ベッドの縁に腰掛ける私の前には椅子に座るルキがいて、私の右手を掴んで爪先にやすりをかけていた。慣れた手つきで余分に伸びた爪を少しずつ削り取り形を整えていく。五本の指全てにそれが終わると、爪の表面に液体を塗り、お湯の入ったボウルに数分間手を浸させると、また同じ液体を塗ってから、ステンレス製の器具で甘皮を爪の根元に向かって徐々に押し出していく。それが全て終わると、湿らせたガーゼで押し出した甘皮を先ほどの液体と共にこそげ落とし、爪の表面を磨いてから、刷毛で保湿用のオイルを塗っていく。
 定型化された行程をただ黙ってぼんやり見ていると、終わったぞ、と声がかかって手を解放された。
「次はもう片方だ。手を貸せ」
「ん」
 言われた通り左手を差し出すと、同じ行程が繰り返されていく。処理されたばかりの手を目の前に掲げてみれば、爪は見事なまでに綺麗な手入れが施されていた。最早執念深ささえ感じるその出来栄えに、呆れを通り越して感心してしまう。
 普段は彼に手入れをされている間、二人揃って黙り込んでいるか、その日に読んだ本の話でもしているのだが、今日は不思議と質問をしてみたい気分で、知らぬ内に口が開いていた。
「前から思ってはいたんだけど、君って本当に何でも出来るんだね。こんな技術、何処で学んだの」
 爪先にやすりをかけていたルキが視線を持ち上げて、不思議そうに二度瞬きした。
「珍しいな、お前がそんなことに興味を持つなんて」
「そうかな」
「ああ。いつもはどうでも良さそうな顔をして俺の好きなようにさせているだろう」
「まあ、興味っていうほどでもないんだけど。君が自分の爪の手入れにそれほど熱を入れてるようには見えない割に随分手慣れてるなって思って。で、何処で学んだの」
「一年くらい前、コウに仕事先のネイリストを紹介させて教えを請うた」
「一年前? ……結構最近なんだね」
「それまでは必要な技術じゃなかったからな。お前の爪を手入れするために習得しただけだ」
「ふうん」
 代わり映えのしない生活の中では時間感覚が曖昧になりつつある。朧げな記憶を頼りに探ってみると、一年前といえば、丁度ユイとアヤトの結婚式があった頃のはずだ。確かに彼の言う通り、一週間に一度ほど行われているこの爪の手入れは、その時期を境に始まり恒例化した。寝起きに髪を梳かれるのと同じで、私が無頓着で手を抜いてしまうものだから我慢ならなかったのだろう。
 そして当初からプロ並みの手腕で処理をしていた彼は、とある日を境により一層丁寧な手入れをするようになった。
 ルキが視線を爪先に落としてまたやすりをかけ始める。時折手を傾けて具合を確認しながら、彼好みの形に仕上げられていく。それが終わると、また甘皮の処理を施して、保湿オイルを塗られた。
 両手の手入れが終わると、ルキは道具を置いたキャスター付きのサイドテーブルを少し遠ざけて、最初に手入れをした方の手を掴んだ。出来を確認するようにじっくりと指先を観察して、満足げに口元を緩める。彼の指に僅かに光沢を帯びた爪の表面を撫でられると、感覚が鈍くなったはずの指なのに、不思議と擽ったさを覚えた。
「いつもありがとう」
「別に礼を言われるようなことはしていない。第一お前の爪の手入れをしているのはお前ではなく俺自身のためなんだしな」
「身嗜みが整っていないのが目障りだから?」
「そんな理由じゃない」
 ルキは人差し指を摘まむと、それが動かないことを確かめてから、指に唇を落とした。じいんと鈍い痺れが広がる。何度も何度も繰り返されたその心地よい感覚に思わず目を細める。鈍い痺れは指先から始まって全身に巡り、頭は靄がかかったように真っ白で他のことを何も考えられなくなる。
 薄い唇が指の根元から指先に移動しながら、時折悪戯するみたいに皮膚を食んだ。そして手のひらを上に向けて、今度は指先にキバを押し当てる。焦らすようにキバで擦ってから、つぷりと音を立てて浅く埋め込まれた。滲み出た真っ赤な血を冷たい舌がぬるりと舐め取り、より深くキバを穿たれる。鋭いキバが深く指を抉れば抉るほど、得体の知れない感情に身体が支配されていく。
