目が覚めた。頭が働かないままゆるゆると腕を彷徨わせて、ベッドの傍に置いてある目覚まし時計を手に取る。時間を確認すれば午後の八時。そろそろ起きなければならない時間だ。ズキズキと痛む頭に手を当てて身体を起こそうとして、そこでようやく、後ろに誰かが居て身体を拘束されていることに気が付いた。自然と眉間に皺が寄る。振り返れば黒い瞳と目が合った。

「ちょっと、いい加減私が寝ている間に勝手にベッドに潜り込むのやめてくれない?」
「此処は俺の屋敷だ。どこで何をしようとお前に文句を言われる筋合いはないな」
「本当に理不尽だよね、君。あと邪魔だから手、離して」

 お腹に回っていた手を引き剥がして距離を取る。私に続いて身体を起こし、薄く笑みを浮かべながら肩を竦めている彼を睨みつけた。面倒なことになってしまったと思わずにはいられない。
 あの日、ユイとの買い物の最中に背後から殴られこの場所に拉致されてから、三ヶ月ほどが経過した。私に興味を持ったと宣うこの男は全く私を外に出す気がないらしく、この三ヶ月間一度も外の空気を吸っていない。元々あまり外に出るタイプではないけれど、こうも閉塞的な空間に長い期間閉じ込められていると、流石に気が滅入ってくるというものだ。
 この男の異常なまでに膨らんだカールハインツへの執着は、父さんから決して愛されることのない現実を目の前に爆発してしまったらしい。敬愛するカールハインツには不満の言葉一つ漏らせない代わりに、似た容姿の私にその執着心をぶつけて、今にも崩壊してしまいそうな精神を抑え、気を鎮めているらしかった。ストレス発散出来る彼は良いだろうが、それをされる私はいい迷惑である。意識が朦朧とするほどに責め立てられ、吸血もされて、けれど彼の狂気に怯えてしまった私は逃げ出すことも出来ない。毎日毎日朝が来るのを憂鬱に思いながらも、結局この男の監視下で呼吸するしかない。睡眠が唯一の幸福な時だというのに、先ほどのように理不尽な言動をしてみせる彼は、嫌がらせの如く睡眠中の私がいるこの部屋に忍び込んでくる。とんでもなく寝起きが悪いと言われた私が目覚まし一つで起きれるようになったのも、この男のせいで睡眠すら億劫になってしまったからだ。
 こんな生活がいつまで続くのか。気が遠くなるほどの寿命を持つ私たちには時間は腐る程ある。終わりの見えない生活に苛立ちを覚えるし、現状をどうにも出来ない自分にも苛立った。そして、最早現状を変える気力もなかった。きっとこの生活が終わるのは、父さんが無神の名を冠する彼らに愛を向けた時だ。それはこの先世界が滅んだってあり得ないと断言できる。ということは、結局この生活に終わりなんて来ないのだ。
 もう、自分のことはどうでもいい。最近はそう思うようになっていた。そんなことより気になるのは。

「ねえ、ユイはどうしてるの」

 それだけだった。
 彼は怪訝そうな顔をして、私の考えを探るような視線を向けてくる。その視線が鬱陶しくて「早く答えてよ」と催促した。

「気になるのか」
「当たり前でしょ」
「此処に来てから一度もユイのことを訊いて来なかったからな、てっきりもうどうでも良くなって忘れたのかと思っていた」
「この間までは自分の目で確認するから良いやって思ってたんだけど。君の様子を見ているとどうも、ここから出れる日は一生来なさそうだなって悟って」
「ああ、一つ賢くなったな。その通りだ」

 こともなげに頷く彼をぶん殴りたい気持ちになる。でも、殴ったってここから出られないのだから、無駄な体力を消費する意味はない。苛立つのすら無駄な労力なのだ。

「話してやっても良いが、俺の言葉なんて信用出来ないんじゃないのか」
「確かにこれっぽっちも信用出来ないけど、それでも聞かないよりマシ」
「だったら直接見せてやる」
「……外に出してくれるってこと?」
「まあ、そうなるな。ユイが今どうなっているのか、それを見せてやるだけだが」

 珍しいこともあるものだ。要望も口に出して言ってみるものかもしれない。どうせ何か企んでいるのだろうが、何を考えているのか分からないこいつの意図を推測したところで何も理解出来ないだろう。それなら、目の前に提示された希望に手を伸ばす他に出来ることは無かった。こくんと頷いた私に見せた彼の笑みが示す意味を、私は後々知ることになる。




 彼が足を向けたのは、久しぶりに訪れた嶺帝学院の図書室だった。三ヶ月前までは暇潰しによく入り浸っていたその空間を思い出すと懐かしさを感じずにはいられない。此処に来るまでの道中、ユイは今も逆巻家の屋敷で生活しており、以前と変わらずこの夜間高校に通っているのだと聞かされた。彼女は元気にしているだろうか、ようやく自分の目で確かめられることに少なからず喜びを覚えていた私は、彼の話をほとんど聞き流しながら後ろをついていった。何故か私の手首を掴んでいる彼への苛立ちも、ユイの顔を見れる喜びのお陰で薄れた。
 そうこうしている内に図書室にたどり着いた。先行していた彼が私に道を譲り「どうぞ?」だなんて言う。何を勿体ぶっているんだと首を捻りながら扉を開け、私が見たのは、元気そうなユイの姿。それに心底安心した。
 まあ、ただしそれは、アヤトに押し倒されてキバを穿たれ、吸血の快楽に嬉しそうな嬌声をあげている彼女の姿、だったけれど。

