初めは純粋な忠誠心だった。やがてその中に見返りを求める傲慢さが生まれ、望むものが手に入らないと気がついた時、初めの感情は澱み腐敗臭の漂う穢れたものに成り下がった。



 そう、初めは、単純で潔白な忠誠心だった。
 人間への恨みを晴らす手段を与えて貰えたことへの感謝、この人についていけば目的が達成出来るという期待感、自分より遥かに長く生きているが故に世界の全てを知り尽くしている聡明さへの憧れ。そういった好意が合わさって、カールハインツ様への忠誠心が形成されていた。俺の全てを、この方の為に捧げたい。この下らない命で役に立つ事が出来るなら、何だってしてやる。そんな想いだった。同時期に吸血鬼になった自身を含む四人の『兄弟』の中で、俺にだけ勉学を授けて下さり、「お前は飲み込みが良い、私としても誇らしいことだ」そう褒められた時、かつてない程の喜びで全身が打ち震えた。カールハインツ様に、もっと褒めて貰いたい、そう思って、俺は益々勉学にのめり込んだ。今にして思えば、自分の人生の中で、この時が最も幸せだったのかもしれない。
 やがて、長い時を過ごす内に、俺の中で欲が膨らみ始めた。最初は褒められるだけで、カールハインツ様のお役に立てるだけで満足だった。それなのに、もっと褒められたい、まだ、まだ足りない、カールハインツ様に認められたい、大切だと思われたい、そんな欲望が際限なく生まれたのだ。その頃には、俺は自身が吸血鬼であることにも慣れ始めていて、ある程度冷静に自分自身とそれを取り巻く環境を観察することが出来るようになっていた。そして、気がついた。俺に勉学を授けて下さっている時も、「よく出来た」と褒めて下さる時も、他の兄弟と話しておられる時も、カールハインツ様の関心は常に、彼の息子達に注がれていることに。
 盲目的にカールハインツ様を慕い、彼から関心を向けられていると信じて疑わなかった当時の俺にとって、これは衝撃だった。
 まず、苛立ちを感じた。カールハインツ様を彼の息子達に横取りされた気分になった。次に、それは俺の勘違いで、そもそもカールハインツ様は彼らの物だったことに気がついた。そして嫉妬した。カールハインツ様から関心――それは、多少歪んではいるが、恐らく愛情と呼ぶに相応しいものだ――を向けられる彼らが羨ましくて仕方が無かった。同時に、カールハインツ様にとって『無神』の俺たちは、息子達に彼の野望を背負わせるための駒に過ぎず、彼らのように関心を向けられることなど決してあり得ないのだと、悟ってしまった。
 どうして、報われないのだ。俺はこんなに頑張っているのに。勿論、努力が必ず結果に結び付くだなんて、楽観的なことを言うつもりはない。それにしたってこれは、酷すぎるんじゃないか。自分の傲慢さを律する気持ちと、理不尽な現実への不満がごちゃ混ぜになって、蓄積されていった。
 そして抱いてしまった。
 カールハインツ様への、恨みの気持ちを。
 俺の中で決して揺るがなかったカールハインツ様の絶対性が、この時呆気なく崩れ去った。
 彼を慕う気持ちは変わらない。自分の全てを捧げて、少しでも彼の役に立ちたいという想いも未だ持っている。けれど、カールハインツ様に愛して貰えることはないのだという現実を直視したせいで、純粋な忠誠心は侵し尽くされ、すっかり腐敗してしまった。そして、そんな気持ちを抱いてしまう自分を殺してしまいたいほどに嫌悪した。
 それでも俺があの女に出会うまで自我を保っていられたのは、俺がどんな感情を抱いたところでカールハインツ様は意思を変えることはないし、吸血鬼達の常識に則って『愛しい人を殺す』という手段を採ろうにも、吸血鬼の王であるカールハインツ様を相手に紛い物の俺が敵うはずもないということを理解していたからだ。無謀な挑戦をするほど、俺は愚かでもなければ、勇敢でもなかった。
 けれどあの女を見たときに、自分の中に何か不穏な感情が湧き立った。
 カールハインツ様が唯一人間との間に儲けた女の子供。カールハインツ様の神秘的な外見をほぼそのまま受け継いでいるのに、当人の中には人間の血が半分混ざっていて、どちらかといえば俺と同じ『紛い物の吸血鬼』に分類される人物。――つまり、俺の力で壊してしまえるもの。
 『アダムの林檎計画』は、俺たちの努力も虚しく、そしてカールハインツ様の当初の思惑通り、『逆巻家の血を引く者』が覚醒することで幕を下ろした。まさかそれがあの女になるとは思いもしなかったが。そしてこれは、カールハインツ様にとっても誤算だったらしい。アダムとイブ、すなわち吸血鬼と特別な心臓を持つ人間が結ばれ子孫を残さなければ、彼の計画は本当の意味で達成したとは言えないのだ。当然カールハインツ様は軌道の修正を俺たちに命じた。何としてもあの女とイブを引き離し、逆巻の息子達とイブを結び付けろ、と。
 カールハインツ様があの女を嫌悪していたのには薄々気が付いていた。そして、彼女を隔離する方法を、何も指定されなかった。命を奪っても構わない、そういうことだった。
 その命令を受けた瞬間、俺の中の理性が完全に崩壊した。密かに生まれ、押し込められ、腐敗し切ったカールハインツ様への恨みが、あの女を壊すことで昇華出来る。そうすれば俺は、またかつてのように、純粋な忠誠心を以ってカールハインツ様に仕えることが出来る。カールハインツ様に恨みを抱いている、傲慢で愚かな自分を直視しなくて済む。そう思った。
 だから、俺はイブからあの女を引き離し、自分達の屋敷に閉じ込めた。長年蓄積され腐敗した恨みは何度彼女を穢しても尽きることがなく、それどころか増してすらいたが、もう退路がない俺は、そんな事実にすら目を背けて、何度も何度も彼女を穢し続けた。



