抵抗しなくなったと思えば、どうやら意識を失っていたらしい。頭を水から引き上げ、ぐったりとした彼女の薄い胸を押せば、咳と共に水を吐き出した。水と涙と唾液でぐちゃぐちゃに汚れた顔を拭ってやる。
まったく、世話のかかる家畜だ。
浅く呼吸を繰り返している彼女の細い首が目に入る。あまりにも細い、ひ弱なそれ。そっと右手を添えてみれば、簡単に掴めてしまった。このまま力を加えればあっさりとへし折ってしまえる。意識もなく、抵抗も出来ないまま、命を奪われる。その人間の無力さがどうにも憎らしい。
あの方の目的を成就するために必要な女を殺してしまうわけにはいかない。俺は細い首から手を離して、彼女の身体を抱き上げた。普段ならユーマを呼びつけて運ばせるのだが、今はそれも面倒だ。
自分より遥かに小さく軽いその身体を抱えたまま浴室を出ようとすると、俺がドアノブに手を伸ばす前に扉が開いた。廊下に立っていたのは、コウだった。
「ルキくんってば酷いよね〜」
けらけらと笑いながらそんなことを言ってくる。その言葉の意図を話せと目線で促せば、頭の後ろで両手を組んだコウが家畜の顔を覗き込んだ。
「本当はエム猫ちゃんが逃げるつもりなかったって知ってるくせに」
「何のことだ」
「えーとぼけるの? アヤトくんとエム猫ちゃんが話してるの見た使い魔が、ふたりの会話の内容を報告してないはずないでしょ〜?」
ね? と返事を催促しながら首を傾げるコウの顔には満面の笑みが浮かんでいる。何故そこまで知っているのかと疑問に思うが答えは簡単だ。好奇心旺盛なコウのことだから、何処かで話を聞いていたんだろう。
「お前も存外悪趣味なヤツだな。立ち聞きしていたのか」
「だっておれが風呂に入ろうとしてたのに、ルキくんとエム猫ちゃんが言い争ったまま浴室に向かうからさ〜。あはは、ごめんね?」
「はぁ、もういい」
溜息混じりに言えば、ありがとーと間抜けな声が返ってきた。その直後、家畜を見下ろすコウの顔から笑みが全て消える。スイッチが切り替わったようなその表情の変化は、長年一緒に生活しているとはいえ、いつ見ても不思議なものだ。
「それにしても、この子がイヴねえ。おれは未だに信じられないよ。こーんなどこにでも居そうな子が、あの方に必要とされてるなんてさ」
「まったくだな。あまりにも平凡すぎて、嘆かわしくなってくる」
コウが家畜の頬をつまんで引っ張る。平凡な顔が間抜けに歪むが、被害に遭っている本人は少しも反応を返さない。先ほどの躾がよほど堪えたのか随分と深く眠りについているようだ。
「……で、ルキくん。どうなの? 覚醒の方は」
「さっぱりだな」
「ふーん、ルキくんでもそうそう上手くいかないかぁ。難しいもんだね」
「お前、風呂に入るんじゃないのか」
「あっそうそう忘れてた。じゃあまた明日ね、ルキくん」
強引に話を切り替えたのに気付いているのか気付いていないのか、コウはあっさりと会話を打ち切って浴室に入っていった。背後で閉められる扉。向こうにある気配が浴槽に向かったのを確認してから、俺は自分の部屋へと足を向けた。
事実、覚醒はまだだった。けれど俺には一つ、推測としか呼べない程度の考えがあった。まだ推測でしかないから、コウに話してやるわけにはいかない。実際に試してみるまでは、まだ。
部屋に戻り、家畜をベッドに寝かせる。心臓が特別なこと以外、あまりにも平凡な、取り柄のない人間。俺たちの思惑を何も知らない彼女は、間抜けな顔を晒して寝息をたてていた。
コウの言ったいたことは、半分正解だった。使い魔は俺に、家畜と逆巻アヤトの会話の一部始終を報告していた。
けれど、あんな場面で言ったことの何が信じられる? 人間なんて誰しも腹の底に黒い感情を抱え込んでいる。人間だった頃に嫌という程それを実感した。
あの場面でこの家畜が使い魔の存在に気付いていたとしたら? 逆巻アヤトへの拒否の言動は、後々俺に躾をされるのが嫌だという理由からなされた単なるポーズかもしれない。
可能性なんて一々考えればキリがない。普段なら起こりうる可能性の全てを把握しているが、どうにもあの家畜は自分の思い通りにならない。それに苛立つ自分が腹立たしい。
だから俺は思考を放棄した。それは自分が最も嫌う愚かな行為だというのに。
(20131122)