意識が浮上してくる。重たい瞼を持ち上げると、もう見慣れてしまった天井が視界に広がった。ルキくんの部屋だ。数回まばたきをして、再び眠りへ誘おうとする眠気を振り払った。
 身体を起こすと、自分がルキくんのベッドに寝ていたことに気がつく。部屋を見回してみるが部屋の主は居ないらしい。必要最低限の家具が並べられた、落ち着いた雰囲気の部屋。普段生活している場所だというのに、家主が居ないせいか異物の私を突き放すような冷たい印象がある。
 いつ部屋に戻ってきたんだろう。昨日の放課後からの記憶が曖昧だ。心の休まらない部屋で、誰も居ないのにそわそわと辺りを見回しながら、ぼんやりしている記憶を手繰り寄せる。
 ……そうだ思い出した。ルキくんに酷いことをされている最中に意識を飛ばしてしまったのだ。この屋敷にきてから彼の躾で意識を飛ばすのは何度目だろう。自分の知らないところで自分を見られるというのはあまり気持ちの良いものではない。また、その躾に至るまでの経緯を思い出して、私の気分は重く、沈んでいった。
 膝を抱え、部屋の出入り口である扉を睨みつける。
 どうしてルキくんは私の言うことを信用してくれなかったんだろう。私は嘘なんてついていない。此処から逃げ出して逆巻家に戻ろうだなんて考えていない。自分で、あえて、ルキくんの傍にいることを選んだのだ。その理由は自分でもよく分からないけれど、私の選択をルキくんが信じてくれないのは、すごく、悲しかった。
 私の話を欠片も信じてくれないルキくんの黒い瞳はとても暗く冷たくて、彼がこちらを無表情で見下ろしていた光景が脳裏に焼きついている。それが思い出される度に心がナイフでズタズタにされたような痛みを感じる。涙が溢れてきた。手の甲でごしごし擦って涙を拭う。
 その時、ガタンと音を立てて、バルコニーに通じるガラス扉が開かれた。

「起きたのか」
「……おはよう」
「ああ、おはよう。よく眠れたようだな」

 ルキくんが近づいてきて、ベッドのすぐそばで立ち止まると、少しだけ腰を屈めて私の顔を覗き込んでくる。ルキくんのことで悩んで溢れていた涙を見られるのが嫌で顔を背けた。そんな私をルキくんはくすくすと笑っている。

「目が赤いぞ。年甲斐もなく怖い夢でも見て泣いていたのか」

 ルキくんが私に手を伸ばしてくる。昨日私の頭を掴んで何度も浴槽に溺れさせたその手。あの一歩間違えれば殺されてしまうという恐怖が蘇ってきて、身体がびくりと震えた。ルキくんの手が止まる。

「……そう怯えるな。今お前に危害を加えるつもりはない」

 妙に柔らかく優しい声色で子供をあやすようにそう言ってから、ルキくんはそのまま手を伸ばしてきて、親指で私の目尻を拭った。声色と同じくらい優しいその所作は、不安定な私の心を安心させるには十分なもので、さっきせっかく振り払った眠気がぶり返してくる。ひとしきり涙を拭うと、今度は両手を私の頬に添えた。驚くほどに冷たい手だ。ヴァンパイアに体温はないと、逆巻家にいた頃誰かから教えてもらった気がする。

「……逆巻アヤトの匂いも消えているな」

 ちょうど逆巻家のことを思い出していたから、呟くように零したルキくんの言葉に心が跳ねた。まさか、考えていることがばれた?

「どういうこと?」
「昨日のあれ。何のためのものか分かるか? お前に染み付いた逆巻の腐った匂いを洗い流すためだ」
「……そう」
「勿論、生意気な家畜への躾も兼ねているがな」

 どうやら考えていることがばれた訳ではないようだ。私が逆巻兄弟のことを考えていると、どうもルキくんの機嫌を損ねてしまうらしい。彼を怒らせる訳にはいかない。危機は回避した。その安堵感から、内心胸を撫で下ろした。

「お前は、俺の、家畜だ。分かったな?」

 幼い子供に言い聞かせるように一つ一つ単語を区切り、ゆっくりした口調で念を押してくるルキくんに、私は頭を縦に振ることで肯定の意を示してみせた。ルキくんが満足そうに瞳を細める。

「……良い子だ」

 そんな言葉と共に頭を撫でられる。
 結局、私の言葉は信用されないままだったけれど、私が彼の家畜であると肯定することで、逃げるつもりはないことを少しでも分かってもらえればそれで良い。
 彼が頭を撫でてくれるのが気持ち良くて、目を閉じて身を任せていると、さて、という言葉でルキくんは話を変えた。

