※『 2』で長女が制止しなかった場合
※本編より胸糞悪い
※やっつけ感とアヤトの偽物臭がすごい




 慣れない感触が身体中を這い回る。冷たい唇が至る所に口づけを落とし、吸血していった。施される愛撫はまるで最愛の恋人にしているかのように丁寧で優しい。アヤトに開発された身体は意識と乖離しあっという間に快感の渦に突き落とされる。頭の中に白い靄がかかったようにぼんやりし、何も考えられない。固く噤んでいた口はいつの間にかだらしなく開いて、みっともない喘ぎを零しながら男の手に翻弄されていた。
「くくっ……、随分気持ち良さそうじゃないか。自分に快感を与えてくれるなら旦那以外の男でもいいのか?」
「ち、がっ、ああっ」
 否定を口にした途端首筋を噛まれてあられもない声をあげてしまう。羞恥と屈辱で涙が溢れ、床にぱたぱたと水滴が落ちた。男はそんなユイを嘲笑って、今度は胸元にキバを穿つ。ユイの痴態を笑うような言葉は羞恥心を一層煽り、否が応でも彼女の興奮を高めてしまう。嫌なのに感じてしまう自分の身体が恨めしい。
 執拗なまでの愛撫で身体は昂ぶり、目の前に終わりが見え始める。けれどそれを掴む前に、ルキは途端に手を止めてしまう。ご馳走を取り上げられユイは悲鳴のような声をあげ訳も分からず「どうして」と泣いたが、彼は鼻で笑うだけで一切取り合わず、ユイの絶頂の波が引いたのを見計らい愛撫を再開した。
 そんなことを数え切れないほど繰り返された。やがてすすり泣くユイを楽しげに見下ろし、確認するようにルキが問う。
「良いんだな? 分かっているだろうが、お前が諦めないなら俺だってやめるつもりはないぞ」
「……そうしたら約束、守ってくれるんだよね?」
「ああ」
 ナマエは何も言ってくれない。助けるどころか観察するようにただこちらを見ている。自分は彼女に見捨てられたのかもしれない。自分が彼女を想っているほど彼女は自分のことを想ってくれていないのかもしれない。
 けれど、そんなことはもうどうでもいい。この苦行を耐え切ればナマエと一緒に帰れる。それならこの身体がどうなろうともう構わない。彼女を自分だけのものに出来るのなら――。
 薄暗い感情が全身に染み渡っていき、泣き腫らして真っ赤になった大きな瞳から光が消えた。気持ちを押し殺してただ頷いた。
「馬鹿な女だ」
 嘲るように言ってルキはユイの手錠を外した。腰を掴んでうつ伏せにさせ、臀部を突き出す形で四つん這いにさせる。拘束が無くなってもユイには逃げる体力も意思も残っていなかった。ただ変わらず注がれる赤い視線から逃れるように身を捩った。
「きゃ、ああ!」
 華奢な身体を床に縫いとめるように熱が穿たれる。自由な両手が何かを掴もうと空を掻き、床板の隙間に爪を食いこませた。アヤトの形を覚えこんだ膣を自分のものに慣らすようにゆるゆるとした動きで律動が始まる。じわじわと鈍い快感が生まれて、ユイは固く目を瞑ってその感覚に耐える。
 徐々に腰を打ち付ける速度が速くなっていく。アヤトに散々全身の性感帯を開発されたせいでどこを刺激されても快感を覚えてしまう。やがてユイの特に敏感な場所を見つけたルキは執拗にそこを責め立てた。あっという間に上り詰め、今度はそのまま絶頂に押し上げられた。
「ひ、ぁっ……!」
 喉を晒し背筋をしならせて身体を痙攣させた途端、首筋にキバを穿たれる。
「いやっ、まって、だめっ」
「……、味が濃くなったな……、喉が焼かれそうなくらい、甘くて、熱い」
「んんっ」
 性交の絶頂の余韻も引かないまま吸血の強烈な快楽を与えられ、視界が白く染まり明滅した。強すぎる快感から逃げるように身を捩っても背後の男は容赦などしてくれない。耳元で低くそう囁かれただけで身体が震えた。
