放課後、わたしの教室にやって来たルキくんは「借りたい本があるから図書室に行く。お前もついて来い」と言うだけ言ってわたしの返事も聞かずさっさと歩き出してしまった。ついて行かなかったら後で怒られそうなので大人しく従ったけれど、わたしはそれを後悔するしかなかった。

「あ……んんっ、はぁっ、う……せん、ぱいぃっ、気持ちいい……」

 図書室の扉を開けた途端、甲高い女の子の嬌声と合間に吐き出されるはぁはぁという荒い息遣いが聞こえてきた。図書室を利用する人は殆ど居ないから、もしかしなくても彼女とその相手はここで情事に勤しんでいるんだろう。同じ空間でいやらしいことをしている人が居るのかと思うと、恥ずかしさと居た堪れなさで顔が熱くなってきた。
 幸い入口から見回した限りは声の主の姿は見えない。恐らく図書室の奥の方に居るであろう人たちに聞こえないよう、声を小さくしてルキくんに声をかける。

「ね、ねえ……本借りるの、今日はやめておこうよ」
「何故だ?」
「何故って、その、変な声……聞こえるし……」
「聞き入れるに値しない理由だな。突っ立っていないで早く入れ」

 聞こえてくる嬌声なんて何でもないようにいつもと変わらない顔をしてルキくんが急かしてくる。気が進まないけれど、ルキくんは言い出したら基本的に実行する人だからなぁ、と憂鬱な気持ちになっていたら、待つのが面倒になったらしいルキくんがわたしの手首を掴んで歩き出した。

「や、やだっ、ちょっと待って」

 わたしの歩幅なんて無視でずんずん歩いて行く。半ば引きずられるようにして彼の後をついていくと、段々聞こえてくる声量が大きくなってきて、同時に疑問が湧いて来た。もしかしてルキくん、声のする方に向かってない? 本を借りたいという割には本棚に見向きもしていないし、一直線に声のする方に向かっている。でも、今向かっている先に目的に本があるのかもしれないよね。
 まさか覗き見でもするつもりじゃないか、という嫌な予感を拭い去るように無理やり適当な見当をつけて納得し、図書室の奥にいる人たちに足音が聞こえてしまわないよう大人しく忍び足でついていく。
 わたしの懸念は現実のものにならなかった。とはいえすぐ近くで声がするし、人の気配もする。多分本棚一つ隔てた向こう側に声の主は居るのだろう。不幸なことにルキくんの目的の本はここにあるらしい。居心地が悪くてそわそわしているわたしをよそに、ルキくんは本棚の前に立って整然と並べられた本の背表紙を順に眺め始める。いつの間にか手首の拘束はなくなっていた。
 一分、二分、五分。早く終わらないかな、と思いながら黙って隣で待ってみるけど、ルキくんは顎に手を当てて興味深そうな表情でじっと本を眺めてそこを動かない。時折本を取り出して中身をパラパラ流し読みして、本棚に戻し、また別の本を手にとる。
 その間にもずっと女の子の嬌声は聞こえていて、心なしか息遣いが荒くなっているようだった。耳を塞いで声が聞こえないようにしても、静かな図書室内で唯一響くその音は手をすり抜けて聞こえてきてしまう。早く終わらせて欲しくて、ルキくんの顔を横から見上げると、視線だけこちらに向け、何故か口元に笑みを浮かべた。それから本棚の方、正確にはその向こうにいる人たちの方を指差して、口パクでこう言った。

 ――気になるのなら見てくると良い

 なっ、何言ってるの!
 思わず声を出しそうになって慌てて口を噤み、代わりにぶんぶんと頭を振って拒否の意を示す。ルキくんは残念だ、とでも言いたげに肩を竦めてみせると、また視線を本に戻してしまった。
 それからまた五分くらい経ったけれど、ルキくんの物色はまだ終わらない。相変わらず嬌声は聞こえていて、喘ぎすぎて喉が枯れてしまったのか女の子の声は掠れていた。人の情事を盗み聴きしているような状況に顔を赤くしている私と違って、ルキくんは全く気にしていない。どうしてこんなに平然としてられるんだろう、それが不思議で仕方がなかった。
 とても居心地が悪くて意味もないのに服に皺がないか確認してしまう。あの人達、まだ終わらないのかな。いつまで続けるつもりなんだろう。人気がないとはいえ学校でこんないかがわしいことをしている人たちに段々腹が立ってきて、わたしはルキくんのそばを離れ、本当に自分でもどうしてそんなことをしたのか分からないんだけど、好奇心につられるように、こっそり本棚の向こうを覗いて見た。
 そこには、

