午後五時を少し回った夕暮れ、西に傾いた春の太陽が住宅街を橙色に染め上げていた。左右を立ち並ぶ戸建て住宅に挟まれた、人のまばらな道を、少女が一人歩いていく。
 肩甲骨の辺りまで伸ばされた、少しウェーブのかかった天然の金髪。服から覗く肌はどこも真っ白く、顔は精巧に作られた人形のように整っていて、男性か女性か判別しづらい中性的な顔立ちをしていた。整った顔には宝石のような深い赤の瞳が収まっている。身長は一六五センチと女性としては高い方で、大人びた澄まし顔も相俟って非常に年齢が分かりづらい。近所の中学の制服に身を包んでいなければ、高校生か、或いは成人と間違えられそうな容貌だった。
 彼女――ナマエは慣れた足取りで住宅街を進み、やがて現れた小学校の中に入って行った。そのまま校舎をすり抜け、校庭に至る。広々したグラウンドには、遊具、鉄棒、プールと並んで一つの平べったい家のような建物があった。学童保育所だ。横開きの扉をガラリと開けて一番手近な職員に声をかけると、若い女性の職員は心得たという顔で部屋の窓際に向かって呼びかける。
「小森さーん、お姉さんが来てくれたよー」
 窓際のテーブルで漢字の書き取り問題をしていた幼い女の子は、その声に顔を上げて、玄関先にいる姉の姿を見つけると嬉しそうに顔を綻ばせた。急いで文房具とドリルをランドセルに仕舞い、黄色い帽子を被り、姉のもとへ走り寄る。その動きに合わせて耳の下で二つ括りにされた髪が揺れていた。
「ユイ、いい子にしてた?」
 ナマエは腰を屈めてユイと呼んだ妹と目線を合わせ、優しい口調で問う。ユイが得意げに頷くと、そう、と淡白な返事をしながら小さな頭を撫で、それから妹と手を繋いだ。
「じゃあ先生、帰ります」
「はい、気を付けてね。小森さん、また明日ね」
「ありがとうございます。行くよ、ユイ」
「うん。先生、ばいばい!」
 手を引かれながら、ユイは振り返って職員に手を振った。
 小学校を出て、住宅街を抜け、商店街の方へ向かう。道中妹は楽しげに学校であったことを話して聞かせ、姉は聞いているのか聞いていないのか判然としないような曖昧な態度でありながらもしっかりと耳を傾け、時折相槌を打つ。
 二十分ほどして姉妹は商店街に辿り着いた。夕飯の食材を買うためスーパーへ向かう。カートを押す姉を先導しながら、ユイが食材を選んでカゴに入れていく。弱冠十歳にしてその大きな瞳は幾多の戦いを乗り越えてきた主婦然としており、鮮度の見極めや選定も慣れたものだった。一方四歳上の姉は妹に任せ切りでただ黙ってその小さな背中を追う。
 そうしてカゴに入れられていった食材は、成長期であるとはいえ女児二人分にしては些か量が多かった。
 買い物を終え、ビニール袋に食材を詰めて真っ直ぐ帰路につく。夕日はいよいよ地平線に消えようとしていて、辺りも薄暗くなりつつある。ふたりは足を早めて自宅を目指した。
 ほどなくして着いたのは、築三十年はゆうに超えているであろう、防犯の面で不安しか残らない二階建てのアパートだ。カンカンと喧しい音を立てる階段を登り、細い通路を進んだ先、突き当たりの二〇六号室が姉妹の自宅である。
 他の住人に迷惑をかけないよう、少し気を遣って静かに通路を歩く。しかし二人は自宅に直進せず、二〇六号室の手前、二〇五号室の前で足を止めた。ユイがインターホンを一度鳴らし、いつものように中の住人へ声をかけた。
「お兄ちゃん、帰ったよ!」
 そのまま反応を待たずに通路を進んで二〇六号室に入る。鍵は開けたままにしておいた。
 アパートはどれも同じ間取りで、玄関の直ぐ傍に浴室とお手洗いが、そして廊下の先のリビングにキッチンが併設され、向かって左手に六畳ばかりの部屋がある。そこはふたりの寝室だ。
 買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込み、学生鞄やランドセルを部屋の隅に片付けている間に、コンコンと玄関扉をノックする音が聞こえた。待ってましたとばかりにユイが出迎える。扉を開けた先にいたのは二〇五号室の住人で、姉妹より幾分年上の、長身の男性だった。
「おかえり。邪魔するぞ」
「うん!」
 勝手知ったるという様子で中に入る。ベランダから洗濯物を取り込んでいた姉は、リビングに入ってきた男に小さく会釈した。
「ナマエも、おかえり」
「……どうも」
 男は愛想よく笑ったが、ナマエは無表情で端的な返事をしたきり、ついっと視線を背けて取り込んだ洗濯物を畳み始めてしまった。自分に懐きまくって周りをちょろちょろしている妹とは対照的な姉の素っ気ない態度に男は内心苦笑する。
「ルキお兄ちゃん、今日ね、カレー作りたい! お肉もお野菜も買ってきたよ」