 愚行だという自覚はあった。
 カールハインツ様の代わりを壊したところで、俺の中に蓄積された負の感情は和らぐ事は無い。そんなこと、試す前に分かり切っていたのだ。彼女を手篭めにしたところで、精神が平静を保てるのは一瞬だけ。終わった後には毎度空虚感に苛まれるし、何も言わずそれを受容する彼女の態度にも苛立った。
 イブと逆巻兄弟から彼女の記憶を取り除くことによって『アダムの林檎計画』は本来あるべき姿で閉幕したが、ちょうどその頃から、俺はカールハインツ様に会うことすらままならなくなっていた。俺たちの役目は終わったが、カールハインツ様は俺たちを度々楽園に呼び出しては、計画の経過を教えて下さった。彼の野望が一歩一歩進んでいることは大変喜ばしいのだが、俺自身がアダムになれなかった悔しさや、逆巻兄弟への嫉妬、何よりカールハインツ様への恨みを抱いた今となっては、その報告すら苦痛としか呼べないものだった。それでも、行かない訳にはいかない。俺たちに拒否権など存在しない。
 結局、カールハインツ様に会うことで噴火寸前になった負の感情は、帰宅早々、彼女にぶつけるのが常だった。
 もう何度繰り返したか分からない。
 夜中楽園に向かい、朝屋敷に戻ってきて、寝ている彼女を叩き起こし、身体に渦巻く苛立ちの赴くまま、好き勝手に壊していく。あまりにも不毛な行為だが、こうでもしないと、俺の精神が崩壊しそうだった。
 彼女は一度も拒まなかった。自分が何故こんなことをされるのか、疑問を抱かないはずはないだろうに、ただ黙って、俺に身を委ねていた。
 だから、この日彼女が声をかけてきたときは、内心かなり驚いた。