 身体を支えていた両手が離され上体が床に倒れ込む。ぜえはあと激しく肩を揺らしながら息を整えた。絶頂の波が引いていき、少しだけ頭が冷静さを取り戻す。
 こんなにも呆気なく、アヤト以外の男に絶頂に押し上げられたのが悔しくて堪らなかった。自分がいかに浅ましくいやらしい身体をしているのか思い知らされた気がした。下唇を噛み締めてかつてない屈辱に耐える。自分に覆い被さる男が何か言っているのが聞こえたが、ユイの脳はその意味を聞き取ることが出来なかった。楽しげな声がどこか遠いものに感じた。
 肩を掴まれ再び律動が始まる。
「や、まっ……まだ……っ?」
「何を言ってるんだ。楽しんだのはお前だけじゃないか」
「……っ!」
「ん? もう否定する気力もないのか。まあ、そうか、事実だろうしな?」
「いや、言わないでっ」
 心を見透かしたように揶揄されると精神を追い詰められたような気分になって、そこに興奮を見出している自分に気付いて、胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合った感情に困惑して、ますます涙が溢れていく。
 揺さぶられながら意味もなく何かを否定するようにかぶりを振った。執拗に弱いところを責められ、何度も絶頂に押し上げられ、その度に吸血される。綿を引きのばしたように意識が曖昧になって、自分が何をしているのか、どうして此処に居るのか、赤い瞳に見つめられていることも全て思考の外側に追いやられていく。ただ与えられる快感だけに溺れていた。




「ルキ、お願いやめて」
 もう何も分からなくなった頃、随分久しぶりに澄んだ声が聞こえた。未だ続く律動に揺さぶられながら、床に落としていた視線を持ちあげてナマエを見ると、無表情でこちらを見ていた。いや、僅かに戸惑いと焦りが浮かんでいる気がする。今更どうして制止するんだろう。
「私が悪かったよ、ごめん、だから」
「悪いな」
 答えたのは後ろの男だ。最初の落ち着いた口調ではなく、少し乱れた息が混じっていた。
「お前は少々……、決断が、遅かったらしい」
 赤い瞳が信じられないものを見るように見開かれていく。桜色の薄い唇がやめて、と小さく何度も繰り返す。彼女は何を「やめて」と言っているのだろう。ぼんやりした頭で思考しようにも、絶頂に近づく感覚でそれどころではなくなった。もうナマエに見られているのも気にせずただ本能のまま嬌声をあげ、間もなく絶頂を迎えた。
 同時に、体内にある熱が弾けた。身体の最も奥に、この行為本来の役割を思い知らせるように。
「え、?」
 慌てて背後を振り返ると、未だ挿入したままのルキが意味ありげに微笑んだ。数度、出し切るように奥を突かれる。
「どうした?」
「え、え? 中……」
「ああ、出したな」
 その言葉に先ほどまでとは別の意味で頭が真っ白になる。呆然としているユイを放置し、ルキは自分の後始末を終えた。今度はユイの汚れた太腿も拭いてやった。ユイは破られ散乱した衣服をかき集めて胸に抱きしめながら、これで終わりということだろうか、と思案する。窺うようにルキを見上げると、何を言われるか分かったのか考えを肯定するように頷かれた。
「お前たちの勝ちだ。良かったな」
「本当に……!?」
「二度も言わせるな」
 喜びが湧きあがってくる。これでナマエちゃんと一緒に帰れるんだ……! 大きな瞳を輝かせて笑うユイを楽しげに見下ろしていたルキが、目線を合わせるように片膝をついてしゃがみ込み、彼女の肩を掴んで顔を近づけた。
「なあ、イブ」
「な、なに?」