「……え」

 そこには、ナマエちゃんの後ろ姿があった。
 頭の中が真っ白になった。先ほどまで顔に集まっていた熱が驚くほど急速にひいていく。全身から血が抜けてしまったと思うくらい身体が冷えていって、足ががくがく震えた。手のひらにじんわり滲んだ嫌な汗をスカートで強引に拭い去る。
 ナマエちゃんが、自分より身長の低い女の子の腰を抱いて本棚に押し付け、真正面からその子の首筋に顔を埋めていた。女の子は今にも倒れそうなほど身体から力が抜けているようで、崩れ落ちてしまわないよう必死にナマエちゃんの背中に腕を回してしがみついている。だらしなく開いた口からはずっと聞こえていた嬌声が漏れていて、こちらを向いているその子の目には私が見えているはずなのに、余程気持ちが昂ぶっているのか全く恥じらったり逃げたりする様子がない。
 ナマエちゃんが、吸血している。それを認識した途端、ばくばくと心臓が激しく脈打ち始めた。痛いくらいの鼓動に思わず左むねの辺りを掴んで、いつの間にか荒くなっていた呼吸を必死に抑える。酸素がうまく吸えない。
 衝撃だった。
 ナマエちゃんが吸血をしているところは一度も見たことがない。わたしの血は吸血鬼にとって極上の味らしいけれど、ナマエちゃんに血を吸わせてと言われたことも一度もなかった。だからわたしは、ナマエちゃんは同性から吸血しないんだと、勝手に思っていた。ナマエちゃんに血を吸われる男の誰かを想像しては、羨ましいという、我ながらよくわからない感情に支配された。
 でもわたしの予想は違った。ナマエちゃんは、女の子からも吸血するんだ。
 じゃあどうしてわたしの血は吸ってくれなかったの? ――それほどわたしに、興味がなかったの?
 その答えは……本当は初めからわかっていたのかもしれない。ナマエちゃんとわたしはいつも一緒に居たけれど、それはわたしの方から彼女の傍に行っていたからだ。姿が見えなければ見つかるまで探したし、見つけた後はほとんどの時間を一緒に過ごした。でもナマエちゃんからわたしを探してくれたことは一度もなかった。
 わたしはナマエちゃんのことが知りたくて一緒に居たいと望み、行動してきた。ナマエちゃんはわたしを拒否しなかった。だから受け入れてくれているのだと思っていたけれど、それは勘違いだったんだ。拒否しなかったけれど、受け入れもしなかった。結局ナマエちゃんにとってわたしは「居ても居なくても良い存在」でしかなくて、吸血したいとも思えないほど関心がなかったんだ。
 独りで空回り、一緒に同じ時を過ごせることを喜んでいた自分が恥ずかしくて、情けなくて、悲しかった。
 わたしが一度もして貰えなかった吸血を施されているあの女の子は、ナマエちゃんにとっての何なんだろう。

「どうしたんだ?」

 ぐるぐると嫌な考えを続けるわたしの耳に小さな声が入り込む。いつの間にか傍らに立っていたルキくんが、ナマエちゃんたちに聞こえないよう声を潜めてわたしの耳元で訊いてきたのだ。
 わたしの思考を中断させてくれたその声は救いのように思えた。もう嫌だ、これ以上こんな光景見たくない。早く出ようとルキくんの服を掴んで軽く引っ張ると、彼は動く代わりにじっとわたしの目を見て、それからふっと笑った。

「俺の言った通りだろう。お前はあの女に、対等な関係としてどころか、餌としてすら必要とされていない」
「――――」

 がつん、と頭を殴られたような衝撃だった。
 さっきまで自分が考えていたことなのに、他人に見透かされているのがとても恥ずかしくて、同時に、他人に言われてしまったらそれが「現実」だと認めなければならない気がして、絶望的な気持ちが身体中に広がった。

「……ちがう」

 ぽつりと口から漏れた声に返事をしたのは、ルキくんではなく、吸血されていた女の子がついに意識を失い床に崩れ落ちる音だった。
 いつの間にか嬌声は止んでいて、そちらを見ればナマエちゃんが倒れた女の子の体勢を整えてあげているところだった。本棚にもたれかかるようにして寝かせる手つきが、すごく女の子を気遣った優しさを感じさせて、黒くどろどろした感情がお腹の底に溜まっていく気がした。ナマエちゃんに優しく触れられるあの子が羨ましくて感じた嫉妬だった。
 ナマエちゃんが立ち上がって、こちらを振り返る。そこに人が居たことに吃驚したようで、一瞬頬が強張ったように見えたけれど、あっという間にいつもの無表情に戻ってしまった。
 覗いてしまったことに罪悪感を覚え、赤い瞳と真正面から目を合わせられなくて俯く。ナマエちゃんの視線が痛いほど突き刺さるのを感じる。数秒間奇妙な沈黙が流れたけれど、ルキくんの笑いを含ませた声がそれを打ち破った。

