私に安らぎの場所などないのだと、ようやく理解した。
 無神家の方が逆巻家より居心地が良いだなんて勘違いも甚だしかった。彼らはヴァンパイアで私は人間。所詮捕食する側とされる側であり、この構図は決して揺るがないのだ。
 初めてルキくんに吸血された日から、私は自分でも自覚できる程臆病になった。扉の開閉音や物が落ちる音、そんな些細な生活音に大げさなまでに驚いてしまうのだ。原因は分かっている。この家で信じられるのは自分だけだ、という意識が私の感覚を鋭敏に、また臆病にさせているのだ。

「おい家畜」

 唐突に背後からかけられた声に勢いよく振り返れば、そこに居るのは私をこんな風にした原因の一つであるルキくん。私の反応に呆れた顔をしているところをみると、私は相当滑稽な様子でルキくんを警戒しているらしい。

「全く、仕置きの一つでそんなに怯えてどうする。堪え性のない奴だな」

 何故私がルキくんのお仕置きに耐えなければならないのだ。そんな反抗の気持ちを込めてルキくんを睨みつければ、彼の形の良い眉がピクリと痙攣した。ついこの間までの私なら、こんなあからさまな反抗はしなかった。初日の恐怖が尾を引いていたからだ。けれど今は違う。ただただ、勘違いをしていた自分への情けなさと、そもそもこんな状況になった元凶を恨めしく思う気持ちの方が大きかった。

「……まあ、いい。それよりお前、紅茶を淹れて来い」
「……。ルキくんの部屋に?」
「ああ、頼んだぞ」

 私の返事を待たずにルキくんは自室に戻って行った。私がどんなことを考えていようが、私に逆らうことは許さないと、そういうことなのだ。まあ別に紅茶を淹れるのは嫌いではない。正直神経過敏になっていて気力がすり減っているのだ。気分転換も兼ねて紅茶を淹れてこよう。私は踵を返してキッチンに向かった。


   *


 さあっと顔から血の気が引いて行くのがわかった。私の両手には何も載っていないお盆。本来そこにあったはずのものは、今は床に転がっている。……中身をルキくんの靴にぶちまけて。
 思えばこうなる予兆はあったのだ。私はルキくんへ恐怖心を抱いている。彼を前にすると何もされなくとも身体ががくがく震えるのだ。また、初めて吸血されたあの日からルキくんの自室はどうも落ち着かない。部屋に入るだけでとんでもないほど気力を削がれるのだ。そんな状態でバランス感覚が必要なお盆を運ぶ作業なんてすれば、そう、こうなりもするだろう。

「ご、ごめんなさい」
「……」
「本当にごめんなさい」

 謝ってもルキくんは言葉一つ発さない。特に怒っているわけでもない表情で自分の靴を見つめている。まだ「何しやがる」と怒鳴ってくれた方がマシだった。不機嫌な顔をするでもなくただ私の失敗の跡を見る彼が、怖くてたまらない。彼が口を開いた時私は何を言われるというのだ。がたがたと身体が震える。逃げ出したいのに動くことも出来ない。

「……家畜」
「はっはい」
「俺は先ほど、お前に何を命じた?」

 声にも別段怒っている様子はない。けれど淡々とした口調でそう問われるのは、やはり怒られるよりも私の精神をがりがりと削っていく。

「紅茶を、淹れてくるようにと」
「そうだな。間違っても淹れた紅茶を俺の靴にかけろとは言っていない。そうだろう?」
「は……い」
「飲み物を粗末にするのは良くない」

 ルキくんは自分の紅茶に濡れた靴を指差して言う。

「舐めろ」

 …………。

「え」
「舐めろと言ったんだ。お前の粗相が原因で俺の靴を汚してしまったのなら、片付けまでするのが当然の成り行きだろう」
「か、片付けならっ、今雑巾持ってくるから、だから!」
「何度も言わせるな」

 低い声が私の言葉を遮る。少しばかりの苛立ちを滲ませた声が私を急かすように「早く舐めろ」と言った。
 人の靴を舐めるなんて、そんな汚いこと出来るわけがない。けれどルキくんの声は私に有無を言わせず従わせるような、そんな力を持っている。彼の声に半ば条件反射のように従おうとする身体を、理性が必死に押さえつける。結局私は嫌だということも出来ず、かといって素直に彼の靴を舐めることも出来ず、金縛りにでもあったかのようにその場に突っ立っている他なかった。
 私が返事をしないせいでルキくんの機嫌を損ねてしまったらしい。眉を寄せた彼の表情は今度こそ、怒りを露出させていた。

「紅茶を持って来いと命令した時と、今。お前は二回俺に逆らっている。初日に言ったことをまさか忘れたわけではないだろう? お前の全ては俺が握っている。その命もだ。お前が今この場で、二度にわたる反抗への反省を見せなければ、俺はお前のことを殺すことだって出来るんだぞ。……飢えと言うのは、お前が想像出来得る苦痛よりはるかに苦しいものだ」

 やらなければ食事を抜くぞと、そう言っているのだ、彼は。
 死ぬか、今我慢して彼の靴を舐めるか。命をとるか人間としてのプライドをとるか。そんな究極的な二択を突き付けられて、私の思考はパニックに陥った。初日にルキくんの家畜になることを承諾することで、人間としての尊厳やプライドなど捨てたに等しい。けれどどうあがいても私は人間だ。人間が人間らしく生きるとは、現代では当然のことのはず、なのに。
 もう駄目だった。私の思考はほとんど停止していて、理性の抑えがなくなったため身体が勝手にルキくんのもとへ動き出す。しゃがんで、床に両手をついて、彼の靴に顔を近づけて――舌を這わせた。
 途端にぼろぼろと涙が零れ始めた。叫びだしたいくらいの屈辱感が身体の中で暴れまわっていた。なのに叫ぶことも出来ない。私の嫌だ嫌だという心の叫びをよそに、私の身体はルキくんの靴に舌を這わせ続ける。まるで心と身体が分離してしまったようだ。頭の考えに全く従ってくれない自分の身体を殴り飛ばしたくなった。
 私は二度も、ルキくんに人間としての尊厳を奪われてしまった。悔しさ、屈辱、哀しみ、喪失感、そして絶望。負の感情がじわじわと私の精神を追い立てて行く。がたがたと身体が震えだした。目の前が真っ白に染まっていき――。

 私は意識を手放した。



(20131108)


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