「お前がすっかり忘れているようだから言っておいてやるが。お前、まだ妊娠したことがないんだろう? 孕んだことのない子宮を他の男に穢されたと知ったら、お前の夫はどんな反応をするんだろうな? あの嫉妬深い男が自分の女を汚されてそう簡単に赦すとは思えないんだが」
「……っ」
 彼の言う通り失念していた。ナマエのことばかり考えていてアヤトのことは意識の片隅にも残っていなかった。あるいは思い出さないようにしていたのかもしれない。けれど自身の内面のことなど今は関係ない。ルキの言葉から容易に未来が想像できてしまって、顔が青ざめていく。
「大変そうだな、同情する」
 心にもないことを言って、ルキは立ち上がりナマエの方に歩いて行った。ポケットから取り出した手錠で鍵を外し、手を掴んで引っ張った。立たされたナマエは珍しく露骨に顔を顰めてルキを睨み上げている。その赤い瞳が無言で何を訴えているのか、対峙している男には分かっているようだった。
「お前だって止めなかったじゃないか」
「……君が口を挟ませなかったからでしょ。何が『イブの決意を無碍にする気か』なの? 君はこうしたかっただけなんじゃないの」
「心外だな。俺はお前たちの気持ちを汲んでやっただけだ」
「白々しい……」
「はぁ。無駄話はやめないか? 流石に俺も疲れた。使い魔を呼んでやるから、適当に身支度をしてさっさと帰れ」
 言い捨ててルキは背を向け地下牢を出て行った。
 理解できないまま事態が進んでいてユイは呆気にとられてしまう。ルキの出て行った階段を睨みつけていたナマエが自分の方を見て、ようやく我に返った。ゆったりとこちらに歩いて来る彼女に、言い様のない感情が込み上げてくる。待ち切れず立ち上がって自分から彼女のもとに走り寄った。
「ユイ、私……ごめ」
「ナマエちゃん!」
 言葉を遮って華奢な身体に抱きつく。自分が二人分の体液で汚れ衣服も乱れていることなんてまったく気にならなかった。きっと制止をしなかった謝罪だろう。そんな謝罪どうでも良かった。
 腕の中の白い肌から仄かに甘い香りが漂ってくる。ずっと求めていた香り。たまらなく安心する。ただナマエと共に帰れることが、彼女が自分のものになったことが何よりも嬉しい。この幸福を得られたなら、自分の身体が旦那以外の男に穢されたことや、ナマエに見捨てられたことなんて些事に過ぎない。
「……ユイ」
「もう、どこにも行かないで……、ずっと一緒にいて」
 決して離さないように、逃がさないように、両腕に力を込めた。
 その後はふたり揃って終始無言だった。
 ユイの身体を清め、ナマエの部屋から服を調達して、無神邸を出た。振り返って憂うように遠ざかる屋敷を眺めるナマエに無性に苛立ちを覚えて、早く帰ろうと手を引いた。ただ真っ直ぐに逆巻邸への道を進んだ。




 屋敷に戻った二人をアヤトが出迎えた。行き先を濁して外出したユイのことが心配で、仕事も碌に進まず家に戻ってきてしまっていた。そこでふと気付く。ユイの隣に立つ女は誰だ。見覚えはある。どこで見たのだろう。僅かに眉を寄せつつもユイの元へ駆け寄って、しかし数メートル離れたところで一旦立ち止まった。
「……くっせえ臭いがしやがる」
「え?」
 呟いた言葉は聞こえなかったらしい。ユイは首を傾げ、片手で女の手首を掴んだままアヤトへ近寄ってきた。最初に感じた悪臭に混じって、更に嫌な臭いがした。嗅ぎ覚えのある臭いに脳が刺激され、そこでようやく見覚えのある女が誰なのかを思い出した。
 結婚披露宴の時、あの胸糞悪い無神ルキの隣にいた女だ。どうしてここにいるのか疑問だったが、それよりもまず確かめるべきことがある。
「よお、チチナシ。今までどこほっつき歩いてたんだ?」
「……」