「俺がお前を捕らえた後、カールハインツ様は直ぐに小森ユイの記憶からお前の存在を消し、息子である逆巻の連中の中に彼女を放り込んだ。彼らがお前のことを話さないよう、彼らからも『逆巻家には娘がいた』という記憶を奪って」
「ってことは、ユイもアヤトも、他の兄弟も私を覚えていないってこと?」
「そうなるな。後のことは知らないが、まあ、あの様子を見れば、イブは逆巻アヤトを選び、カールハインツ様の目的は無事に達せられたということか」

 私に吸血を見られるのが嫌で死に物狂いで逆巻兄弟や無神の連中から逃げ惑っていたユイの姿はもうなかった。自分に覆いかぶさるアヤトに熱っぽい視線を向けて、縋るように背中に腕を回している彼女を見れば、この男の言葉が事実であることなど考えなくても理解出来る。

「……そっか、ユイはアヤトを選んだんだ」
「俺には逆巻アヤトのどこが良いのかさっぱり分からんな」
「それには同感」
「……自分の物を弟に奪われて、家族から存在すら忘れられて、絶望したか?」

 彼が意味ありげな笑みを浮かべて「ユイがどうしているか見せてやる」と言ったのは、私が存在を忘れられ絶望した顔が見たかったからなんだろう、と理解した。傍らに立つ彼が私の表情を伺ってくる。

「君はさ、やっぱり本質的には人間だよね」
「……ほう?」

 そこに彼の望んだものが浮かんでいなかったことに、多少の不満と、疑問を覚えたらしい。ついでに、彼が毛嫌いする人間と同族であることを指摘してやれば、面白いくらいに彼から余裕な表情が消えた。

「私が、兄弟やユイから忘れられたくらいでショックを受けて絶望するようなやつに見えるの? 吸血鬼に家族への情なんて存在しないよ。彼らへの執着もない。それが分からない君は、やっぱりどう足掻いても人の子だよね」
「……」
「私は、ユイが幸せならそれで良い。あの様子だとその心配もなさそうだし。もう気は済んだよ、帰ろう」

 偽りのない本心だ。この鬱陶しい男の予想通りに事が運ばなかったことで溜飲も下がったし、これ以上この場所にいる意味も感じられなかった。もうユイや兄弟の姿を見ることは叶わないだろうけれど、それに対する悲しみもない。
 だから、変な顔をして突っ立っている彼を促して踵を返したんだけれど、彼は何を思ったか私の手首を掴んで制止した。まだ何か用事が残っているのだろうか。「どうかしたの」と問えば、彼はこんなことを言った。

「俺がどう足掻いても人の子であり紛い物の吸血鬼だと言うのなら、お前はどう足掻いても半分人間の血が混じった欠陥品の吸血鬼だ」
「……?」
「その自己犠牲的な考え方は、愚鈍な人間の特徴とも言えるものじゃないのか」
「だから?」
「いいや、別に? ただ、やはりお前は俺と同じ立場にいるんだと、改めてそう思っただけだ。誰からも必要とされず、その存在すら認識されず、世界から溢れた中途半端な者。お前を見ていると、その哀れさに同情を禁じ得ないよ」

 そこまで言うと、彼は掴んだ手首をぐいっと引き寄せた。そのまま腰を抱かれ、扉のすぐ横の壁に押し付けられる。何のつもりだと文句を言おうと唇を開いたが、喉が言葉を発する前にそれを塞がれた。抵抗するのも面倒で、相変わらず吐き気のするそれを黙って受け止めていたら、開いた扉から響くユイの嬌声が耳に入った。
 アヤトへの想いを紡ぎ吸血を催促する、私がかつて聞いたこともないような彼女の熱っぽい声には、欲しいものが手に入った幸福感が満ち溢れていた。幸せそうで何よりだと思いながら、意識を目の前の男に戻す。
 今日は随分と自虐的だった。図書室の中にいる二人と違って、欲しいものが何一つ手に入らなかった、可哀想な男。彼が私を見下ろし「同情を禁じ得ない」と言った気持ちが嫌になるほど共感できた。
 唇を離した彼が囁く。

「やはり、お前の居場所は俺の隣こそ相応しい。中途半端な混血の吸血鬼には、純血の吸血鬼も、特別な心臓を持ったイブも、何一つ手に入れることは出来ないんだ。……俺と同じように」
「……そうみたいだね。じゃあ、私は君に欠片も興味がないけれど、もう何処にも行く場所がないし、暇潰しに付き合ってあげる。君の、絶対に叶うことのない望みの傷を舐める、その馬鹿みたいで可哀想な行為に、ね?」

 嘲るように言えば、口元に笑みを浮かべた彼が私の首に片手を回して締め上げた。手加減なしのそれに酸素が奪われ、ついで噛み付くような口づけが降ってくる。随分情熱的なそれが、普段理知的に見える彼らしくないなぁ、なんて場違いなことを考えながら、私は彼の背中に腕を回して口づけに応えるのだった。ずっと感じていた嫌悪感が消えたのはこの時が初めてだった。
 図書室の中にいる彼らとしている行為は大して違わないのに、中身が全く別物というのは何ともおかしな話だ。絶対に報われない想いを抱える可哀想な男に抱きつきながら、すぐ背後に迫る絶望の気配に酔いしれた。
 こういうの、絆されるって言うんだっけ?


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