無神アズサという陰気な男に噛まれた手は、キバを突き刺し肉を抉られたせいで、見るも無惨な物に成り果ててしまっていた。彼の唾液と私の血が混ざった薄い赤色の液体がべったりついているのはとても気持ち悪かった。一応水で濯いでみたものの、血液の方は一向に止まる気配がなく、今も尚、傷口からは新しい血が溢れ出していた。
 目の前に傷だらけの手を翳して観察していると、無意識の内に喉をごくりと鳴らしていた。
 吸血鬼は人間を捕食する側の立場である。つまり食物連鎖のピラミッドで言えば、吸血鬼は人間の上に位置している。だからこそ同族たちの大半は、あれほどまで人間に対して傲慢に振る舞える。けれど理性の強さを鑑みれば、人間と比べた吸血鬼なんてただのケダモノに過ぎない。人間は、同族の肉体を食すことをタブー視していることが多いけれど、私たちの主食は血であるから、相手が人間であろうが吸血鬼であろうが、はたまた溝鼠であろうが、食糧にすることができる。
 それは例えば、自分の血でも同じことだ。
 傷だらけの手を口元に近付けて、溢れる血に恐る恐る舌を這わせた。決して美味しいとは思えないけれど、一先ず命の危機を感じるほどの飢餓感が多少は薄らぐ。暫く食事を控えていたのと、ついこの間まではそばに『小森ユイ』という極上の血を持った人間がいたせいで、私の飢餓感は極限に達していたらしい。一度飲めばもう止まらなかった。夢中で自分の血液を舐め取り、嚥下する度に、少しずつ空腹が満たされていく。
 本当に、吸血鬼なんてただのケダモノだ。同族の血でも、自分の血でも、躊躇いなく口にしてしまえる。それとも、自分の血液を飲んで悦に入る私が同族の中でも異端で、特別にケダモノなだけなのか。
 そんな鬱々とした気分になるような思考は頭から引き剥がし、無心で血液が止まるまで舐め続けた。




 ガラリと扉を横に引けば、消毒液の特徴的な匂いが鼻についた。中を見回すと保健医はおらず、代わりにこの場所で見かけるにはとても珍しい後ろ姿があった。薬品棚の前に立っていた長身の彼はこちらを見ると、おや、とちょっとだけ首を傾げた。

「今は授業中ですよ。こんな所に何の用事が?」
「それ、レイジにそっくりそのまま返すよ」
「私は頭痛薬を頂きに来ただけです」
「ああ、そうなんだ。で、保健医が居ないから、勝手に棚を漁ってるわけか」
「人聞きの悪い言い方をしないで頂きたい。それで、貴女はこんなところで何を?」
「ちょっと……怪我して。見た目が汚いから、絆創膏でも貰おうかなって」

 レイジの私によく似た色をした瞳が、全身を舐め回すように観察し始め、やがて視線が手の辺りで止まった。遠目から見てもそれが吸血鬼のキバによる傷だと分かったらしく、すうっと赤い瞳が細められる。