「素直に主人の命令を聞きいれた褒美をやらないとな」

 意図が分からず首を傾げると、彼の両手が私の肩を軽く押した。私の身体はあっさりと後ろに倒れ、シーツに沈む。突然のことに動けないでいると、ルキくんがのしかかってきた。
 ルキくんの背後に天井が見える。彼は私の服の襟元を引っ張って、首もとを露わにした。

「……消えかかっているな」

 首筋を冷たい指先が撫でる。そこは以前ルキくんが噛み付いてきた場所だった。
 そういえば彼は逆巻兄弟ほど吸血をしてこない。この行為も此処にきてから二度目だ。私のことを餌として拉致した割に吸血の頻度はこちらが困惑してしまうくらいに低い。
 久しぶりに吸血される。そう思うと背筋に冷たいものが走った。それが恐怖か、それとも期待なのか。自分にも分からない。
 ルキくんのキバが、肌を貫く。吸血されるというのは、何度経験しても未だに慣れないものだった。特にルキくんの吸血は、全身に倦怠感が広がる。逆巻兄弟に吸血された時はこんな感覚はなかった。同じヴァンパイアなのにこうも違うものか、と薄れる意識の中でぼんやりと考える。
 彼が吐息を漏らしながら血を飲み下していく。それと共に私の意識や体力まで吸い取られてしまうような感じがして、力が入らず思い通りにならない自分の身体がなんだかとても怖くて、縋るようにルキくんの肩に手を載せた。

「自分から催促するとは、貪欲な家畜だな」

 そういうつもりじゃなかったんだけど。ルキくんに笑いながら言われれば、自分でもそんな気になってくるから不思議だ。彼の言葉を肯定するように、私の頭は無意識に頷いていて、穿たれたキバが更に深く肌を抉った。

   *

 ひとしきり吸血をしたルキくんは、私の食事を持ってくると言って部屋を出て行った。独り部屋に取り残された私はベッドに埋れたまま天井を見上げる。彼が吸血のせいで身体に力が入らない。何とか動こうとしても、指がぴくりと痙攣するだけだ。
 頭をシーツに擦り付けるようにして動かし、起きた時と同じく家主の居ない部屋を見回した。当然のごとく先ほどと何一つ変わっていないが、あのよそよそしく私を突き放すような空気は、少し和らいでいる気がした。
 時間が経って徐々に身体に力が戻ってくる。震える腕を動かして指先で首もとをなぞれば、ルキくんに穿たれたキバの痕があった。

(……不思議、だな。前の時より嫌じゃなかった)

 此処にきて初めて吸血されたあの日、私は自分が彼の支配下にあるというのを自覚するのがとても怖かった。穿たれたキバの痕は傷口を抉りたいくらい気持ちが悪くて、二度と吸血されたくないと思った。それが、どうだ。今や指先にある傷口は、私の心を安心させるような力を持っていた。我ながら大した心境の変化だ。
 傷口を撫でていた腕をベッドに投げ出して、深く溜息を吐き出す。ルキくんはまだかな。
 その時、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。ルキくんが帰ってきた! 未だに力が入らない身体に何とか鞭を打って扉に駆け寄り開く。けれど、そこに期待した姿はなかった。
 確かに音が鳴った気がするんだけどなぁ。左右に首を向けるけれども、誰も居ない長い廊下が広がっているばかりだ。……聞き間違いだったのだろうか。ようやくルキくんが帰ってきた、と弾んだ心が急激に萎んでいく。期待していた分それが現実にならなかったことへの落胆は大きかった。
 扉を閉めてとぼとぼとベッドに戻ろうとした時、もう一度コンコンと扉を叩く音が聞こえた。廊下に繋がる扉じゃない。じゃあこの音は何なんだろう? 二回も聞こえたのだ、聞き間違いとは考えにくい。音の出処を探るように部屋を見回して気がついたのは、バルコニーに繋がるガラス扉だった。
 濃紺の夜空をバックに、何かが居た。恐る恐る近づいて確認すると、それは小さな蝙蝠らしかった。蝙蝠が扉を叩いている。

「何だろう」

 何かに導かれるように私はガラス扉を開けた。パタパタと羽音を鳴らして蝙蝠が部屋に入ってくる。……蝙蝠にこんな習性あったっけ? 私は生物学に詳しくない、後でルキくんに訊こう。博識なルキくんならきっとすらすらと淀みなく正確かつ詳しい説明をしてくれるはずだ。
 蝙蝠が私の傍に寄ってきて、眼前でとまる。何だか催促されているような気がしてふと腕を伸ばせば、蝙蝠は私の腕に掴まった。蝙蝠って少し怖いというか、気持ち悪い印象を持っていたけれど、こうしてみると多少は可愛く思える……かもしれない。
 撫でてみようかな……。指を蝙蝠に伸ばす。けれど、指がそれに触れることは叶わなかった。廊下に繋がる扉が開かれたからだ。