 細められた翡翠の瞳に危険なものを感じ取ったのだろう。警戒したようにユイの足が止まる。アヤトはゆったりと歩いて残りの距離を詰めた。ユイはただその場で待っていた。
「妙な言い方で気になってたんだよ。行き先は言わねえし、どうもオレについてきて欲しくねえみたいだったからな」
「……アヤトくん、あのね」
「なあ、オマエの身体中からくっせえ臭いがしてんだよ。その首の噛み痕も見覚えがねえ。誰に吸血されてきたんだ? 言えよ」
 ドスを利かせて命令すると、戸惑うように視線を彷徨わせ、おずおずとその名を口にした。予想通りの男の名だった。
「それだけじゃねえんだろ?」
「な、なにが? 吸血したのはルキくんだけだよ」
「へえ、しらばっくれるつもりかよ」
 アヤトは無造作にユイの腹に手を当てた。服越しに撫で、そしてほとんどついていない肉をぎゅっと掴んだ。鼻先が触れそうなほど顔を近づける。
「……こっから精液の臭いがすんだよ。それも皮膚じゃねえ、オマエの身体の中から。どうやったらこうなるんだ、ああ?」
「……」
「ルキにヤられて来たんだろ」
 視線が床の方に逃げて行き、顔を背けられた。どう見ても無言の肯定だった。
「アヤトくん、お願い、話を聞いて」
「他の男に股開いたことにどんな理由があるってんだ? このアバズレが」
 罵られユイの顔が悲しげに歪んだ。それがアヤトの苛立ちを助長させる。自分の女から自分以外の男の臭いがすることが、その男の臭いが染み付いた女がユイの横に立っていることが、苛立って仕方がない。これ以上彼女を見ていたらうっかり殺してしまいそうで、視線を見慣れぬ女に移した。苛立つアヤトと複雑そうな顔をするユイを見ても表情一つ変えない、不気味な女だと思った。
「だいたいルキの女がなんでこんなトコに居んだよ」
「……。その認識はあとで訂正するけど、お願いアヤト、ユイを怒らないで。ちゃんと説明するから」
「はあ? 何気易くオレの名前呼んでんだよ」
「ナマエちゃんはアヤトくんのお姉さんだよ」
「チッ、意味わかんねーこと言ってんじゃねえ!」
 苛立ちに任せてナマエと呼ばれた女の腕を掴んだ。慌ててユイが止めるがアヤトはそれを振り払ってずんずん足を進めた。ルキの臭いが染み付いたこの女はぶち殺してやりたいくらい憎いが、衝動に任せてしまうと後々面倒なことになるのはここ数年間で経験から学んでいた。ユイに話を聞くにしても、まずこの女を牢屋に放り込んでからだ。




 この屋敷の地下牢にきたのは随分久しぶりだった。鉄格子の向こうで柱に取り付けられた蝋燭の光が淡く揺らめいている。
 アヤトはどこぞの変態と違って自分の女を犯されて黙っていられるほどいかれた性癖はしていない。ルキの言っていた通り怒り狂って何をしでかすか分からない。それを分かった上で彼女をあんな形で穢しアヤトのもとに送り返すなんて。どこまでも容赦のない男だと苦い気持ちになった。
 自分がアヤトにどうされようと構わない。今更死ぬのが怖いだなんて言うつもりもない。第一、あの時ルキを制止しようとした時に返された「イブの決意を無碍にする気か」なんて言葉に惑わされなければ、自分だけがあの場に残るようさっさと降参してしまえば、こんなことにはならなかったのだ。ユイに不必要なものを背負わせた責任は取らなければならない。ユイに非がないことをちゃんと説明しなければ。
 今頃ユイはアヤトとふたりで話をしているだろう。殺気を溢れさせた彼がユイに危害を加えることが心配でならないが、しかし先ほどの様子を見ると彼は自分の知らない間に幾分か思慮深くなったようだ。であれば少なくとも苛立ちに任せてユイを殺してしまうことはないはずだ。
