徐々に近づいてくる複数人の声と足音で、本から意識を引き戻された。壁に掛けられた時計を見ればあれから三時間程が経過していて、思いの外本に没頭していたことに驚く。ましてや一度読んだことがある本だというのに、俺としたことが。きっとお腹を空かせたコウたちが飯はまだかと呼びに来たんだろう。
 ナマエに猫耳尻尾が生える珍事が起きて以来調子を狂わされてばかりだ。月蝕でもないのに自分らしくない言動をしてしまう。一方人の心の平穏を乱している張本人は今も俺の左肩に頬を預けて安らかに眠りこけていた。お前のせいで弟たちに文句を言われる羽目になったんだぞと、ややこじつけがましい抗議の代わりに右手でナマエの頬を抓ってみると、眉がぴくっと痙攣し僅かに身動ぎしてから首に回された両腕に力がこもったものの、起きる気配はない。どうしてこれで目が覚めないんだ。こいつの睡眠に対する貪欲さには呆れてしまう。
 どうせ起きないのならいっそ床に転がしておいてやろうか。しかしそれを行動に移す前に気配が部屋の扉の前にやって来て、「ルキくーん、起きてるー?」と間延びしたコウの声と共にノックが聞こえた。「ああ、起きている。入れ」そう促すと三人が中に入ってくる。
「悪い、今から作り始める。少し遅くなるが待っていてくれないか」
 腹を空かせた弟たちの文句が飛んでくる前に先手を打って謝罪を述べたが、返ってきた反応は予想とは違う生温い沈黙だった。ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべるコウと、心なしか頬を引き攣らせているユーマ、そして子供を見る親のような微笑みを浮かべるアズサ。揃いも揃って俺と腕の中にいるナマエを交互に見たかと思えば、コウが「ね? おれの言った通りだったでしょ」と訳の分からない話の切り出し方をした。
「言った通り? 何の話だ。大体お前たち、飯の催促に来たんじゃないのか」
「まあ、そうなんだけどよ」
「ルキくんがご飯の準備忘れるなんて珍しいし、どうしたのかなった話をしててね」
「俺は……ルキとナマエさんが一緒に寝てるのかなって……言ったんだけど……」
「おれはルキくんが時間を忘れるほどナマエに構ってるんだと思うよって言ったんだ。で、その通りだったでしょ? ってね」
「……事情は把握した」
 別に時間を忘れるほどナマエに構っていた訳では無いし、訂正をしようかと思案したが、こちらに擦り寄ってくる彼女に身体を貸して眠らせていて、尚且つ未だ左手が無意識に白い耳を撫でているこの状況で弁解しても余計に下世話な想像を煽ってしまうだろう。こういう時は下手な発言はせず適当に流してしまうに限る。
「ともかく、飯は今から作る。少し待っていろ。おいナマエ、いい加減起きろ」
 この女を起こさないと身動きが取れないので、肩を掴んで呼び掛けながら揺り起こした。流石に目が覚めたらしく、喉の奥で微かに唸り声を上げながら瞼を大儀そうに持ち上げる。二度瞬きをしてから、眠たげな赤い瞳がぼんやりと俺を見上げた。
「そろそろ飯を作らなきゃならない。寝るならベッドに移れ」
「……ん」
 こくんと頷き、首に回された両腕の力が緩む。そのまま立ち上がる――かと思いきや、先程にも増して強く抱き着かれてしまった。半獣化する前のナマエにはあり得ない、素直に甘えるような行為に面食らうが、内心の驚愕は気取られないよう努めて呆れ顔を装った。
「……言動が一致してないんだが」
「うん……」
 力無い返事に思わず溜息が出る。しかし起きろと口にしている割に左手は眠りへ誘うように彼女の白い耳を撫でているのだから、我ながら意味の分からない話である。
 ナマエは気持ち良さそうに瞼を閉じて俺の肩に頬を押し当てていた。床に垂れ下がった尻尾もその心地良さを表すように、ゆったりとしたリズムで揺れていた。こうして大人しく主人に甘えているなら可愛げもあるんだがなと思いつつ、しかしその一方で彼女の減らず口が恋しくもあった。
 とはいえいつまでもペットを宥めている場合ではない。本格的に起こしにかからなければ、と口を開いたところで、再び赤い瞳を覗かせたナマエが肩に頬を押し当てたまま僅かに首を傾げた。