「ルキくん!」
「……何をしている」
「蝙蝠がバルコニーの扉を叩いてたの。入りたいのかなと思って扉を開けたんだ。ねえルキくん、蝙蝠って人に懐くの?」

 そう問えばルキくんの深い知識が披露されると思っていた。けれど彼がとった行動は、私の質問に答えることではなく、両手に持っていた食事のトレーを乱雑に置いてこちらに近寄ってくることだった。
 近くで見て初めて気がついた。ルキくんの顔が、強張っている。沈黙したまま傍に立つ彼が、なんだか恐い。

「ルキ、くん?」

 ルキくんはこちらへ手を伸ばしてきて、蝙蝠の首を掴んだ。力加減なんて全くしていない、完全に蝙蝠の首を引きちぎるような、力の強さだ。

「な、何してるのルキくん、離して! 死んじゃうよ!」
「殺すつもりだが」
「やめて、やめてよ!」

 蝙蝠の首を絞めるルキくんの手を掴んで引き剥がそうとするが、逆に彼の空いた手で私の手を拘束されてしまう。蝙蝠を解放しないまま、彼は私に顔を近づけてくる。

「何を企んでいる」
「……え?」
「この蝙蝠は逆巻の連中が従えている使い魔だ。お前、こいつを部屋に引き入れて何をするつもりだったんだ?」
「な、何も企んでないよ! 大体、その蝙蝠がアヤトくんたちの使い魔だっていうのも今初めて聞いたんだよ!」

 アヤトくんの名前を出した時ルキくんの形の良い眉がぴくりと動いた。怒らせてしまったか、と不安になるが、そんなことを気にしている場合ではない。彼が私を見下ろすその目は、完全に私を信用していない、あの目だった。胸にざわざわと嫌な感じが広がる。

「本当に手のかかる家畜だ、お前は。俺はこう見えて気が短いんだ。いい加減お前の態度にも腹が立ってきた」
「ルキくん、信じて……」
「信じて欲しいか」

 はい、答える私の声は小さく掠れている。ルキくんにちゃんと届いたか分からず、何度も頭を縦に振って頷いた。

「ならば態度で示せ」

 ルキくんを見上げる。彼の瞳は、とても暗く冷えた色を湛えていて、無意識に身体が強張った。昨日と全く同じ構図。ルキくんの疑うような視線が心を踏み荒らしていく。昨日された躾の苦しさを思い出して、私は思わず後ずさった。それが逃亡にうつったんだろう、ルキくんは掴んだ私の腕を引っ張った。
 ふとルキくんのもう片方の手をみれば、その瞬間、彼の手が蝙蝠の首を捻り潰した。千切れた首が血を吹き出しながら落ちていき、ぼとりと音をたてて床に転がった。

「ひっ、」

 見ていられない。目の前で動物の命が奪われた。首を千切られた蝙蝠が、まるで自分の未来を暗示しているようで、私はそれから目を逸らす。けれどそんなささやかな逃避も、ルキくんは許してくれない。蝙蝠の死体の残り半分を床に投げ捨てて、その手で私の首を掴んだ。
 あんな風に、私も殺されるのか。

「顔を逸らすな、俺を見ろ」

 逆らうことを許さない彼の声につられてそちらを見上げれば、無表情のルキくんが、やはりあの冷たい目をして、こちらを睨みつけている。

「この蝙蝠のように、無様に殺されるのは嫌か」

 死にたくない。その一心でこくこくと頷く。

「だがお前の行動は目に余る。そろそろ調教も面倒になってきた。先ほども言ったが、俺はあまり気が長い方じゃない。いっそこのままお前を殺してしまいたいとすら思っている」
「い、いやだ……殺さないで……ッ!」
「態度で示せと言っただろう? お前が罰を受け入れるというのなら、お前の戯言を信用して見逃してやってもいい。どうする?」
「受ける、罰を受けるからっ、殺さないで……」
「いいだろう」

 ルキくんが私の首を解放する。今すぐに殺されてしまう事態は避けれたけれど、私の身は危険に晒されたままだ。彼が何を考えているのか全く分からない。自分の未来が不安に満ちていた。ルキくんは私の手を引っ張って部屋を出ようとする。彼の靴が当て付けのように蝙蝠の死体を踏み付けていて、私は目をつぶってその光景から逃れるしかなかった。私はどう足掻いても簡単に殺されてしまうひ弱な立場なのだと、見せつけられているような気がした。

   *

「そんな……」

 連れてこられたのは、地下牢だった。逆巻家にも地下牢があったが、どうして家にこんなものがあるのだ。ヴァンパイアの考えはよくわからない。
 此処に連れてこられたということは、私を此処に閉じ込めるつもりだと、そういうことなんだろう。どうして、どうして?