「もう、やめたら」

 ベッドに押し倒した彼女の、白く陶器の様に滑らかな肌には、幾つも赤黒いキバの痕が刻まれていた。綺麗な物を壊すというのはどうしてこうも気分を高揚させるのだろうか。唐突に掛けられた制止の言葉が、吸血行為を指しているのだと判断した俺は、珍しい彼女の反応に驚きつつも、当然のように無視した。

「ねえ、もう、やめたら」

 再度制止してくる。お前に俺を拒絶する権利などない、そんな気持ちを込めて、常人ならば悶え泣き叫ぶ程痛みが伴うようにキバを穿ったが、彼女は顔色一つ変えなかった。

「黙っていれば直ぐに終わる。お前が抵抗すればするほど、これは長引くんだぞ」
「吸血の事じゃないよ」

 じゃあ、何だと言うんだ。
 一旦キバを抜いて先を促せば、彼女の左手が伸びてきて、俺の頬に添えられた。真っ白な親指が、唇を汚す血を拭っていく。

「父さんに会うの、やめたら、って言ってるの」
「……何のことだ」
「君が苛立って私の部屋に来る時はいつも、父さんの匂いがするの、微かにだけど。この胸糞悪い匂い……私が間違えるはずがない」

 カールハインツ様に良く似た赤い瞳に、俺の無表情が映り込んでいた。そこにあるのは、この世の全てを見透かしているような、不思議な光だ。

「今日は随分と饒舌じゃないか」

 その光が憎たらしい。黙って壊されていれば良いものを。
 今まで朝に彼女を叩き起こす理由を話したことは一度も無かったのだが、彼女はとっくの昔に気が付いていたらしい。気が付いた上で、敢えて黙っていたのだ。カールハインツ様に似た赤い瞳は、他人に神秘的な印象を与え、簡単に人の心を見透かしてしまう。俺の心情を見透かして勝った気にでもなっていたのかもしれない。囚われの身だというのに常に崩れない余裕に満ちた態度が、俺の神経を逆撫でした。
 その表情を崩してやりたくなった。頬に添えられた手を引き剥がす。嬲るように、手のひらや指の間に舌を這わせ、親指の腹にキバを穿った。しかし、相変わらず彼女の表情は冷めたもののままだ。快楽に歪むことも、苦痛に歪むこともない。本当に、面白味のないやつ。

「別に、そんなに無口な方でもないと思うけど」
「俺はお前が楽しそうに話をしているところなんて、一度も見たことがないな」
「そりゃまあ、こんな屋敷に居たら、怖くて黙り込みもするでしょ」
「……怖い? お前が?」
「何、その半信半疑って顔」

 毎日澄ました顔を晒しておいて、今更『怖い』だなんて、冗談を言っているようにしか思えなかった。下らない冗談に取り合ってやるつもりはない。彼女の言葉を無視して、親指から滴る血に舌を這わせた。

「ねえ、父さんに会うの、もうやめたら」
「またその話か」
「だって、図星なんでしょう」
「……」
「君って意外と顔に出やすいから」
「何のことか分からないな」
「父さんに会う度に傷付いてる」

 随分と確信に満ちた言い方だった。赤い瞳が「そうなんでしょ」と問うている。まったく、嫌になるほどカールハインツ様に似ている女だな、こいつは。

「……聞いてどうする。俺がカールハインツ様に会いに行くのを辞めたら、自分は解放されるとでも思っているのか? だとしたら、それは勘違いだ」
「そんなつもりじゃないよ。前に言ったと思うけど、私はもう此処以外行き場がないし、新しい居場所を探すつもりもない。元々こんな命に執着なんてないしね。もし君が私を殺したいって言うなら、黙って殺されるよ。死ぬより辛い苦痛を与えたいって言うなら、それも受け入れる」

