※蛇足




 頭の中を誰かに掻き回されているような不快感で吐き気がこみ上げてくる。視界がぼやけて、風景がぐにゃぐにゃに捻じ曲がる。全身を襲う倦怠感が身体の自由を奪い、膝から力が抜けた。床に倒れ込みそうになるのを、背後から腹部を抱えて支えられた。横から顔を覗き込まれる。
「どうした?」
「ん……ちょっと、気分が悪くて」
 軽く礼を述べて支えを外して貰うものの、一歩も進まない内に身体はぐらつき、再びルキの腕に支えられることになった。
「無理するな、大人しく座っていろ」
 苦笑いと共にベッドに案内された。縁に腰掛けると正面に立ったルキが腰を屈めて目線を合わせてくる。
「少し顔色が悪いな。症状は?」
「吐き気と、眩暈、かな」
 答えると額に手を当てられる。冷んやりしたそれは私自身の体温とさほど変わらない。
「熱は……まあ、あるはずがないな。何か心当たりは?」
「多分、お腹空いてる」
 昔極力吸血をしないようにしていた頃、飢餓感が限界に達したときがちょうど今のような感じだった。ぽっかりと空洞が出来たお腹が早く吸血しろと全身に訴えているのだ。とはいえこれほど症状が重いのは初めてだった。
「ね、ご飯、食べさせて」
 今の私にとってご飯と言えば彼の血液しかない。人間の食事で空腹を紛らわせることが出来なくなっても私がこうして生きていられたのは、彼が頻繁に血液を提供してくれたからだ。その代わりに私の血も吸われているのだけれど。
 しかしルキは困ったように笑って、小さく首を横に振った。
「悪いな、昨日お前に散々吸われたせいで貧血気味なんだ」
「そう、だっけ」
 彼の顔から首筋に視線を移す。服から覗くその白い肌に、見覚えのある噛み跡がいくつもあった。赤黒いそれらを見た途端空腹が増した気がする。もう何年も吸血していなかったような酷い飢えを感じる。
「それにしては、すごくお腹が空いてるんだけどな」
「以前のお前の食事頻度が異常だっただけで、それが正しい反応だ」
「そっ、か」
「しかし俺は貧血だ。血は明日か明後日まで我慢してくれ」
「うん……」
 頭の中を金槌で殴られているような激しい痛みを覚える。空腹の吐き気はますます酷くなり、視界の端が白くなってきた。どうしてこんなにお腹が空いているんだろう。私と違って吸血を控えたりしていなかった弟たちは、一日吸血を我慢しただけでこんなに苦しい思いをしていたんだろうか。そんなはずはないと思うけれど、頭痛と眩暈が私の思考を奪っていく。
 瞼をぎゅっと閉ざして次々と襲いかかる不調に耐える。ふと両頬に手のひらが添えられた。
「俺の血はまだやれないが、せめて空腹を紛らわせることが出来るようにスープでも作ってやる」
「君が?」
「ああ。だから横になって大人しく待っていろ」
「……ん」
 こくりと頷いてベッドに寝転がった。ルキは布団を口もとまで被せ、私の頬を数度撫でると、部屋を出て行った。
 閉ざされた扉に視線を投げながらぼんやり考える。
 あの日以来彼は私に人間の食事を与えなくなった。そして代わりに彼の血を提供された。その理由を言葉にして説明されたことはなかったが、漠然と「二度と私に人間の食事を与える気はないんだろうな」と考えていた。だから当然「スープを作ってやる」と言われたのが不思議だった。けれどまあ、単に血を提供出来ない詫びでしかないだろう。気にするほどのことでもない。




 十分ほど経って、ルキがトレーにスープと水を載せて戻ってきた。湯気と共に豊かな香りが立ち上っている。
「美味しそうだね」
「当たり前だ、誰が作ったと思っている?」
 尊大に言って、指を使えない私の代わりにスプーンでそれを掬い上げ、こちらに差し出してきた。そうだね、と返事をしてから口を近付けてぱくりとくわえる。舌に香りと同じく美味しい味が広がる。こくん、と嚥下した。
 途端だった。
 腹の中が焼けるような熱さと痛みが迸る。異物を吐き出すようにげほげほと咳き込み、手のひらで口元を覆う。指の間から赤い液体が零れるのを見て、一瞬頭の中に空白が生まれた。
「……?」
 覆っていた手を外して見下ろすと、胃液でも唾液でも先ほど嚥下したスープでもなく、赤黒い血がべったりと手のひらを汚していた。
 隣にいるルキを見る。彼は心底楽しそうに笑っていた。まるで最初からこうなることが分かっていたような。突拍子もない、しかし確信に近い考えが湧き上がる。
「スープに、何か入れた?」
「いいや」
 けれど予想に反して否定が返ってくる。ティッシュで手のひらの血を拭われ、今度は水の入ったコップを渡された。そうだ、口の中が気持ち悪い。全て胃へ流し込んでしまおう。両手でそれを受け取り、こくこくと飲み下す。冷んやりしたそれは身体に染み渡るようだった。あっという間に半分になったコップを見下ろしていると、未だくすくす笑っているルキが続けて言った。
「スープには何も入れていない」

 スープ、には?

「じゃあ、何に、何を入れたの」
「ふ。簡単なことだ、この部屋を出なくなってからお前が口にしたものを思い出せばいい」
「……」
 鈍い音を立てそうな思考をぐるぐる回して、言われた通り思い出した。この部屋に閉じ込められてから人間の食事は摂らなくなった。口にしたものといえば。
 彼の血と。
 時折喉を潤すために渡された、紅茶や、水。
 そう、ちょうど今、私の手の中にあるような。
「ああ、そうだ、きっとお前の想像している通りだぞ」
 呆然と目を見開く私の手の中からコップを取り上げると、縁を持って半分残った水を電灯に翳し下から眺め始めた。まるで中に入った何かを観察するように。
「何を、入れたの」
「さあ、何だと思う?」
「……私に分かるわけないでしょ」
 悠然と微笑んで、彼は無造作にコップを床へ放り投げた。数度跳ね、不純物の混ざった水を絨毯の上に撒き散らす。それに目を奪われていると、隣から手が伸びてきて頬に添えられた。楽しげに細められた黒い瞳と視線が交わる。親指が下唇をゆっくりと撫でていく。
「大昔、吸血鬼の一派閥の長が自分の女に使ったと言われる薬だ。小難しい原理の説明は省くが、調合の際に混ぜ込んだ血の主以外の食べ物を腹に入れると、内臓が壊死する。人間の食事を食べられないのは勿論、他の生き物から血を吸うことも出来なくなる。加えて、吸血衝動を増幅させる。薬とは名ばかりの、まあ、呪術みたいなものだな」
「……じゃあ」
 彼の血を与えられるようになってから、妙に空腹の頻度が高くなったのも、先ほどかつてないほど酷い飢餓感と身体の不調を感じたのも、今こうして口にしたスープで血を吐いたのも、全部この男が薬を盛ったせいだというのか。それも、最初から、ずっと。
「こうすれば」
 薄暗い愉悦の色をその黒い瞳に滲ませながら、頬の手がするすると滑り、首に添えられた。親指が喉を押さえ、軽く力を込められる。
「こうすれば、お前はもう二度と俺のもとから逃げられないだろう?」
 指を使えなくさせただけでは、彼にとって何の枷とも思えなかったというのか。自分から離れれば食糧を失って餓え死ぬ、他の者から吸血したり空腹を紛らわせるために人間の食事を摂れば内臓が壊れて死んでしまう。そんな枷をつけなければ満足出来なかったのか。
 たった一度の私の逃亡が、彼をここまで壊してしまったというのか。
 もう二度と逃げるつもりなんてなかった。太陽に手を伸ばせば自分の身を焦がされてしまうのは嫌という程知っている。それにもうこの世界で彼の隣にしか居場所はない。だから逃げるつもりなんてなかった。
 だというのに、死という首輪を嵌められていたことを知り、改めてこの男が怖いと思った。
 今更だと思う。あの日指が使えなくなってから、いや、そもそもこの屋敷に連れて来られた時から、私はルキのことを恐れていた。なのに、彼は何度も恐怖を上塗りしていく。安寧を得ることなど許してはくれない。たとえ彼の手の内に居たとしても、彼は私を壊し、恐怖を抱いていないと気が済まないのかもしれない。
「……もう、逃げたりしないよ」
「行き場所がないから、か?」
「ん」
「なら、行き場所が見つかれば、お前は逃げるということだろう?」
「……そんなつもりはないんだけど」
「一度逃亡を企てておいたくせによく言う」
 楽しそうに笑っている。本当に、楽しそうに。
「まあどちらにせよ、お前の死に場所は俺の隣だ。どうせ逃げないのなら、こんなもの関係ないだろう? 多少腹は空くが」
「……うん」
「ほら、つまらない話は終わりにして、食事をさせてやる。こっちに来い」
「貧血じゃなかったの」
「あんなもの嘘に決まっている。そもそもお前が最後に吸血したのは、もう一週間も前のことだぞ。飢餓で記憶の混濁が起こるのは想定外だった。どこまで耐えられるか見てみたかったから、教えはしなかったが」
「…………」
 手を引かれて誘導され、膝立ちして彼の首筋を見下ろした。見慣れた赤黒い噛み跡、よくよく見れば治りかけだった。そんなことにも気付かないほど意識が朦朧としていたのかと思うと、吸血衝動を増幅させ食事相手を制限させるというその薬の恐ろしさを実感させられる。
 腰を掴まれる。誘われるままにキバを打ち込めば、待ち侘びた味が口に広がった。吸血鬼の、それも男の血をこんなに欲してしまうなんて。美味しいわけじゃない。けれど私の身体にはこれしか駄目なんだという諦めにも似た考えが浮かんできた。
 きっと彼はまだ満足していない。指の枷も、死の首輪も、彼にとって始まりに過ぎない。私が彼の隣で安心してしまわないよう、その安堵からまた逃亡を企てたりしないよう、何度でも恐怖を植え付け、枷を嵌めてくる。私はそれら全てに耐えなければならない。唯一のこの場所で、息をするためには。
「改めて思ったけど」
「ん?」
「君、とんでもない性悪男だね」



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