「人の気配を感じることが出来ないほど吸血に夢中になっていたのか? 逆巻家の長女ともあろう者が、随分と警戒心が足りていないらしい」
「まさか食事を見物したがる悪趣味な人がいるなんて思わなくてね」
「心外だな。覗きを始めたのは俺じゃない、この家畜だ」
「ふうん。まあ何でも良いけど」

 そう言うナマエちゃんの声は本当にどうでも良さそうな声色をしていた。わたしが覗きをしたことに対して怒りもしなければ軽蔑もしない。その態度は紛れもなくナマエちゃんがわたしに関心を持っていないことの証で、悲しみで息が詰まった。
 顔をあげる。ナマエちゃんと視線が交わる。赤い瞳は心が底冷えしてしまいそうなほどに無機質だった。

「じゃあ、私はご飯食べ終わったから出て行くよ」

 すたすたとナマエちゃんが近寄って来て、わたしの横をすり抜けていく。その様子は逆巻家の屋敷で暮らし始めた頃のように、わたしの方など見向きもせず、存在しないもののように扱う態度そのものだった。

「――逆巻ナマエ」

 ナマエちゃんが十メートルくらい離れたところでルキくんが声をかけた。ナマエちゃんは立ち止まって肩ごしにこちらを見ると「なに?」と面倒臭そうな声色で問う。
 何を言い出すつもりなのか。見上げたルキくんの顔には薄い笑みが広がっていて、嫌な予感がして仕方がない。それ以上喋って欲しくなくてルキくんの服を引っ張って止めようとするけれど、彼はわたしの手首を掴んで引っ張るのをやめさせるだけ。

「この家畜はお前に吸血されたかったらしい。こいつの血の美味さは、皮膚の下から立ち上るその香りだけで嫌という程分かるものだ。お前はこの家畜の傍に居て、何故吸血をしなかったんだ?」

 嫌な予感が当たってしまった。
 わたしが胸の中に仕舞い込んでいた葛藤を簡単に見透かしたルキくんは、一番知られたくない相手にそれを伝えてしまった。ナマエちゃんに吸血されたいだなんて、そんな浅ましい考えを持っていたこと、知られたくなかった。

「……やだ、ルキくんやめて。言わないで……!」
「ユイ。お前はあの女に意識を向けているから、アダムを選ぶことが出来ないでいるんだ。俺はその迷いを断ち切る必要がある」
「お願い……言うことなら聞くから……ナマエちゃんにそれ以上言わないで!!」

 ルキくんの胸の辺りのシャツを両手で掴んで必死に請う。彼は不愉快そうに眉を顰めていた。お願い、お願いだから、何度も繰り返すけれどルキくんは全く聞き入れてくれない。
 わたしの考えをナマエちやんに知られてしまった惨めさで目の前が涙に滲み始める。その時、ふと視界の端でナマエちゃんが身体ごとこちらに振り返ったのが見えた。ぼんやりした様子で、何の気なしにぽつりと、

「……『アダムの林檎計画』、ね」
「なんだ、知っていたのか」

 ルキくんは少し驚いているようだった。

「最近知った。イブがアダムを選ぶためにはお前の存在は邪魔だって言われたよ」
「だったら話は早い。俺の質問に答えてもらおうか」
「吸血しなかった理由、ね。……別に、ただ、ユイから吸血する必要性を感じなかったからだけど」

 ……もう嫌だ。自分で自覚するより、ルキくんに指摘されるより、ナマエちゃんの言葉で「お前に興味はない」と宣言されるのが一番辛かった。溢れた涙がぽたりと床に落ちる。

「それがお前の答えか」
「そうだよ」
「だ、そうだ。これでお前は迷う必要もなくなったな。安心してアダムを選べるぞ」

 足音が聞こえる。顔をあげると、ナマエちゃんはさっさとこの場から離れようとしていた。細い背中がどんどん遠ざかる。

「……諦めろ、ユイ。あの女はお前を必要としていない。自分を必要としてくれない奴なんて忘れてしまえ。そして俺たちから誰かを選べ、俺たちにはお前が必要だ」

 ルキくんの言葉は半分も理解出来ない内にすり抜けていく。その間もナマエちゃんの背中は遠ざかり、やがて図書室の扉の開閉音が聞こえた。最後までわたしはナマエちゃんに声をかけることが出来なかった。



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