 そこまで考えた時、施錠された扉以外出入り口のない鉄格子の内側に、ひとつ気配が生まれた。確認しなくても、そこにいるのが誰なのか分かる。
「どうして君が此処に居るの」
「さっき、俺のところにカールハインツ様がいらっしゃった」
 その声は荒く乱れていた。冷たい空気が満ちた地下牢に、はぁはぁと苦しげな呼吸音が響く。怪訝に思って振り返ると、壁に背を預けて俯くルキの姿があった。よく見ると黒い瞳の焦点が揺れている。
「随分苦しそうだね。どうかしたの」
「『あの状態のイブを見ればアヤトは彼女を殺しかねない。どうしてこんな真似をした? まあ良い、お前には私の計画に綻びを生んだ報いを受けて貰わねばならない』」
「父さんが言ったの」
「ああ」
 力なく肯定して、壁から背を離したルキはふらふらとこちらへ歩み寄ってきた。がくっと脱力して、凭れるようにナマエに寄りかかる。背中に両腕を添えて自分より大きく重たい身体を抱きとめると、首筋に荒く冷たい吐息がかかった。
「自分の命が軋んでいるのが分かる。少しずつ死へ向かう呪いみたいなものらしい。間もなく俺は死ぬはずだ」
「……そう」
 片腕が腰に添えられ抱き寄せられる。柔らかい髪が頬をくすぐった。
「今、堪らなく幸せなんだ。やっとこの冷たい身体から解放される。それもあの方の手で。……それが嬉しい」
「そうだね」
 永遠に等しい命を持つ吸血鬼にとって、相手を『殺す』というのは最大の愛情表現だ。そして愛する人に死を与えられるのも同じく、最も愛を感じられる行いである。カールハインツはルキに愛を伝えるためにその呪いとやらを施したわけではないし、ルキ自身それは知っているだろう。それでも敬愛するカールハインツに殺してもらえるというのは彼にとって何よりも幸福なことなのだ。
 十年近く一緒に暮らしていたこの偏屈な男が幸せそうなのを見ていると、ナマエも祝福したい気分になった。情かもしれない。
「このまま命を手放そうと思ったんだが……ひとつ、やり忘れたことを思い出したんだ」
「……なに?」
 こてんと首を傾げて耳元でそう問うと、くすくすと楽しげに笑う声が聞こえた。腰に回された腕に力がこもり、更に強く抱き寄せられる。
 次の瞬間、胸元に違和感を覚えた。見ればルキのもう片方の手がそこに添えられている。いや、正確には何かを握った手を胸に押し付けている。じっとそこを見下ろしていると、徐々に赤い何かが服を染め始めた。ナマエの赤い瞳がすうっと細くなる。
 もう一度深く押しこんだあと、ルキは握ったそれをずるりと引き抜き横合いに投げ捨てた。床に転がったそれを視線で追う。鈍く光る銀色のナイフだった。刃はもちろん、柄の部分までをナマエの血がべったりと汚している。認識した途端、傷口からじわじわと痺れが生まれ、指先まで広がっていく。同時に全身から力が抜けていって、ルキの身体に寄りかかってしまった。今度は両腕で抱きとめられる。
「ちょっと、突然すぎると思うんだけどな」
「約束を果たしにきただけだ。お前が頼んだんだぞ、『君は私より長生きしてね』とな」
「ああ……うん、そうだったね」
 膝から力が抜けて床に倒れ込みそうになり、ふたり揃って床に座り込んだ。片膝をついたルキの胸に頭を預け、深く息を吸い込む。肺が軋んだような痛みを覚えた。
 銀製のもので身体を傷つけられると、吸血鬼の治癒力を以ってしても傷を癒すことが出来ない。ルキが持っていたナイフは銀製だったのだろう。ナマエの心臓とも言える『核』は、ぽっかりと口を開けた切れ目から絶え間なく血を溢れさせている。少しずつ死に近づいているのが分かる。
 自分を抱きかかえる胸も、腕も、普段より冷たい。自分も同じだ。
「何だろうね、今、すごく安心してる」
