結局あの後アヤトくんが教室に戻ってくることはなかった。何日も私のことを探し回っていたという割には、随分とあっさりした引き方だった。少し不思議な気がしたけれど、逆巻家に連れ戻そうとするアヤトくんを自分から探す訳にもいかない。私は疑問を抱えながらも、しっかり全ての授業を受けてから帰路についた。
 教室まで迎えに来てくれたのはユーマくんだった。人を威圧するような彼の大きな姿は少し苦手だけれど、今日ばかりは迎えがルキくんでないことに感謝した。何となく送迎の車にのる気にはなれなかったので、自分の足で帰るつもりだと告げると、不審そうな顔をしながらもユーマくんはあっさりと頷き了承してくれた。
 車に乗りたくなかった理由は、アヤトくんに会ったことで浮上した考えがごちゃごちゃしていて纏まらなかったからだ。どうして私は無神家での暮らしを選んだんだろう。酷い扱いを受けるのはどちらでも変わらないのに。自分の気持ちがわからない。そんな状態で、私の心を乱す一端を担っているルキくんと対面する度胸は、私にはなかった。
 足を使って歩けば多少は考えが纏まるかもしれない。家に着き、ルキくんと会ってしまうまでの時間でどうにか自分の気持ちの原因を突き止めたかった。
 とはいえ、気持ちの整理なんてそう簡単に出来るものではなかった。眼前に広がる大きな屋敷をぼんやり眺めると自然と溜息が零れてくる。車の送迎を断って考える時間を引き伸ばしたけれど、結局全然足りなかったようだ。考えを纏めるどころか余計にごちゃごちゃになっただけだった。
 また、溜息が漏れる。此処でじっとしていても仕方がない。ルキくんに会いたくないな、という陰鬱な気持ちを引きずったまま、私は重たい両開きの扉を開けて中に入った。

   *

「遅かったな。わざわざ歩いて帰ってくるなんて、何かあったのか」

 会いたくはないがそういう訳にもいかない。だって彼の部屋で一緒に生活しているのだから。ルキくんが不在なら良いのにと思ったけれど、基本的に彼は自室で過ごすタイプの人物であるため、私の願いに反して彼は自室で本を読んでいた。
 部屋に入ってすぐに投げかけられた言葉に、私は返事を探す。本当のことを話す訳にもいかないので、適当にはぐらかすことにする。

「うん、ちょっと考え事してて」
「お前がか。……珍しいな」

 それはちょっと失礼じゃないか。と思うけれど、相手はルキくんだ。言い返すことなんて許されないので、私は曖昧に笑って沈黙する他なかった。
 学校の鞄を床に下ろしていると、ルキくんから鋭い視線を向けられる。彼の黒い瞳は相変わらず人の考えを見透かすような不思議な力を感じさせるもので、お腹の底が冷たくなる心地がした。普段から彼に心を暴かれるのを恐れてはいるけれど、今日は一段とその気持ちが強かった。
 彼の探るような視線に抗うように、私も彼を見返す。何を言われるのか、まさかもう私の考えを見透かしてしまったのか。ビクビクと内心で震えるけれど、彼はじっとこちらを見詰めるだけで何も言わない。どれくらい経っただろうか。実際には一瞬だったのかもしれないけれど、私には数分にも感じられたその沈黙を破ったのは、彼の声だった。

「そろそろ晩餐の時間だな」

   *

「……いつも思うけど、賑やかな食卓だよね」
「コウとユーマのことだろう。まったく、下品だと言っても聞き入れないあいつらには困ったものだ」

 先ほどまでの食事風景を思い出して言えば、返ってきたのは少し憂鬱そうなルキくんの言葉だった。
 彼はこの無神家のリーダー的な人物だ。他の三人の生活を管理する立場としては、あの二人の少しばかりワイルド過ぎる食事方法は悩みの種らしかった。そんなルキくん自身はどこの貴族だと言わんばかりの美しい所作で食事を進めていた。一つ一つの些細な動きにさえ気品が漂っているように思えた。同じ兄弟なのにこんなにも違いが生まれるなんて、不思議なものだ。
 コウくんとユーマくんに注意してるルキくんは、二人があまりにも彼の言葉を聞いてくれないものだから、困惑している様子だった。普段何もかもを自分の思い通りに進めてみせる彼のそんな珍しい姿を思い出すと、ちょっと面白かった。

