐き出せないものかと咳き込んでいたら、彼が立ち上がってこちらに歩み寄ってきた。私が落としたカップを拾い上げ、淵を指でなぞりながら、ゆったりと微笑む。

「安心しろ、死に至るような毒なんて入れていない。まあ、お前にとっては、そっちの方が害が少ないかもしれないがな」

 それから、まるで見せつけるように、私が口をつけた辺りにゆっくりと舌を這わせた。



 その十分後くらいだ。身体の奥底から熱が燻り始めた。頭と目尻が熱くなって、悲しくもないのに涙が浮かぶ。奥底の熱は徐々に身体の端にまで広がり、全身に痺れが走った。はあはあと荒くなった呼吸で吐き出される息は、体温のない吸血鬼であるはずなのに、熱の塊のようだった。徐々に鈍くなる思考の中、何とか飲まされたものが媚薬と呼ばれる類いのものであると理解した私は、再び椅子に腰を下ろしてこちらを見ていた男を睨みつけた。

「どうしてこんなものを飲ませのか、と言いたそうな顔をしているな」

 短い肯定の言葉を吐き出すのすら辛くて、満足に言うことを聞かない首を僅かに動かして首肯した。

「お前があまりにも澄ました顔をしているから、腹が立ってな。俗物には溺れないとでも言いたげなその態度を崩してやりたくなった」

 もう座っているのも辛くて、ベッドへ仰向けに倒れこんだ。ひんやり冷たいシーツがとても気持ち良いものだから、すりすりと頬を擦り寄せて、身体に燻る熱を冷まそうと試みる。

「効果は丸一日と言ったところか。その様子を見ると、流石のお前でも薬の力には抗えないんだな」
「……本当に、君は……性格悪いよね」

 悪態をつく声は震えていた。生まれて初めての感覚に戸惑いを隠せない。最早痛いとすら言える痺れに、唇を噛むことで何とか耐えるが、当然ながらどうにもならなかった。湧き上がる熱は止まるところを知らない。そうこうしている内に、彼が椅子から立ち上がる気配があった。こちらへ近寄ってきて、私の顔の横に腕をつき、覆い被さる形で見下ろしてくる。

「今の顔を見るだけで十分試す価値はあったと言える。……が、まだ足りないな。折角だから、お前を地の底まで引きずりおろしてやりたい」

 私をこの屋敷に連れてきたあの日のような、碌でもない意思の感じられる光がそこにあった。

「身体にどうにもならない程の熱が燻って、つらいだろう? どんなに快楽が伴うように吸血をしても顔色一つ変えなかったお前が、こんな顔をするくらいなんだ。なあ、お前が望むなら、俺がその熱を解放する手助けをしてやる。どうする?」

 長くて少しごつごつした指が、先を促すように私の唇を撫でた。頭がぼんやりする。こんな辛い熱から解放されるのなら、彼に縋ってしまうのも一つの手かもしれない。そう、思ったけれど。

「……邪魔だから、退いてくれる?」

 熱に侵され過ぎて感覚がぼやけはじめた右手で、何とか彼の肩を押して距離を作ろうとする。実際に込められた力は赤子の叩きよりも小さなものだっただろうが、意外にも、彼の身体はあっさり離れていった。

「……二十四時間って、言ったっけ。それで、この薬は、切れるんだね」
「……お前」

 震える唇で何とか言葉にしながら、もぞもぞと身体を動かして、足蹴にしていた布団に潜り込むと、枕に頭を預けた。すぐそばで突っ立っている彼に背中を向けるようにして、私は睡眠の体勢に入る。

「じゃあ、二十四時間、我慢する。君に頼るくらいなら、その方がマシだと思うし」

 無意識の内に太腿を擦り合わせてしまいそうになる。熱を解放するためとはいえ、短絡的な快感を得ようとする本能が私にもあったらしい。初めての感覚にはやはり戸惑うしかないが、彼の意図に沿ってやるのも癪なのだ。私は目を閉じて、この苦しみから逃れるべく、睡眠に身を投じようとした。



 まあ、寝れる訳がなかった。
 時間を経る毎に熱は際限なく溢れ出し、身体を舐め尽くしていく。布団に顔を押し付けて息を殺そうとしても、はあはあと肩でされる呼吸は確実に隠しきれるものではなかった。未だに私をこんな目に遭わせた男は部屋にいるらしい。思い通りにならなかった代わりに、二十四時間苦しみ続ける私を観察して溜飲を下げるつもりなのかもしれない。本当に性格が悪い奴である。私の兄弟も大概人格の破綻した無茶苦茶な連中だが、彼は兄弟達とは違ったベクトルで人格が破綻していた。まあ、吸血鬼に平穏な優しい性格を求める方が間違いだということは、私自身にも当てはまることなのだから、何も口出し出来ないのだけれど。
 もう何も考えられない。あと何時間この苦痛に耐えなければならないのか確かめたいけれど、時計を見る余裕もない。完全に停止した思考の中、一瞬電流が走ったように、名案が浮かんできた。そうだ、確か吸血には、快楽が伴うんだっけ。私は何度もあの男に吸血されてきたが、身悶えるほどの快楽というものを味わったことがない。だから、吸血に快楽が伴うというのは、実感のない知識でしかないのだが、かつて私が吸血してきた相手の反応を思い起こすと、それは事実なのだろう。そこまで思い至って、私は何も考えず、自分の手首に思いっきりキバを突き立てていた。特に感想の湧かない味の血液が口一杯に広がるが、それを飲み下すこともなく、ただ傷をつけるためだけに、キバを更に深くへ押し込んでいく。口から零れた血液が枕元を濡らして、あっという間に白いそれを真っ赤に染め上げた。
 残念ながら、自分で噛んでも流石に快楽はなかった。けれども、その痛みに集中すればほんの少しだけ苦しみを紛らわせることが出来たから、私は夢中になって手首を噛み続けた。
 そして二十四時間が経過した。