 胸に頭をすりつけ、ぽつりと漏らすと、頭上で男が笑った。
 折角ユイと一緒に実家に帰って来れたというのに。ちゃんと事情を説明をしてアヤトのユイへの怒りを鎮めなくてはならないというのに。やるべきことも、やりたいこともまだ残っている。けれど、それを全て投げ出しても良いとさえ思えてしまう。あれほどユイを求めていたのに、実際に願望が叶ってしまうと、ルキと居る方が心が落ち着くような気がする。きっとユイと共に過ごした時間よりも彼と長く一緒に居すぎたからだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 片腕を伸ばしてルキの頬に添えた。やはりいつもより冷たい。顎を辿って首筋を撫で上げると、くすぐったいのか黒い瞳が細められた。瞼の上に唇を落とされる。
「すまなかった」
「……なにが?」
「いつかはこうなると思っていたんだが、思いの外カールハインツ様が早くいらっしゃったんだ」
「……」
「本当はもう少しイブとの生活をさせてやるつもりだった。だから、すまなかったな」
「……そんなことを気にしてるの? 君、変なところで優しいんだね」
 黒い瞳と視線を交わらせる。僅かに青みがかったその瞳に、かつて燃えていた憎悪や殺意といった感情は見えない。あれほどドロドロと原油のように黒い炎を灯していたその瞳は、今はひどく穏やかだ。
「別に、いいよ。約束だから」
 答えると唇が合わせられる。冷たいそれを触れさせるだけ。ただ感触を確かめるように数度食まれた。
「……さむい」
「そうだな、俺もだ」
 唇を触れさせたまま囁くと、腕に力が込められた。身体を寄せ合っても、体温を持たない吸血鬼同士では、ましてや『死』に向かう二人では、暖をとることなどできない。それでも、心が休まり、じわりと温かくなる気がする。心地よいとすら思うその感覚に身を任せ、頭を預けて、そっと目を閉じた。
「眠いから、寝る」
「ああ、……おやすみ」
「ん、おやすみ」
 目の奥に靄がかかったように、意識が薄く引き延ばされ、遠退いていく。そして間も無く、ぷつりと全てが途切れた。

 ナマエの命が消えたのを見届けた直後、ルキの意識も薄れていく。氷のように冷たくなった身体を強く抱き締めて、そのまま床に倒れこんだ。




 ナマエはアヤトの姉で、カールハインツがアダムの林檎計画の邪魔になるからと、彼女に関する記憶を世界から消し去った。だからアヤトは彼女を覚えていなかった。ユイは彼女と親しく、大切な友達をルキから取り戻すために無神邸に訪れ、ルキの提示した条件に従った結果、犯された。
 それがユイの語った話だった。
「んなくだらねえもん、逃げりゃ良かっただろ」
「……ナマエちゃんと、一緒に帰ってきたかったの」
 アヤトは苛立たしげに舌打ちした。ユイはずっとこの調子だった。彼女の言葉の端々から、ナマエというあの女を大事に想い、そのために自分の身体を投げ出してしまったという意思を感じる。
「本当にごめんなさい。謝っても許して貰えるとは、思ってないけど……」
「……一応訊いといてやるよ。お前は自分から誘ってルキにヤられたわけじゃねーんだな?」
「そ、そんなの当たり前だよ!」
 自ら進んでアヤトを裏切りルキを選んだ訳ではないことにひとまず安心する。しかし問題はナマエの存在だ。ユイは気付いているのだろうか。彼女の行動はアヤトを放り捨てナマエを選んだのと同義であると。
「……とりあえずルキは探し出してぜってぇ殺す。ナマエもだ」
「そっ、そんな!」
「うるせえ!」
 怒鳴り散らすと畏縮したように身体を縮こまらせて俯いた。
「中に出されたんだよな?」
「…………うん」
「本当は今すぐオマエも殺してやりてーとこだけど、我慢しといてやる。もしルキの野郎の子供でも出来たら……その汚ねえ子宮を抉ってやるよ。文句は、あるはずねーよな?」
「……は、い。でも」
「あ?」
「お願い、ナマエちゃんだけは殺さないで……!」
 アヤトが冷め切った目で睨み付けても、ユイは目を逸らさなかった。しかしアヤトだって譲るつもりはない。全ての元凶はあの女なのだ。
 今すぐにでも地下牢に行って、ユイの目の前で見せしめのためにナマエを殺してやろうか。そうすれば彼女だって思い知るだろう。自分が誰のものなのか。
 沸騰しかけた頭でそこまで考えた時、その地下牢の方に一つ、気配が生まれた。数年ぶりだが覚えている。無神ルキのものだ。
「はっ、馬鹿だろアイツ。わざわざ殺されに来やがった」
「え、あ、アヤトくん待って!」
 アヤトは立ち上がって地下牢に駆けて行った。




 地下牢では男と女が寄り添って床に倒れていた。女の胸の辺りは真っ赤に染まり、それが男の服も汚している。男の方に外傷はないようだった。近くにはべっとりと血が付着したナイフが転がっている。
 確認するまでもない。二人とも死んでいる。
 この怒りをぶつける前に勝手に死んでいることに苛立ちが爆発する。頭の中は完全に沸騰していた。死んだだけでは許せない。自分の女を訳の分からないことに巻き込み、自分だけのあの身体を好き勝手弄んでくれた怒りと憎悪は、その死体が細切れになるほど蹂躙しても晴れることはないように思えた。
 鉄格子の扉を蹴り開け、二人の死体を踏み潰してやろうと足を進めたところで、アヤトの脇を通ってユイが駆けて行った。何やってんだこの女、と眉を寄せるアヤトに目もくれず、ユイはナマエの死体に縋り付く。
「ナマエちゃん……っ、起きて! ね、嘘、だよね……お願い、起きて、やだ……やだよ……」
 彼女の身体を拘束するルキの腕を引き剥がそうとするものの、まるで誰にも渡さないとでも言いたげに、その腕はびくともしない。ユイは苛立たしげにルキの腕を叩き、ぼろぼろと涙を零していた。
「やめて……、ナマエちゃんを返してよ……!」
 その姿を後ろから見ていると、アヤトは自分の沸騰した頭が急速に冷えていくのを感じた。横たわる憎悪の対象二つと、その片方に縋り付く自分の妻が、どこか遠い、画面の向こう側の出来事のように思える。泣き喚くユイの姿は酷く滑稽だった。
 視線を下げれば、真っ赤に染まったナイフが落ちている。彼は何気無くそれを拾いあげた。恐らくナマエの胸を貫いたのはこのナイフだろう。刃の部分を指先で軽く撫で、それからユイの元へ歩み寄った。その肩にぽんと手を置くと、勢い良く振り向かれる。
「アヤトくんっ、どうしよう……ナマエちゃんが、ナマエちゃんが!」
「……」
 まだその女の心配してやがるのか。オマエの目の前に居んのが誰なのか、分かってんのか?
 この無様な言動を見ていれば嫌でも分かる。ユイが自分よりナマエのことで頭を占められていることを。そして彼女へ抱いていた感情が全て憎悪に塗り潰されていく。
「オレ以外の男に股開いた挙句、今度は女か。男も女も見境なしかよ。とんでもねー淫乱だな、オマエ」
 ぼそりと呟いた言葉もユイには聞こえていないらしい。しきりにナマエを助けて欲しいどうしようと混乱し喚き散らしている。
 アヤトは笑みを浮かべた。柔らかい、傲慢な彼にしては珍しく、慈悲に溢れたそれだった。
 そしてユイの背中から、ナマエの血で汚れたナイフを心臓めがけて突き刺した。






アヤトが偽物すぎて申し訳ない


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