「……何を笑っている」
「何でもないよ」

 そうはぐらかすがにやにやと緩む頬は止まらない。頬に手を当ててなんとか引き締めようとするけれど上手くいかなかった。そんな私の様子があまりにも不審なのか、ルキくんが目を細めて私を見下ろしている。大変だ、このままでは彼の困惑した姿を笑っていたと気付かれて怒られてしまう。力の入らない頬に内心焦りを感じ始めていたけれど、彼から降ってきたのは私の予想外の言葉だった。

「逆巻アヤトのことを考えていたのか」

 え?
 彼の言っている意味が分からず、傍に立つ彼の顔を見上げれば、彼は無表情で冷たい目をしていた。驚きのあまり、無理矢理引き締めようとしていた頬の緩みはいつの間にかなくなっていた。

「どういうこと?」
「惚けるのならそれでも構わないが、痛い目を見るのはお前自身だというのは、嫌という程分かっているだろう?」
「ルキくん、本当に意味がわからないんだけど……」

 ルキくんの瞳がすうっと細められる。私の言っていることが本当か否か判断をしているらしい。

「お前、逆巻アヤトと会って話をしただろう」
「……どうして、知ってるの」
「お前は俺の家畜だからな。使い魔に行動を監視させ何かあれば逐一報告させている」
「監視……!?」
「何をそんなに驚いている? 何の監視もつけずにお前を外に出す訳がないだろう。いや、そんなことはどうでも良いんだ」

 そういえば、私をこの屋敷に閉じ込めていた時、ルキくんは逆巻兄弟に見つからないよう警戒しているように思えた。それは勿論、私という餌を奪われないようにするためだ。そんな「大事な餌」を何の監視もつけずに外に出す訳がない、というのは、何となく理解が出来る。
 唐突に出された監視という言葉に驚き目を見開いて固まっている私の顎を、ルキくんが掴んだ。ぐいっと上を向かされ顔を合わせられる。

「どうして逆巻アヤトと接触したことを、自ら主人に報告しなかったんだ? どうせ、逆巻アヤトに頼んで俺を出し抜きこの家から逃げ出そう、とでも考えていたんだろう」
「そんなことないよ!」
「どうだかな。何度も躾してやっているというのに、お前は家畜としての自覚がいまいち足りていないらしいからな」
「ルキくん信じて、逃げようなんて思ってない!」

 私がアヤトくんに頼んで此処から逃げ出そうとした。そう思われたことが、何だかとても悲しかった。
 そもそも、私が今日ずっと悩んでいたのは、どうして私が無神家に居ることを選んだのかということだったのだ。アヤトくんと居ることよりルキくんと居ることを選んだ。少なくとも私は逆巻家の暮らしを捨てることを自ら選択した。その選択を、悩みを、疑うような彼の言葉が、胸を抉るような痛みを与えてくる。
 必死に弁解するけれど、私を射抜くルキくんの瞳は相変わらず冷めたままだ。これは、まったく信用してくれていない目だ。どうしたら彼は私のことを信じてくれるんだろう。半ば泣きそうになりながら、もう一度本当なの、と訴えるが、返ってきたのは深い溜息だけだった。

「……主人に嘘をつく家畜には、躾が必要だな」
「どうして信じてくれないの……?」
「身体から逆巻アヤトの腐ったにおいがする。そんな香りを振りまいておいて、どうしてお前の言葉を信用できる?」
「それは、アヤトくんに肩とか掴まれた時に――」
「戯言は良いから、こっちへ来い。躾をし直してやる」

