明けない夜 02 のあと(βは含まず)



 あの子は私の指を摘まんだり握ったりしながらまじまじと見つめ始めた。
「母上の指、どうして動かないんですか? 生まれつきですか?」
「前は動いてたんだけどね」
「お怪我とかなさったんですか……? それで、後遺症で動かなくなってしまった……?」
 痛ましそうな表情でこちらを見上げてくる。きっと私のことを心配してくれているんだろう、優しい子だと思う。「なんだったかな」と適当にはぐらかすと、不満そうな顔をして頬を膨らませた。
 少し離れたところで本を読んでいたルキの方に視線を投げれば、あの子もつられてそちらを見る。何度か交互に私とルキを見てから、首を傾げた。
「父上は母上の指のこと、何か知ってらっしゃるんですか?」
 声をかけられたルキが本から顔をあげないままちらりと横目でこちらを見た。
「さあ、知らないな」
 素っ気ない口調でそう返してまた読書に戻っていく。あの子は暫くルキの方を見ていたけれど、彼がそれ以上何も言わないと悟ると、残念そうに肩を落とした。それから私の指に視線を戻し、また摘まんだりしながら遊び始める。動かない指を見ていて何が楽しいんだろうか。けれど妙に熱心なものだから、好きにさせておいた。摘まんだり、握ったり、指を絡めている。
「母上の指、動くようになったらいいのに」
 やがてそんな小さな呟きが聞こえた。




「『知らない』ね。誰よりも君がよく知っているくせに」
 咎めるような口調を装って言えば、喉の奥で笑われた。彼の唇が指先に触れ、微かに音を立てながら吸い付かれる。
「俺は詳しく説明してやっても良かったんだがな。お前自身が『なんだったかな』とはぐらかしていたじゃないか。俺は便乗しただけだ。それに、あいつの教育に悪いだろう?」
「教育に悪いことをした自覚はあるんだね」
「まあ、多少はな」
 君の父親が指を全てへし折って、部屋に軟禁し、精神的な束縛をかけているせいだよ。そんな説明を息子にできるはずがない。親としての自覚に乏しい私ですらそう思うのだから、一応教育や躾に力を入れている彼だって同じ判断を下すだろう。
 唇が指の関節を順番に辿り、舌を這わせながら手の甲に至る。そこに何度も口付けしてから、また指先に戻って吸い付かれる。時折キバを押し当てられ、嬲るように擦られた。何度も何度も繰り返されてきた行為だ。これをされるたび、指はじいんと痺れる。そして動かない指がますます重くなって、動かなくなる。
「俺だって心配しているんだ。起床から就寝まで俺に世話をされ、ひとりではまともに生活を送れない母親を見て、あいつはどう思うのか、とかな」
「別に世話をしてくれって頼んだ覚えはないけど」
「ほう? なら明日からひとりで生活してみるか」
「……」
 確かに世話を頼んだわけではないけれど、指が動かなくなってからずっと彼に面倒を見られていた私は、リハビリなんてしたことがない。今更放り出されたところでひとりで生活出来るはずがないのだ。それが悔しくて、勝ち誇った笑みを浮かべる彼から視線を逸らした。
「そう拗ねるな、冗談だ」
 拗ねてない、と否定しようとしたところで、頬に手が添えられ、唇を合わせられる。何度も角度を変えながら触れ、下唇を舌が舐めていく。やがて舌が捻じ込まれ、口内をねっとりと犯していった。あまりにも長くて執拗なそれから逃れるように、彼の両肩を押してみたけれど、逆に手首を捕らえられてしまう。幸いにしてそこで口付けは終わり、今度は至近距離で見せつけるように指を舐められた。
「『母上の指、動くようになったらいいのに』か。いじらしいな」
 自分の息子の発言をからかうように復唱するなんて、彼は昔から変わらず性格が悪い。
「本当にね。優しい子だよ。誰に似たんだろうね」
「少なくともお前じゃないな」
「君でもないけど」
 そうだな、とあっさり肯定して、キバが人差し指の先に突き刺された。つぷり、と白く鋭いキバが肉を押し広げ、僅かに浮き出た血を、吐息を漏らしながら舐めとっていく。いつもの痺れの中に、気持ちいいという感覚を見つけ出した。鈍い感覚しか残っていないというのに、指から吸血されるのは身体の他のどの場所よりも快感だった。
「お前の指、いつになったら動くようになるんだろうな」
「それ、君が言うの?」
 今まさに毒を注ぎ込み、指を動けないようにしておきながら。
「だってそうだろう? 骨折は完治している。怪我の後遺症じゃない。指が動かないのはもっと別の、精神的な問題だ。あいつはお前の指が動いて欲しいらしいからな。指を動けなくしている当人に訊いてみただけだ」
 私からすれば、動けないのは全て彼のせいなんだけれど。それを口にする前に、彼は楽しそうに笑いながら続けた。
「とはいえ、俺はお前の指がこのまま動かなければ良いと思っているが。この動かない指が無様に震えるたびに気分が高揚する」
「酷い性癖だね」
「否定は出来ないな。だが自覚していないようだから言っておくが、俺にこうされている時、お前は嬉しそうな顔をしているんだぞ」
「私が……?」
「ああ」
 言いながら手の甲に口付けをする。唇を指先まで滑らせ、薄いそれで軽く食まれる。いつもより低い位置にある黒い瞳が観察するようにこちらを見上げる。そこに予想通りのものを見つけたのか、満足そうに唇の端を持ちあげた。
「嬉しそう、は少し違うかもしれないな。安心している、が的確だ」
「安心……」
 彼に弄ばれる指に視線を落とす。そこに唇が触れるたびに、指はおもりをつけられたように動かなくなり、鈍い痺れが生まれる。指先から生じた痺れは、そこから全身に広がっていく。キバを突き刺されると眩暈すら覚えた。
 安心。確かにそうなのかもしれない。こうやって唇で毒を注ぎ込まれ、心を閉じ込める檻を堅固なものにされるたびに、私は自分の居場所を再確認する。嫌なことも、希望も、全てから目を背けて、ただ彼だけを見つめていられる。指が動かなければ、私は何も掴まなくて良い、手を伸ばさなくてもいい。ただこの場所で、与えられるものだけを享受していればいい。私はきっとそれを幸福だと思っている。
 あの子の純粋に私の動かない指を心配する顔が脳裏を過ぎり、申し訳なさで少しだけ胸が痛んだ。あの子は何も知らない。父の凶行も、母がそれに甘んじていることも、両親の間にある汚れた事情など何一つ。
 けれど与えられる毒はそんな些細な罪悪感を簡単に塗り潰していく。指先から生まれ頭を支配する痺れが何も考えられなくしてしまう。心地いい、堪らなく。
 何度も何度も指に触れるだけの口付けを落とされ、そして見せつけるように舌が這った。
「……私も」
「ん?」
「私も、このまま指が動かなくて、良い」
 無意識に漏らした呟きに、ルキは満足そうに微笑んだ。