 やっと薬が抜けた。身体を蝕み続けた熱は鎮火し始めていた。精神的にも体力的にも消耗してしまった。半ば放心状態で寝返りを打って、仰向けになり、天井を見上げる。僅かに首を動かせば、やっぱり椅子には彼が座っていた。本当に二十四時間観察を続けたらしい。気持ち悪い奴だ。

「中々面白かった。お前は俺が想像していたよりも遥かにプライドのある人物だったようだな。正直耐え切るとは思っていなかった」
「それは……どうも……」

 声を出すのもやっとだ。尋常ではない疲労感が私を襲ってくる。視界の端で彼が立ち上がりこちらへ近づいてくるのが分かっていても、それが何のためだとか、警戒すべきだとか、そういった考えが一切浮かんでこなかった。もう駄目だ、眠い、寝よう。重たい瞼を閉じた。

「そこで一つ提案なんだが、折角だから、お前の精神力がどこまで保つか試してみようと思う」

 だから、そんな言葉が聞こえてきても、なにも反応出来なかったのだ。
 目を開けた時には、彼は覆い被さってきていて、無色透明な液体の入った小瓶を私の口に押し込んでいた。碌に抵抗も出来ないままそれを飲み下す。瓶が空っぽになって、彼がそれに栓をしてポケットにしまいこみ、こちらを見下ろして微笑んだところまで確認してようやく、私は何を飲まされたのか理解した。背筋がぞっと冷えていく。

「本当に、警戒心が足りないな」

 顔を近づけて、少し首を傾げると、彼は挑戦するように言った。

「一日頑張れたんだから、あともう一日くらい、我慢出来るだろう?」

 再び湧き上がる熱を感じながら、私はここに連れて来られた日と同じような絶望感を味わわされていた。



 もう一日、で終わるはずがなかった。
 あの後、半ば死にそうな気持ちになりながら、腕にキバを突き刺し痛みに集中することで何とか一日乗り切ったものの、薬が抜けて少しすると、ずっと私を観察していた彼が再び薬を飲ませた。学習しないと言われればそれまでだが、拷問のような二日間を過ごした私には、抵抗出来るほどの気力も体力も無かったのだ。それをその後四回繰り返された。結局ほぼまる六日に渡って、私はあの狂おしい熱に耐えたのである。あまりにも熱が強すぎて、睡眠に逃避することも出来ず、一日中ベッドの上でのたうちまわっていた。六日目にはもう本格的に何も考えられないようになっていて、その時、確か、こんなことを言われた。

「終わらせて欲しいか。だったら諦めて、俺を受け入れろ」

 解放されるなら何でもいい。そう思って何度も頷いた。
 それから彼は、私の全身に余すところなくキバの痕を残した。今まで漠然としか感じていなかった吸血の快楽というものが、薬の効果で感覚が敏感になったことでようやく実感の伴うものになった。頭が真っ白になるほどの強過ぎる快楽から逃れようと何度も身を捩っては、その度に身体をシーツに押し付けられて、吸血は続いた。みっともない声を漏らしそうになるのを、唇を強く噛み締めることで何とか堪えながら、ずっとその感覚に溺れていた。やがて他に噛む場所がないほど穴を開けてしまった彼は、まるで殺人現場みたいに血だらけになっているシーツや私の身体を見下ろしたあと、当然のようにその先の行為をした。これがまた酷かった。じわじわと嬲り殺しにするとはまさにあのことだと思う。手足の先から身体の中心に向かって追い詰めるような愛撫を施し、ただでさえぐちゃぐちゃで形を失った私の理性を完全に叩き潰した。心身がバラバラになりそうな暴力的な快感と、自分の何か大事なものが崩れ去りそうな恐怖感に突き落とされ、絶え間無く聞こえてくる体液の交わる音に頭がおかしくなりそうだった。そして、気が遠くなるほどの長い時間行為は続いた。彼は薬が抜け切るまできっちりと私の身体を弄び続けた。
 正直、これなら薬の作用に耐える方がまだマシなんじゃないかと思うほどだった。彼がいくつ薬のストックを持っていて、あと何日耐えれば良いのかは分からなかった。終わりの見えない苦しみほど辛いものもない。それでも、そんな絶大なマイナス要素を差し引いても、あの最後の一日は酷いものだった。人生最悪と言っても良い。
 あの男は私の兄弟とは違ったベクトルで人格が破綻している。利己主義的なあまり、私で遊ぶために自分の身体さえ道具のように使ってみせたのだ。それは、彼が自分自身に全く執着を持っていないからこそなせる技だった。まあ、やられる私は良い迷惑である。本当に迷惑である。けれど、最後の一日の、もはや偏執的なまでの彼の行動を思い出すと、私を徹底的に壊すことで、私と似ているらしい彼自身を壊そうとしていたのではないか、なんて考えてしまう辺り、私は彼に毒され始めているんだろう。情けない話である。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -