嫌な予感、とでも言うのだろうか。
 無性に胸騒ぎがして、何となく寝付けなくて、散歩がてら薔薇園の中を歩き回っていたら、先日わたしのことを『イブ』と呼び、あんまりな自己紹介をしてきた無神兄弟が、突然その場に現れた。彼らはわたしの身体を拘束し、どこかに連れ去ろうとしていた。
 薔薇園と屋敷の距離を考えれば、此処で叫んだところで誰にも声は届かないだろう。それに、今は空に日が昇っている時間帯だから、逆巻兄弟たちはみな眠りに就いているのだ。それが一層、わたしの悲鳴を無駄なものにする。
 それでも、何も出来ないわたしは心の中で何度も願った。
 誰か、誰か助けて。――ナマエちゃん、助けて……!
 頭上で交わされる彼らの会話に、もはや逃げることは出来ないかもしれないと、絶望を感じた、その時。ふと、微かな足音が聞こえてきた。そちらへ目を向ければ、寝惚け眼で欠伸をしているナマエちゃんの姿があった。




「ほう、これはこれは、逆巻家の長女様。こんな時間に外へ出て宜しいのですか? どうしてこんな所へ?」

 ルキくんの笑いを含んだ挑発的な言葉を聞いているのかいないのか、ナマエちゃんはわたしと、わたしを拘束する三人、それから声をかけたルキくんへ順番に視線を向けた。

「……敷地内に嗅ぎ慣れない匂いがしたから、何処かから人間が迷い込んできたのかなと思って、食事でもしようかって、来てみたんだけど」
「それは悪いことをしたな、生憎俺たちはヴァンパイアだ」
「……みたいだね」

 答えるナマエちゃんの声はゆったりしていて、寝起きで頭が回っていないことを伺わせた。元々寝起きが良くない人だし、普段ならこの時間はぐっすり夢の世界にいる頃だ。中途半端な時間に目が覚めてしまって、未だに眠気が消えていないんだろう。連続して起こる非日常の的な出来事の中、いつも通りのナマエちゃんの姿に安心感を覚える。

「それにしても、不思議だな。ヴァンパイアの王の血を引いているというのに、人間と同族の匂いすら嗅ぎ分けられないのか」
「……」
「それとも、半分人間の血が混ざっている欠陥品には、そんな力もないということか?」
「……ッ! 酷い……ナマエちゃんを貶めるようなこと言わないで!」

 家畜だとかエム猫だとか雌豚だとか、そんの蔑称で呼ばれるよりも遥かに、ナマエちゃんへのその発言に腹が立った。頭に血が上って、掴まれた両腕を振り払おうともがく。けれどヴァンパイア三人がかりの拘束はびくともしない。
 ナマエちゃんの様子が気になってちらりと見てみた。浮かぶのは無表情だけれど、元々白い肌に今は青みがさしているような気がした。少しだけ頬も強張っている気がする。きっとルキくんの発言がナマエちゃんの心を無遠慮に踏み荒らしたんだ。そう思うと、再び怒りがこみ上げてきた。
 ルキくんは自分を睨みつけてくるわたしに意外そうな顔をした。

「何故お前が怒るんだ」
「ナマエちゃんのことを何も知らない人に適当なこと言われたくない! 撤回して!」
「知っているぞ? ヴァンパイアの王の娘であり、逆巻兄弟の中で唯一人間の血が混じっている。純血一族の中で疎まれ続け、しかし人間と暮らすことも出来ず、城の中の一室にこもって孤独に過ごした、哀れな女だろう」
「っ、やめて!!」
「ふふ、エム猫ちゃんったら逆巻長女の番犬みたいだね」
「そういえば……イブはあの人といつも一緒にいる、んだったよね……」
「おいそこのオマエ。オレたちはな、オマエらなんかにこの雌豚を預けとくわけにはいかねーんだよ」
「まあ、エム猫ちゃんを取り返すって言うんなら、相手になってあげるけど?」
「え……じゃあ俺も、あの人と一緒に殴られたい……」
「アズサくーん、目的を忘れちゃダメだよ」
「どうする? 逆巻ナマエ。一応俺たちも命の危険を冒して此処まで来ているからな、出来ればこのままこの家畜を連れて行きたい。お前に他の逆巻の連中を呼ばれても厄介だしな」