「ルキも、一緒に寝よ」
 まるで誘うような仕草と口調に頭を殴られた気分だった。猫耳と尻尾が生えただけだというのに、甘えるような言動をされると、彼女が一層ひ弱な存在に感じられ、すり寄せられた華奢な身体の重みもあいまって庇護欲と嗜虐心が湧き上がってくる。衝動的に桜色の薄い唇に噛み付いてやりたくなったが、弟たちが見ている手前なので思い止まった。
「悪いが、俺はお前と違って暇じゃないんだ。飯を作らなくてはならないと言っただろう? それにまだ眠くない」
「……そう。じゃあ、良い」
 ナマエは憂うように瞳を伏せて物分りの良い返事をした。けれどそれでも身体が離れることはなく、それどころか一層強く頬を押し当てられる。言葉とは正反対に行動で俺を引き留めるように。心なしか耳が悲しげにぺたんと伏せられていて、妙な性癖のない俺ですら哀愁漂うその姿に言葉が詰まる。このままだと流されてしまいそうだ。小動物を虐める趣味はないがもう実力行使しかないと、ナマエの腰を両手で掴んだ時だ。
 生温いにやけ顔でこちらを眺めていたコウは溜息交じりに俺の名を呼ぶと、
「ご飯はおれたちで何とかするよ」
「……?」
「元々そのつもりで言いにきたんだしね。だからルキくんはその甘えん坊なネコちゃんの相手をしてあげて」
「怪しいな、何を企んでるんだ?」
「ええ〜酷いなぁ、思いやりに溢れた弟たちが楽しそうにネコの世話をしてるお兄ちゃんを気遣ってあげてるだけだって」
「……」
 気遣いという割には妙にニヤついた表情が気にかかるが、眠るナマエを叩き起こすのは難儀な事なのでその申し出は有難い。不器用なコウはともかく大雑把ながら料理は出来るユーマが居れば食事の方も心配は要らないだろう。コウの言った通り三人ともそれで意見は纏まっているらしく、断る理由もなかった。
「面倒かけてすまないな。甘えておく」
「そうしてそうして」
「チッ、オマエらの分は用意しねーからな。どうせ要らねえんだろ」
「ああ、構わない」
 答えると、やれやれと言いたげに溜息をついたユーマが真っ先に部屋を出て行った。コウがそれに続き、アズサが「じゃあね」とこちらに手を振ってから扉を閉めた。三人の足音がリビングの方へ遠ざかっていく。
 視線を感じて腕の中にいるナマエを見下ろすと、赤い瞳をじっとこちらに向けていた。数度瞬きをした後、誘うようにこてんと首を傾げて身体を寄せてくる。
「はぁ。良かったな、思い通りになって。お陰で予定がなくなってしまった。本を読む気にもならないし、暇だから一緒に寝てやる」
「ん」
 無表情な上に淡白な返事だが、尻尾が嬉しげに揺れていた。素直に甘えられたからといってあっさり許してしまう自分が腹立たしくもあるが、可愛げのある従順なペットは可愛がってやりたいとも思ってしまう。
 今度は素直に立ち上がったナマエを促してベッドに導くと、普段は背中を向けて眠る彼女がこちら向きに横たわり俺の胸板に両手を添えてきた。身体の下になった片手のやり場が無いので、頭を上げさせて腕枕をしてやると、身体を擦り寄せてきてくすくすと笑い始める。
「ちょっと硬いね」
「不満ならいつもみたいに向こうを向いて寝れば良いだろう」
「ううん、これでいい」
 瞼を下ろしながらそう言って、よりこちらへ近寄ってくる。ナマエから香る仄かな甘い匂いが心を落ち着かせた。先程はまだ眠くないと言ったものの、こうしていると眠れそうな気がする。空いた手でナマエの頭を抱え込むようにして引き寄せると、ナマエがもぞもぞ動いて自分の脚を俺の脚に絡めてきた。すぐ目の前にある白い耳を指で摘まんで揉んでいるうちに、徐々に眠気が強くなって、ナマエが眠るのを見届ける前に意識を失っていた。

 目が覚めれば既に日は登り切っており、思いの外熟睡してしまったことにしばし呆然とした。ナマエを見ればまだ寝足りないとばかりにすやすや眠りこけていた。朝になっても彼女が背中を向けていないのは珍しいな、と思いながら猫耳を撫でていたら、二度寝した。



20150405


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