 指を動かせない母上を可哀想だと思った。
 原因が生まれつきのものであれ、怪我のせいであれ、身体の一部が使えないというのは不便だ。僕が五体満足で不自由なところがないから尚更そう思う。特に母上は昔は指が使えたというのだから、その分余計に今が不便だろう。
 どうして指が動かないのかと訊いた時、母上は「なんだったかな」と言い、父上は「知らないな」と言った。けれど僕はふたりが嘘をついていると思った。意味もなく嘘をついたり隠し事をする人たちではないから、きっと僕には教えられない理由だったんだろう。原因を知りたいけれど、知るのが怖いという気持ちもあった。
 いつも見ていて不思議だった。母上は指が使えないからひとりでは生活が出来ず、父上が介助している。けれど母上がひとりで出来そうなことでも、父上は全て世話を焼くのだ。母上の面倒を見ている時、父上はどこか楽しそうな顔をしている。うまく言えないけど、まるで母上の出来ることを奪って、少しずつひとりでは生きていけないように仕立て上げている気がして、ちょっと怖いと思った。
 母上の指が動けばいいのに。母上は本が好きなのに、あの指ではスムーズにページをめくれない。いつも父上が手助けするか、手のひらや指でめくりづらそうにめくっているのを見かける。それに指を掴んで絡めて見ても、握り返してくれることはない。僕は母上と手を握ってみたかった。
 書庫で医学書を探し、僕にはまだ難しいそれを苦心しながら読んでいたら、それを知った母上が困ったように笑って「私はこのままでいいから、もっと別の本を読んだ方がいいよ」と言った。どうして指が動かないままで良いなんて言うんだろう。残念だったけれど、理由を訊くことは出来なかった。
 ただ印象的だったのが、母上のその発言を聞いていた父上が、楽しそうに笑っていたことだ。



20150206


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