 恐らく、彼女の存在を忘れた逆巻アヤトと小森ユイの逢引を見せ付けるために、嶺帝学院の図書室へ連れて行った時の話をしているのだろう。そういえば、あの時の彼女は、大切な『人間の友人』や自分の弟に存在を忘れられたと聞いても、今と同じように顔色一つ変えなかったことを思い出す。
 ついでに、小森ユイに対して自己犠牲的な愛情を注いでいた記憶も蘇った。俺が人間の中でも最も嫌いな偽善者という人種と、全く同じ考え方で、反吐が出そうになった。吸血鬼のくせに、元人間の俺よりも人間らしい。

「なら、何故俺の行動に口を挟むんだ」
「君が苦しそうだから」
「……意味が分からないな」

 その唾棄すべき自己犠牲的な感情を自身に向けられ、柄にもなく戸惑ってしまう。真正面から赤い瞳を観察して、彼女の言葉が子供のように純真な気遣いから来たものなのか、狡猾な打算から来たものなのか判断しようとしたが、神秘的な光が逆に俺を飲み込もうとする。

「わざわざ苦しい思いをしに行く必要なんて無いよ。父さんは駒が一つ無くなったところで、気にもとめない」
「……『駒』か」
「自分で分かってるんでしょ。……残念ながら、君が望む未来は、絶対に来ない。娘の私が言うんだよ、間違いない」

 この女の瞳は、一体何処まで見透かしてしまっているのか。
 自分の心中を吐露して手の内を明かすなんて間抜けな真似、昔の俺なら死んでもやらなかった。けれどもう、疲れてしまった。どうせどんなに平静を装って取り繕った所で、彼女は簡単に俺の心理を見透かしてしまうだろう。
 両腕から力を抜いて、彼女の上に倒れこんだ。自分のキバで傷だらけにした首筋に顔を埋め、細い腰に腕を回す。

「……そういう訳にもいかない。勿論俺は自身がカールハインツ様の『駒』である自覚はしているさ。だが、駒は駒らしく、プレイヤーの指示に従わなければ、その根本的な存在意義さえ失われてしまう」
「だから、傷つくのがわかってて、父さんに会いに行くの?」
「ああ、そうだ」

 あまりにも細い、抱き心地の悪い身体だった。そこに微かに、甘い、女の肌の香りがした。今まで壊すことに夢中で気付かなかった。カールハインツ様に似た中性的な外見を持ち、浮世離れした雰囲気を漂わせているが、彼女もやはり性別上は雌なんだという、果てしなくどうでも良い事を思考した。
 右の耳朶をなぞるように冷たい何かが這っていく。その感触がピアスの辺りで止まり、三つ並んだ金属を弄び始めたところで、それが彼女の指なのだと気が付いた。
 すぐ近くで、呆れとも憂いともつかない溜息が聞こえた。

「……君って、難しい生き方してるんだね」
「お前の生き方が自由奔放過ぎただけじゃないのか」
「自由かどうかは分からないけど。君と同じで、いっつも父さんの存在に囚われてたよ」
「……そうか、お前は、ずっとカールハインツ様の城で」
「うん。独りで過ごしてた。父さんが殺したいくらいに憎くて、何度も逃げようと思ったけど、父さんは私のことを嫌っている割に、何故か解放してくれなかった。失敗作を野放しにするのが嫌だったのか、飼い殺しにして潰したかったのかは、もう分からないけど」

 ああ、なんだ、そうなのか。
 話を聞いた途端、自分の唇が弧を描くのが分かった。気配でそれが伝わったらしく、彼女が「どうして笑ってるの」と問うてくる。

「いいや、大したことじゃない。ただ――」

 ――ただ、お前と俺が、笑ってしまうほどに似ていると、思っただけだ。
 言葉は音にならなかった。先程から一定のリズムでピアスホールの周辺を撫でられ、彼女の甘い香りに包まれたせいで、眠気が襲ってきた。意識が徐々に遠退く中、「眠い?」と問う声が微かに聞こえる。ああ、と答えたつもりだったが、声に出ていたかは分からなかった。

「おやすみ、ルキ」

 ――ああ、おやすみ。
 初めて彼女の声で紡がれた俺の名前を最後に、意識は途切れた。


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