食器がぶつかる控えめな音だけが響く。
 カーペットの上で割座をしたナマエは、左手に茶碗を持ち、右手の箸で黙々と白米を口に運んでいた。その向かいにはルキが座っていて、彼も同じく淡々と作業のように食事をしている。
 ユイが居ないだけで部屋は静かなものだった。元々ふたりとも落ち着いた性格をしていて、あまり積極的に雑談をする方でもなく、他人との沈黙も苦にならないせいで、口を噤みがちだった。
 会話の潤滑剤とも言えるユイは、中学校の行事の関係で帰宅が遅くなるらしい。普段はユイとルキがふたりで晩御飯を用意しているのだが、今日はルキだけで先に料理をした。一応、食卓に並べられているおかずは揚げ物で、冷蔵庫には下拵えをしたユイの分が揚げずに残してある。二度手間をかけてでも出来立てを食べさせたいというルキなりのこだわりだった。
 三人の中では夕食の時間が大まかに決められていて、誰かが遅れそうな場合は先に食事することになっている。ナマエの帰宅が遅くユイとルキがふたりで食事をしたことは何度もあったし、ごく稀だが今のようにナマエとルキしかいない時もあった。
「そういえば」
 ルキがふと思い出したように話を切り出した。数秒遅れて、顔を上げたナマエの赤い双眸が彼に向けられる。
「来週の日曜日は暇か?」
「……」
 金色の髪を揺らして首を傾けながら、もぐもぐと口を動かしつつ、左上の方に視線を彷徨わせて記憶を探った。やがてごくんと口の中のものを飲み込むと、「うん」と端的に答える。
「なら、少し遠くへ出掛けないか。連れて行きたいところがあるんだ」
「買い物か何か?」
「まあ……そんな感じだ」
「ふうん。別にいいよ」
 隣人として、食事を共にしたり勉強の面倒を見てもらったりと密接な関係を築いてはいるものの、休日の昼間に三人で外出したりすることはあまりない。年齢も所属も違い、それぞれ送るべき生活があるからだ。だから改まって予定を訊ね、外出を提案されたのは初めてだったため、珍しいこともあるものだと不思議に思いもしたが、ナマエはそれ以上特に何も考えずあっさり了承した。
「そうか。じゃあ来週の日曜日、午前十時に声をかける」
「ん」
 短く返事をして食事を再開する。暫くその様子を眺めていたルキだが、やがて彼自身も箸を動かし始め、再び下りた沈黙のなか淡々と食事をした。
 食事を終えてから一時間ほど経った頃、ユイが帰宅した。ルキは手早く揚げ物を作ると、用事あると言ってさっさと自分の家に戻っていった。




 ユイはルキの作った夕食を美味しそうに食べていく。行事の疲れもあり、空腹も限界に達していたため、箸が進むペースがいつもより早い。ナマエは特に用事もないのか、テーブルの定位置で文庫本を読み耽っていたのだが、唐突に声をかけてきた。
「来週の日曜日、ルキが少し遠くへ行かないかって言っていたんだけど。買い物みたいなものだって。ユイは予定、空いてる?」
「……えっと、その日、もう用事入れちゃった」
 するとナマエは残念がった様子もなく、当然のように「そう。じゃあ、断っておくね」と言った。ユイは苦々しい気持ちで黙り込む。
 来週の日曜日は学校の級友と映画館へ行く約束をしていた。本来であれば真っ先に姉を誘うのだが、ナマエの好みでは無さそうな内容だったので、それは諦めた。
 そのことをルキに話したのがつい先日。ナマエは何も気付いていないようだが、ルキはユイの都合の悪い日を敢えて指定したのだと、すぐに思い当たった。
 そもそもルキは遠出の誘いを『ふたり』にではなく『ナマエだけ』に持ちかけたはずなのだ。ユイの不都合な日を指定したのは恐らく、ナマエが意図を察せずユイを連れて行こうとすると、ルキも予想していたからだろう。
 中学生になった頃から抱き始めた、ルキへの違和感。優しい兄のような隣人であることは何一つ変わらず、自分やナマエへの態度も妹を可愛がるようなものだ。けれどふとした瞬間、ナマエを見る目付きが柔らかくなる。それは妹の成長を見守るものではなく、何か大切なものを慈しむような、そんな目だった。
 小学生の時は男の子と女の子が混ざり合って色々な遊びをしたのに、中学に上がった途端、見えない壁が生まれたみたいに、自然と男女が別れて行動するようになった。思春期という、異性を異性として強く意識する時分を迎えたのだ。周りにいる誰かが誰かに恋をしたという話を聞くと、それは小学生の時のようなお飯事じみたものではないのだと、経験のないユイにも何となく理解が出来た。
 誰かが誰かを好きだとか、告白だとか。大人の真似事をして、付き合ってみたり、別れたり。色んな人たちを見た。
 そうして気が付いた。あの柔らかい視線の意味に。ああ、ルキお兄ちゃんは、お姉ちゃんのことが好きなんだ、と。
 ナマエは買い物だと勘違いしているようだが、ルキが持ち掛けたのは紛れもなくデートの誘いだ。頭が良くて、大人びていて、人の感情の機微――正確には悪意に敏感な聡い姉だが、自分のことになるとその聡明さが嘘のように鈍感になってしまう。ユイがルキの気持ちに気付いたことを、ルキ自身も悟ったのか、ここ暫くはナマエに対して露骨なアプローチをかけているというのに、当の本人は何も知らず適当にあしらっているらしい。
 ユイの予定を知った上で敢えて都合の悪い日を選んだり、ナマエの周りにある男の影をあの手この手を尽くして追い払ったりしていることに勘付いている身としては、いい人だけれど何だか怖いという印象が拭えない。しかし一方でそんなルキでも兄のように慕っているユイは、大事な姉を他人に盗られるのは嫌だが、ふたりが仲良くしてくれればいいという複雑な願望も思っていた。
 色々不安はあるが、何も知らない姉の背中をこっそりと押してあげたい。ユイは微妙な気分を押さえつけて笑顔を取り繕った。
「ううん、断らなくていいよ。お姉ちゃん、ふたりで行ってきて」
「……」
 赤い瞳がすうっと細められて、何かを探るようにこちらを見られる。余計な詮索をされないうちに話をまとめてしまおうと、「ね?」と念押しすれば、考え込むような沈黙のあと「分かった」と頷いた。




 時間は過ぎて、約束の日曜日。
 普段と何ら変わらない装いで出掛けようとする姉を見ていられなくて、ユイはクロゼットの中から最も女性的で可愛らしい服を選んで着替えさせた。癖のある金髪も綺麗に整えてやる。ナマエは熱心に身支度を手伝うユイを怪訝そうな目で見ていたが、説明を求めたり文句を言うこともなく黙ってされるがままになっていた。
 十時ぴったりになってインターホンが鳴らされる。ユイは来訪者を出迎え、それが隣人の男であることを確認すると、姉を送り出した。



20150512
ナマエ17、ユイ13、ルキ24


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