 とても冷たい目をしたルキくんが私の腕を掴んだ。思わずその手を振り払って逃げ出しそうになるけれど、この一ヶ月散々彼に恐怖心を植え付けられてきた私の身体は、ぴくりと震えるだけでそれ以上動かない。理性だけが逃げろと叫んでいた。
 きっと今の私は絶望に満ちた顔をしているのだろう。ルキくんの機嫌が少しだけ良くなったのがわかったが、その原因は私の怯えた顔を見たからだと思う。抵抗しないのを良いことに、ルキくんは私を引っ張って歩いていく。腕を掴む力はそんなに強くない。逃げようと思えば簡単に逃げられるのに、私の足は従順に彼のあとをついていく。これが一ヶ月間の躾の成果なのかと思うと、無力な自分が情けなかった。
 やがてとある扉の前で立ち止まった。彼が扉を開けて私を中へ案内する。そこは浴室だ。私も毎日使用しているそこは、黒を基調としたシックなデザインの調度品や壁と床に囲まれた、落ち着いた雰囲気の空間だ。色合いからしてルキくんの趣味だというのが容易に想像できる。
 此処に連れてこられた意図が分からず、恐る恐るルキくんを見上げれば、彼は浴槽に目をやっていた。

「ちょうど良かったな」

 どういう意味だろう。それを訊く前に、彼は行動していた。
 私の首根っこを掴んで、たっぷりと水を注がれている浴槽に頭を突っ込ませた。バシャッ! という音と共に顔中に冷たさが広がる。息が苦しい。驚きで息を吐き出してしまったため、肺にはほとんど酸素が残っておらず、頭を掴むルキくんの手から逃れようともがいて、残り少ない酸素すら吐き出してしまう。
 必死にもがくけれど手は確実に私の頭を捉えていて、苦しさがどんどん増していった。どうしてこんなことするの、苦しい、そんな思いがいっぱいに広がって涙が浮かぶけれど、大量の水がその涙をさらっていく。
 酸素が、足りない。目の前が徐々に白く染まってきて、身体から力が抜けてきた。だめ、このままだと死んでしまう――。
 そんな絶妙なタイミングで、ルキくんは私の頭を水から引き上げる。

「げ、ほっ、ごほッ」
「はは、どうした、苦しいか?」

 肺いっぱいに空気を吸い込んで噎せた。嗚咽混じりに咳をすれば口に入っていた水が零れてくる。びしょびしょになった私の顔をルキくんはとても愉快そうに見ていた。

「返事くらいしたらどうだ」
「く、くるし……げほッ」
「だったらもう一度してやる」

 笑いながらそう言って、ルキくんはまた私の頭を水に突っ込ませた。やはり驚きで酸素を吐き出してしまうけれど、今度は少しだけ心構えができていた。さっきより苦しさはマシなはずだ。
 そう思っていたけれど、私が心の準備をして酸素を吐き出さないようにしていたのを、ルキくんは簡単に見抜いてしまったようで、さっきよりも長い時間頭を押さえられていた。
 まただ、また目の前が真っ白になる。いやだ、苦しい、離して……!
 そのタイミングで、ルキくんは再び私の頭を水から引き上げる。

「何だ、泣いているのか?」
「う……あ、あ」
「これはお前自身の失態が招いたことだ。苦しい思いをしたくないのなら、いい加減自分の立場を自覚することだな」
「ご、ごめんなさい……」

 震える唇でなんとか謝罪する。ルキくんの愉快そうな笑みに少し、不機嫌な色が混ざった。

「それは何に対する謝罪だ」
「ルキ……くんが、疑うような……行動を……したこと……」
「ほう、俺に嘘をついたことではない、と?」

 力なく頷いて見せ、肯定の意思を示してみれば、ルキくんは少しだけ黙ったあと、再び私の頭を水に突っ込ませた。意識を失うギリギリのところでまた引き上げられる。三回もされればいい加減私の体力も気力も限界に近かった。
 苦しい。なんでこんな目にあわないといけないの? 私は嘘なんてついてないのに。

「……逃げたいのなら逃げれば良い。その度に俺はお前を此処へ引きずり戻し、その逃亡の意思を砕くように躾してやる」
「……や、いや……私は……逃げてない……」

 今度こそルキくんの顔が苛立ちに歪んだ。乱暴に水へ頭を突っ込まれる。先ほどよりも長い。どんどん酸素がなくなっていった。体力も、気力も、残っていない。色んな感情が溢れるのと一緒に目に涙が浮かぶけれど、全て水がさらっていく。じん、と頭が痺れて、それから身体が痺れてくる。
 そのまま私は意識を手放した。



(20131122)


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