「主人に疑われるような愚かな行動をとったことを反省しろ。暫くここで頭を冷やせ」

 ルキくんは掴んでいた私の腕を解放して、とんと軽く背中を押した。私の身体は簡単に床に転がる。頬に当たる床がとても冷たい。ルキくんの部屋とは大違いな、無機質な空間。此処においていかれるなんて、頭がおかしくなりそうだ。
 ルキくんが私に背を向けて歩き出す。

「や、やだ置いていかないで!」

 慌てて立ち上がり彼の足元に縋りつけば、彼の足は止まった。そのことにどうしようもなく安堵する。ルキくんは溜息を吐きだすと、こちらを振り返り床に座り込む私を見下ろした。

「お前は自分で言ったことも守れないのか。罰を受けることを選んだのはお前自身なんだぞ」
「でも地下牢に置き去りにするなんてきいてない! やだ、ここ恐いよ、置いていかないで……!」
「お前が嫌がることじゃないと躾にならないだろう」
「お願い、お願いします、ルキくん……」
「……面倒だな」

 低い声がそう呟いた。不穏な空気を感じて弾かれたように彼の顔を見上げる。

「実に面倒だ。やはりお前への調教は終わりにしてしまおう」

 殺してやると、そう言っているのだ。
 ルキくんがしゃがんで私に視線を合わせてくる。さっきみたいに首を掴もうと腕を伸ばしてくるものだから、私は慌てて彼から距離をとった。
 彼は不思議そうに首を傾げて見せる。

「何故逃げる? 地下牢に居るのは嫌なんだろう?」
「死ぬのも……いや……」
「罰は受けたくない死ぬのも嫌だと、そういうことか。いい加減理解したらどうだ、お前はその二択以外与えられていない。主人に楯突くつもりか? 自分の立場を考えろ」
「……」
「さあ選ぶんだ。今ここでその下らない人生に幕を下ろすか、俺の信用を得るために甘んじて罰を受け入れるか」

 ルキくんが私に与えてくる選択肢は、いつだって理不尽なものばかりだ。この一ヶ月の理不尽な扱いが走馬燈のように脳裏に過って、涙が溢れてくる。
 目が覚めた時優しく私の涙を拭ってくれたルキくんの指は、私のことを突き放すようにぴくりとも動かない。あの優しいルキくんは何だったんだ。どうして私の心を乱すようなことをするんだ。そう思えば思うほど涙が止まらない。

「……地下牢に、います」
「命を繋ぎとめることを選ぶのか。いいだろう」

 ルキくんは立ち上がり、今度こそ地下牢を出て行った。遠ざかるその背中に手を伸ばしそうになるのは、優しかったルキくんに縋りたい気持ちがあったからだ。けれど、私に散々酷いことをするルキくんのことを思い出して、最後まで声すらかけることが出来なかった。
 冷たく広い地下牢にひとりぼっちで取り残されてしまった。ずりずりと這って壁までいくと、壁に背中を預けて膝を抱え、顔を埋める。寒い、寂しい、辛い。
 ぐるぐると様々な記憶が頭の中を巡る。この屋敷にきてから何度も躾という名の酷い行為をされてきた。何度も何度も心を打ち砕かれる思いだった。けれどそれでも私が自我を保っていられたのは、普段の生活でのルキくんがそれなりに優しかったからだ。吸血の回数は少ないし、食事もちゃんと与えてくれる。学校に行って良いと言われた時の嬉しさは、きっと誰にも理解出来はしない。
 そしてとどめのような、今日の態度。優しい声色で、優しい手つきで、私を慰めてくれたルキくん。すごく嬉しかった。心にじんわりと温かいものが広がった。アヤトくんよりルキくんを選んだ理由が、分かりかけた気がした。
 それなのに。……それなのに。
 ルキくんが何を考えているのかさっぱり分からない。心を壊すような酷いことをしたかと思えば、それを組み立て直すような優しいことをするのもルキくんだ。その二面性が私を困惑させる。どっちがルキくんの本当の態度なの?
 出来ることなら、優しいルキくんに縋りたい。けれど先ほどのような彼を見れば、お前の望む無神ルキは幻想なんだと言われているような気がした。
 もう嫌だ。どうしてこんな目に遭わないといけないのだ。
 広い地下牢に、私の嗚咽だけが響いていた。


(20131123)


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -