今のアパートは防犯面に不安があるから、三人で引っ越そうという話になっていたけれど、ユイの進路が決まるまで延期になった。進学先か就職先を鑑みて条件の合う物件を探した方が良いからだ。
 だから高校卒業直後にルキと籍を入れたけれど、一緒の部屋で過ごすのは二週間に一度程度で、それ以外は前と変わらない生活をしている。といっても朝から夕方までユイは高校があり、ルキは仕事があるから、部屋に独りきりの私にとって元の家やルキの家に大した違いはないのだけれど。
 二週間に一度、たいていは翌日が休日の日、ルキの部屋で一緒に過ごす。ただ雑談をしたり、お互い無言で本を読んだり、彼の気紛れに付き合って身体を重ねたり。そのあとは彼のベッドで眠って、朝を迎える。
 隣人のルキと密接な関係を築いていたとはいえ、寝るときはいつも自分の家に居たから、一緒に眠るのは高校卒業式の日が初めてだった。最初はユイ以外の気配がすぐそばにあることに違和感があったけれど、生来の図太い気質か、それとも私が眠るまで雑談に付き合ってくれる彼のおかげか、何にせよそんなものはすぐになくなった。ルキの匂いは不思議と安堵を齎すから、いつの間にかこのベッドでぐっすりと安眠出来るようになった。
 だからこの生活が始まって暫くは、私はルキが眠る姿を見たことがなかった。朝目が覚めると彼は既に起き出しているし、夜は私よりも遅くに寝ているらしい。人より長く睡眠を必要とする私とは対照的に、彼は短い睡眠で済む人間なのだ。
 と、思っていた。
 その日私が目を覚ましたのは、喉の渇きを感じたからだった。眠たい目を擦ってベッドから降りようとしたとき、ふと背後から微かな呻き声が聞こえた。此処にいるのは私とルキだけだ。だからその低く苦しむような声も彼のものなのだ。どうしたのだろう、と不審に思って、私に背を向けて眠っていたルキの顔を覗き込むと、苦しげに眉を寄せて、薄く開いた口から乱れた息を浅く吐いていた。
 いつも冷静で、大人びた顔をしている彼は、私やユイの面倒を見たり、泣き喚くユイを宥めるようなことはあっても、彼自身が弱音を吐いたり疲れている姿を見せることは一度もなかった。だから悪夢に魘されている姿が物珍しくて、まじまじと観察してしまう。
 起こした方が良いのだろうか。けれどただでさえ睡眠時間の短い彼を悪夢から覚ますために起こすなんて、余計なお世話な気がしてならない。
 手を中途半端に伸ばしたまま起こすか起こすまいか思案していたら、ゆっくりと瞼を開いてルキが目を覚ました。彼は数度瞬きをすると、自分の顔を覗き込んでいる私を怪訝そうに見る。
「おはよう」
「……ああ、おはよう」
 ルキは上体を起こしてベッドサイドテーブルの時計を見た。時刻は午前三時半を少し回ったところ。おはようと言うにはあまりにも早すぎる時間だ。ルキは僅かに黒い瞳を細めただけで、すぐに私の方に視線を戻してきた。
「悪い夢でも見ていたの」
「……どうしてそう思うんだ」
「魘されていたから」
「それで目が覚めたのか? 悪かったな」
「ううん、喉が渇いただけ。そうしたら、君が苦しそうに呻いて魘されていたから、どうしたのかなって」
 淡々と説明すると、小さな嘆息が返ってくる。
「確かに良い夢ではないが、大したものでもない」
「そう」
 それが嘘なのは明白だった。
 今まで弱音を吐いたり疲れている姿を見せなかったのは彼自身のプライドのせいもあるのだろう。物腰柔らかく振舞っていても、自尊心が人一倍強い人だ。
 だから深く追及するのはやめておいた。代わりに泣くのを我慢している小さな子供を宥めるように彼の頬を撫でると、目を細めて苦笑しながら「なんのつもりだ」と問われる。「別に」と淡白に返すと、彼の手が私の手に重ねられた。
「ナマエ」
 掠れた声で呼びながら腰を抱かれ、腕の中に引き寄せられたかと思うと、優しく抱き締められる。そっと彼の胸に手を添えて、肩に頬を預けた。互いの息遣いしか聞こえない静かな沈黙。けれど居心地の悪いものではない。彼の落ち着く匂いに包まれて、喉の渇きも忘れて眠気がぶり返してくる。耐えきれず瞼を下ろすと、くすくすと笑い声が聞こえる。
「付き合わせて悪かったな。おやすみ」
「…………ん……」
 小さく頷いて、徐々に意識は遠ざかった。




 それから一緒に眠るたび、私は夜中に目覚め、そしてルキも悪夢に魘されていた。二週間に一日しか共に眠らない私がそのたびに遭遇しているのだから、きっと彼は毎晩悪夢に苦しんでいるのだろう。加えてその内容が毎回同じものであるらしいことも判明した。
 夢の内容を想像し得る、断片的な呻きから汲み取れた単語は『父上』と『母上』。そういえば彼の家族の話は一度も聞いたことがなかった。過去に何かあったんだろう。
 気丈で精神力の強い人だと思っていたけれど、それは対外に向けて繕ったもので、本当の彼は独り何かを抱えて苦しんでいるのかもしれない、と思った。そんな想像に至ると、少し変な趣味を持ちながらも妹の面倒を見てくれる年上の優しいお兄さんという像がガラガラと音を立てて崩れ、この人もただの弱い人間なんだと、感慨深い気持ちになった。
 眼下ではいつものようにルキが悪夢に魘されている。苦しげに浅く乱れた息を吐いて、眉を寄せて自分の胸の辺りをぎゅっと握り締めていた。汗で張り付いた彼の前髪を指で払ってみる。私は優しい人間ではないから、苦しむ姿を哀れんで、その悪夢から救ってあげようなどという感情はなかった。ただその姿を眺めるだけだ。
 やがてゆっくりと瞼が開かれ、黒い瞳が覗く。彼は私の姿を認めると、困ったような、苦々しいような不思議な顔で笑って、上半身を起こした。
 薄暗闇の中で見るその顔は、普段よりも顔色が悪いように思える。よほど酷い夢だったのか、憔悴し切っている様子だった。いつもは悪夢から覚めた彼と二言三言交わしてまた眠りに就くのだけれど、今日は口を開く元気もないらしい。
 胸の辺りがざわつく。唐突に彼がひ弱な存在に思えて、哀れみを抱いた。
「ルキ」
「……なんだ?」
 ベッドの上に膝立ちになって、彼と距離を詰める。不思議そうにこちらを見上げる彼の頭に両腕を回して、胸に抱き寄せた。黒い猫っ毛が鎖骨の辺りを擽る。胸の中のルキは、一瞬驚いたように息を呑んだけれど、暫くして私の腰に腕を添えた。
「もう『どんな夢を見たの』と訊かないのか」
「他人の夢になんてさほど興味はないしね。話すのを嫌がる人に追及するほど、悪趣味でもないよ」
「興味がない、か。他の人間ならともかく、俺相手でもそうなのか?」
「? うん」
「……」
「それに、内容を聞き出してその悪夢から救ってあげるなんて善意もないし。でも、君が話したい、話したら楽になれるっていうなら、話くらいは聞くよ」
「……優しいんだか優しくないんだか分からないな」
「残念ながら、優しくはないかな。ごめんね」
 我ながら気持ちのこもっていない謝罪を口にすると、苦笑したルキが腕の力を強くした。
 暫くそんな状態でいたあと、ぽつりと、ルキは独り言のように零し始めた。
「……俺はお前たちと同じで、孤児だったんだ。父は会社を経営していたんだが、俺が小学生の頃に業績が下がり始めてな。母親は先の見えない父と会社を見捨てて若い不倫相手と逃げた。妻に逃げられ憔悴していたところにちょうど会社も倒産し、――借金を苦に首を吊った」
 相槌を打つ代わりに猫っ毛の頭を撫でると、身を任せるように長い睫毛を伏せ、薄い唇が滔滔と話を続ける。
「俺は見知らぬ子供に世話を焼くほどお人好しじゃない。お前たちと関わったのは、まあお前が居たのも理由の一つだが、海外転勤する父親に置いていかれ、母親の話をしようともしない幼い姉妹が、自分の過去と重なったからだ」
「……」
「お前がユイや父親と血縁がないと知った時にいっそう共感と同情を抱いた。年齢の割に大人びた表情も、ユイ以外には淡白で素っ気なくて可愛げのない態度をとるのも、生い立ちに起因しているのかと思うと、どうも放っておけなくてな」
 そこで一旦、言葉が途切れる。続きを言おうか言うまいか悩むような空気が流れ、結局彼は再び口を開いた。
「夢に見るのは、父や母を失う前後のことや孤児院のことだな。あまり気分の良い記憶じゃないから、情けないことに大人になった今でもあんなくだらない夢に魘される」
「確かに、いつもの君からはちょっと考えられないね」
「はは……お前にこんな姿を見せるつもりはなかったんだがな」
「でも、小学生を付け狙って優しい隣人のお兄さんを演じているような、狡猾で得体の知れない人よりは、信用出来る弱さだと思うよ」
「慰められているんだか、何なんだかな。大体小学生云々は全部お前の勘違いだろう」
「……じゃあ、その姉を付け狙って、外堀を埋めるために小学生の妹に優しくして懐柔するような狡猾さ、って言ったほうがいい?」
「……はあ。もうその話はやめてくれ」
 耳が痛い、と続けて苦笑すると、ルキは表情を消して私を見上げた。じっと観察するように凝視される。なに? と訊きながら首を傾げたら、頭を引き寄せられて、次の瞬間には唇が触れていた。ちゅ、ちゅ、と触れるだけのキスが繰り返される。横髪を掻き上げるように指を通され、頭を撫でられると、擽ったいような心地よいような気分になった。
 唇が離れていくと、今度は肩を掴まれ身体をくるりと反転させられる。そうして後ろから抱き締められ、そのまま身体を倒してふたりともシーツに沈んだ。背中に体温を感じる。
「……なに?」
「今日はこのまま眠る」
「腕、下敷きになってるけど、寝辛くないの」
「いいや、全く」
「ふうん……」
 脇腹の下に通された腕に触れてみると、手のひらを掴まれて指を絡められた。
 これが彼なりの弱味の見せ方なのか、人に甘える方法なのか。何にせよ彼がそうしたいと言うのだから、私はそれに付き合うだけだ。絡められた指をきゅっと握り返すと、背後で微かに笑う気配がした。
「今度はちゃんと眠れそう?」
「ああ」
 その声には眠気が感じられた。それにつられて私も眠たくなってくる。瞼を下ろして、そっと後ろに囁いた。
「そう。じゃあ、おやすみ」



20150511
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