「カレーか。久しぶりだな」
 ユイは買ってきた材料の名前を指折り数えながら男に告げ、ふたりは並んでキッチンに立つ。そうして慣れた手つきで調理を始めた。
 彼の名は無神ルキといって、先に述べた通り二〇五号室の住人である。最寄り駅から数駅行った場所にある大学に通う学生で、現在二十一歳だ。一年前に小森姉妹がこのアパートに越してきて以来の付き合いで、今ではこうして晩御飯を共に作り食すまでの仲になっていた。
 大人びた性格のルキは、幼いユイを妹のように可愛がり世話を焼き、またユイも優しい隣人を兄のように慕ってよく懐いていた。親が家に居ないふたりにとって、彼は親の代わりみたいなものだった。
 この家には姉妹以外誰も住んでいない。
 大きな背中と小さな背中が並ぶのを視界に収めながら、ナマエはふと、一年前のことを思い出していた。
 ふたりの父セイジは、キリスト系の教会で神父をしている男だった。温和で誠実で、他者に分け隔てなく優しく接し、人々が描く神父像のお手本のような、ユイにとって自慢の父だ。
 教会に住み込みで働いている彼は、夕食の席で娘たちに「春から海外に転勤することになった。心配だが、新しい勤務地は少々危険だから、お前たちを連れては行けない」と苦渋の表情で告げた。
 そのあまりにも唐突な話に幼いユイは泣きじゃくり、「置いて行かないで、私も一緒に連れて行って」と縋ったが、父は「転勤はもう決定事項だし、日本にふたりを残して行く方がまだ転勤先に連れて行くよりも安全だ。だから分かってくれ。すまない」と申し訳なさそうに答えた。
 黙って一連のやりとりを見ていたナマエは幼い妹を宥め、「ユイは私が面倒を見るから大丈夫」と父を安心させようとした。冷静沈着で大人びた姉が、多少抜けているところはあっても警戒心の強いしっかりした子供だと父はよく知っていたため、姉に妹を任せることにした。
 教会には別の神父が派遣されるらしく、姉妹のために新しい住居を探さなければならならず、防犯面には多分な疑問符がつけられるものの、地域の治安がよく比較的安心なあのアパートに家を移した。
 狭いアパートで、祈りにくる信者も、他のシスターたちも、そして大好きな父親もいない、姉とたったふたりだけの生活。ユイは引っ越してから毎日のように大きな瞳を真っ赤に充血させてしくしく泣いていた。ナマエはそれを根気強く慰めた。
 引越しから一週間後、他の部屋へ挨拶して回った際にルキと知り合い、その後様々な出来事を経て今の状態に落ち着いた。
 面倒見のいいルキに構ってもらえ、子供だけではどうしようもない場面に直面しても遠く離れた父親でなく隣人に頼るうちに、ユイは父と離れた悲しみを少しずつ忘れ、教会で暮らしていた時のような満開の花のような笑顔を見せることが多くなった。
「……」
 赤い双眸が男の背中を見据える。探るように、睨むように。
 孤独な幼い姉妹に良くしてくれる隣人の男子大学生。善意や親切心もあるにはあるだろうが、本当にそれだけなのか。もしかしたら妹を狙っているのではないか。そんな悪い推測が浮かぶ。
 何より生い立ちが複雑で他人の悪意に敏感なナマエの直感が、この男は胡散臭いと告げていた。柔和な笑みを浮かべて優しく接してくるものの、腹に一物抱えている気がしてならない。
 ユイが懐いて心からルキを信頼している様子なので傍観しているが、その分自分が警戒しておこうと、こっそり身を引き締める。
 そんなことを考えていた時、ふとルキがナマエの方を振り返った。
「ナマエ、お前も味見しろ」
 ちょいちょいと手招きされる。火にかけられた鍋では野菜や肉が煮込まれていて、既にルーや香辛料も投入されていた。今は味の調節をしているようだ。
 人の良さそうな柔らかい表情を浮かべるその顔をじっと見詰めると、不思議そうにまばたきされる。それでも視線を逸らさなければ、今度はくすくす笑いながら「どうした?」と首を傾げられた。懐かない猫をわざわざ構うような愉快そうな声だった。
「……ううん、何でもない」
 かぶりを振って否定し、立ち上がって二人の元へ向かった。手渡された小皿に口をつける。
「美味しい」
「本当? やったあ」
「今日のはユイが味を整えたんだ。良かったな、美味く出来てるぞ」
「うん! お姉ちゃん、先に座ってて。すぐ用意するからね!」
「ん」
 ルキに褒められ頭を撫でられ、ユイは嬉しそうに笑っている。信用ならない男だとは思うが、今のところ異常はなさそうだ。




20150513
ナマエ14、ユイ10、ルキ21


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