 五本の指を順番に吸血される。指先から繋がった私の心そのものを嬲るように、彼はじっくりと時間をかけて、丁寧に手入れを施した爪が、それどころか指先が血塗れになるほど、酷く血を吸っていった。
 片手を血塗れにし終えキバを抜いたルキは、顔を上げて私を見ると楽しげに笑った。空いている方の手で頬に添えられ、親指が下唇を撫でる。
「お前はこうされている時が一番良い顔になる。俺に指先を噛まれるのはそんなに気持ち良いのか」
 黙って見つめ返していると、返事を催促するように親指が下唇を押して薄く口を開かれる。靄のかかった頭では上手に言葉を紡げなくて、声を出す代わりに首肯すると、ルキはやはり満足げに微笑んだ。
「俺も同じだ。動かないお前の指にキバを打ち込んでいるのが、他のどんなことよりも俺の気分を高揚させる」
 血塗れの手を解放されると、少し物寂しい気持ちになる。表情筋の働きが鈍い私はそれほど表情を変えていないはずなのに、ルキは私の感情を読み取って「そう残念そうな顔をするな」と宥めるような口調で言って苦笑した。
 ルキの手が髪に伸びてきて、指で横髪を耳にかける。頬に添えられていた手の親指が今度は目尻を撫でた。青みがかった黒い瞳が、私の赤い瞳を覗き込んでくる。
「お前の身体の中でもとりわけ、髪とその赤い瞳が綺麗だと思っていたんだが、今は指が一番気に入っているんだ」
「……どうして?」
「完治したはずの指が何故動かないのか。その理由はお前が一番よく分かっているだろう?」
「……」
 頬の手が離れて行って、血塗れになっていない方の手を掴まれ、まだ汚れていない手入れされたばかりの爪を撫でられる。そしてまた、薄い唇が指先に落ちてきた。眩暈がしそうだ。
「こうして触れる度に、まるで毒でも注ぎ込んでいるような気分になる。俺がお前の心を縛り付け、そしてお前自身も俺に縛り付けられることを望んでいる。この指が動かないのその証に他ならない。違うか?」
 こちらを上目遣いで見上げる瞳に射抜かれながら、違わない、と首を横に振った。
 まるで儀式のようなこの行為について、彼と言葉を交わしたことはなかった。口付けをされる度に毒を注ぎ込まれ、感覚や心を麻痺させられ、そうして彼のもとを離れられないように枷を嵌められている。この行為にそんな意味を見出していた私だけれど、ルキが寸分違わず同じ意味を込めていただなんて。彼は動かない指に戯れに口付けをしていたわけでも何でもなくて、明確に私を縛り付けようという意思を込めていたのだ。
 こちらを見上げるその瞳に、幾度となく見せつけられてきた彼の執着の焔が垣間見えて、ぞっと背筋が冷えていく。しかし以前は恐怖の対象だったその瞳が、今ではこの上ない安堵を齎す。ルキには、私の赤い瞳がどんな風に見えているんだろうか。きっと、私の瞳にも彼と同じ焔が灯っているんだろう。
「ナマエ」
「……ん」
「お前も、片手だけじゃまだ足りないよな?」
 こくんと頷くと、それに応えるように深く深くキバを穿たれた。彼の手で整えられた指先が、また彼の手で赤く染め上げられていく。
 彼は自分自身のために私の爪の手入れをしていると言ったけれど、それはきっと、自分のせいで動かなくなった指を何処までも愛しみ、そうしてまた自らの手で粉々に壊してしまいたいという相反する欲求から来ている行為なんだろう。
 それでもやはり、「ありがとう」という言葉に変わりはなかった。何故なら私にとってもこれは求めて止まないものだったから。
 どこかでジャラジャラと鎖の擦れる音が聞こえていた。




ちょっと性癖のほうにシフトし過ぎたね


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