 揃いも揃ってナマエちゃんを挑発するような語調で好き勝手なことを言っている。渾身の力を振り絞って身体を動かし、もう一度逃げようと試みたけれど、拘束はやはりびくともしない。四対一なんて卑怯だよ! そう叫ぼうとしたら、後ろから伸びてきたユーマくんの大きな手がわたしの口を覆ってしまい、むぐむぐと呻き声しか出せなくなる。
 自力の脱出は無理だ。わたしは懇願するような目でナマエちゃんを見た。彼女は真っ直ぐとわたしの顔を見返して、

「好きにすれば」
「……え?」

 のっぺりした口調で言ったナマエちゃんは相変わらず無表情だけれど、それが徐々に冷たいものに変わっていく。赤い瞳から熱が消えていって、背筋が凍るほどの冷酷さを湛え始めた。初めて会った時の冷たさを彷彿とさせるようなその表情に、わたしの身体が強張る。

「ケッ、根性のねえ野郎だな。四対一だから怖じ気づいたのか? 誇り高き逆巻家の娘のくせしてよ」
「別に、そんなんじゃないけど。ユイを連れて行きたいなら連れて行けば良いよ。私はご飯を食べに来ただけ」
「……そ、んな」

 その表情は完全にわたしを突き放し、助ける気はないと語っていた。
 ナマエちゃんと一緒に生活を始めて、彼女がとても優しい人だというのを、わたしは知った。人間の血が混ざっているからか、ただそういう性格だからかは知らないけれど、他人を寄せ付けない凛とした空気の中に、わたしを気遣ってくれる態度が感じられたのだ。
 彼女と一緒に居れるのが嬉しかったし、以前よりも随分笑顔を見せてくれるようになったナマエちゃんも、多分同じ気持ちなんだと、勝手に思っていた。親しくなれた、友達になれた。そう思っていたんだ。
 でも、それは勘違いだったのかもしれない。
 ナマエちゃんの瞳には『人間の友達』なんてうつっていなかった。怠い眠気を抱えつつ折角餌を食べに来たのに、求めるものがなくその上面倒事に巻き込まれたことへの疎ましさしかなかった。
 目の前が真っ暗になっていく気がした。力なく俯くわたしの顔をコウくんが覗き込んだ。

「あーあーエム猫ちゃん泣いちゃいそう。本当に良いの?」
「……しつこい。食事が出来ないから私は帰る。あとはごゆっくりどうぞ」

 わたしの目を一度も見ることなく、ナマエちゃんは踵を返すと屋敷の方に歩いて行ってしまった。胸が引き裂かれそうな悲しみと孤独感で何も言葉が浮かんで来ない。結局、遠ざかる背中に何も呼びかけることが出来なかった。




「行っちゃったね……」
「なーんか予想外にあっさりしてて拍子抜けしちゃったよ。ふふっ、エム猫ちゃん残念だったね、他の逆巻さんたちなら助けてくれたかもしれないのに」
「……」
「しっかし気に食わねえ女だな。いかにもお高くとまった貴族サマって感じでよ。しかもあの方と瓜二つじゃねーか。あんなクソ女があの方と似てるって思ったら腹立ってくんぜ」
「……ナマエちゃんのこと、悪く言わないで」
「うるっせえ、黙ってろ雌豚」
「お前は随分と逆巻ナマエに忠義を感じていたらしいが、どうもあの女にはお前など必要ないらしいな。……哀れなものだ」

 ルキくんの容赦ない言葉に、唇を噛んで耐えるしかなかった。だって言い返せない。ナマエちゃんはわたしのことを助けてくれなかったんだから。それは彼女にとってわたしが『助けるほどの価値もない人物』である証に他ならない。

「返事をしろ。……と言いたいところだが、出来るはずもないか。最も信頼する人物に裏切られたんだからな」
「……っ」
「さーさー、エム猫ちゃん。あーんな薄情な飼い主は放って置いて、おれたちと一緒においでよ。おれたちはあんな酷い扱いしないよ?」
「……ふふ、一緒にたくさん、遊ぼうね……」
「……い、や。……いや!」

 連れて行こうと肩を掴まれ反射的に暴れると、傍らに立っていたルキくんが面倒そうに溜息を吐いた。

「……仕方ないな、ユーマ」
「りょーかい。おーらよっ!」

 お腹に衝撃が走って、意識は遠のいた。


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