「また随分と不恰好な傷を拵えて来たんですね」

 無神アズサにやられたと言うべきだろうか。一瞬思案したけれど、無神兄弟が転校してきてこの方、ユイの血が飲みたい探すぞあいつらぶっ殺すと暴れるアヤトやカナトを宥めたり、無神の連中が妙なことを起こさないか気を張ったりして苦労しっぱなしの彼に、これ以上変な負担をかけるのも可哀想な気がして、「ええと、うん」と曖昧な相槌で済ませることにしておいた。
 レイジは深い溜息を吐くと、まあ良いです、と投げやりな様子で返事をしてから、ここに座って下さい、と言いながら彼のすぐそばにある椅子を指差した。薬品棚から消毒液やガーゼを取り出しているところを見るに、手当をしてくれるらしい。それほど手先が器用でない私が片手で処置するよりもレイジにやって貰った方が良いのは考えるまでもないので、彼の好意に甘えることにして、私は椅子に腰を下ろした。
 傷だらけの手をレイジの方に差し出す。流水で洗ったかどうかを訊かれたので肯定すると、彼の整った指が迷いのない手付きで傷の処置を始めた。レイジがじっと押し黙るものだから、私も何となく声をかけ辛くて、口を噤んで彼の手元を見ていると、あっという間に傷口は消毒され、ガーゼを貼り付けられ、テープで固定された。
 レイジが残ったガーゼや消毒液を薬品棚に戻している。それを視界の端にとめながら、私はすっかり傷を覆われた手を目の前に掲げた。うん、やっぱり私がやるより遥かに早くて綺麗に仕上がった。我が兄弟ながら彼の几帳面さは大したものである。レイジの仕事ぶりに感心していると、薬品棚のガラス扉を閉めた彼が振り返って私を見下ろした。

「それで、その不恰好な傷は何処のヴァンパイアにやられたのですか」

 一応彼に気を遣って黙っていたんだけれど、訊かれたなら答えるしかない。無神アズサ、とフルネームで告げると、彼はとても嫌そうに顔を顰めた。だから黙ってたんだけどな。

「可笑しいですね、彼らの目的は小森ユイだけだと推測していたのですが。それとも、彼女を取り戻しに来る可能性のある危険因子を取り除こうという腹積もりなのか」
「うーん……あれはただの私怨な気がするな……」
「私怨?」
「ユイがどうのって関係なく、アズサが個人的に私に興味を持っただけっぽいというか」
「そうですか」

 途端彼の僅かに寄せられた眉間の皺が和らいだ。自分の家に危険が降りかかる訳ではないと分かったためだろう。面倒ごとは持ち込まないでくださいね、と赤い瞳が言外に語っていた。中々に薄情な奴である。
 会話はひと段落したので、彼が教室に戻るのを待ってから私も保健室を出ようと思い(私が授業をサボっているのは知っているだろうが、流石に彼の目の前で不真面目な行動をすれば長々とした説教は避けられないからだ)、椅子に腰を落ち着けたままにしていたら、彼が私を凝視するものだから、私も彼の顔をじっと見返した。
 ややあって、

「ところで、貴女の口から貴女の血液の匂いがするのですが」

 彼は瞳を細めそう言った。言わなくても分かるけれど、一応弁解を聞いてやる、そんな語調だ。隠す必要もないので、無神アズサにやられた傷から溢れる血を見ていたらお腹が空いたから食べた、と返せば、今度は露骨に軽蔑された。

「信じられません。理性のある者の行動とは思えない」
「……同感」
「貴女が飢えて死のうが無神アズサに私怨で傷をつけられようが構いませんが、逆巻家の名に泥を塗るような恥ずべき行為は避けなさい。空腹を満たすために自分の血を食すなど、ただのケダモノがやることです」
「返す言葉もございません」
「貴女にもう少し理性的な行動をとれる程度の頭があると信じていますよ。それでは、私はこれで」

 言って、これ以上同じ空間に居たくないとばかりに、彼はさっさと保健室を出て行った。閉ざされた扉をぼんやり眺めた後、椅子から立ち上がってベッドに寝転がる。
 誇り高き逆巻家の純血ヴァンパイア様的には、やはり自分の血を食すなんて穢れた行為であるらしい。レイジが潔癖症なせいもあるだろうが、多分、他の兄弟に訊いても、同じような意見が返ってくるはずだ。
 極限の飢餓感を覚えるまで吸血をサボった自分の思慮の浅さを嘆くべきか、簡単にタブーを犯してまえる自分の理性のなさを嘆くべきか。判断はつかなかったけれど、とにかく分かったのは、私は吸血鬼の中でも異端なケダモノらしいということだ。その考えに思い当たって少し落ち込んでしまうのは、無神アズサに図書室で言われたことが、遠からず当たっていたからだと思う。


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