一ヶ月前、小森ユイという人間の女の子が屋敷にやってきた。色々あって居候することになったらしいけれど、話を聞いていなかったので詳しくは知らない。
良い匂いのする子だとは思っているが、吸血鬼として欠陥品の私は他の兄弟ほど血を啜ることに執着している訳ではないから、特に関わり合いを持つことなく生活していた。他の兄弟に食い物にされている所を見る限り吸血鬼に怯えているようだし、これ以上周りをうろちょろする吸血鬼が増えない方が彼女の精神衛生上も良いだろう。
そう思っていたんだけど。
「ナマエちゃん! もうすぐ学校だよ、起きて」
最近やたらと彼女が纏わりついてくるようになった。用事がなくても部屋にやってくるし、食事を一緒に摂ろうと誘ってくるし、学校に向かうリムジンの中でも毎回隣に座るし、毎朝起こしにくるし。
これまで遠巻きに怯えた目で私を見ていたというのにこの変わり身は何なんだろう。人間の考えることはよく分からない。
「……起きてる。起きてるからそんなに揺さぶらなくて良いよ」
「あ、ナマエちゃんおはよう!」
重たい瞼を上げれば満面の笑みを浮かべたユイの顔が視界いっぱいに広がっていた。相変わらず食欲をそそる良い匂いをさせている。他の兄弟だったら彼女をベッドに引きずり込んで心ゆくまで吸血するんだろうな。吸血鬼の部屋に入るというのはそういうことだと、この一ヶ月間で彼女も学んでいるはずなのに、こうして無防備に私の部屋にやって来るのは私が彼女と同性だからか。
私は滅多に人間の血液を啜らないけれど、餓死寸前になった時だけ少し頂くことにしている。その時の餌の性別は男女どちらでもよく、他の兄弟と違って異性だけという訳じゃないから、もし彼女が「ナマエちゃんの食事相手は人間の男だけ、だからわたしは吸血されない」と思っているならそれは間違いだし、同性だというのは何の安心材料にもならない。
とはいえそんなことを教えてやる義理もないし、実際餓死寸前になるのは当分先の話なので、彼女から吸血するつもりなどないのだから、彼女からしてみれば今安全ならそれで良いのかもしれないが。
……それにしても、ああ、起きたくない。まだ寝ていたい。けれどユイがそれを許してくれない。彼女の根気の良さはここ数日で嫌という程実感したので、おとなしく起き上がることにする。
眠い、頭がぼうっとする。
「ふふっ、ナマエちゃん眠そうだね。顔洗ったらすっきりするよ」
「……ん」
「制服準備しておいたから着替えてね」
ユイが綺麗に折り畳まれた制服を手渡してくるので受け取った。シャツにもしっかりアイロンがけしてある。何で彼女が私の制服を洗濯してアイロンがけまでするのかよく分からないが、訊いてみるのも面倒なので放っておくことにしている。
言われた通り着替えようと、パジャマの釦に手をかけて三つほど外した辺りで、ユイが口を半開きにして真っ赤な顔で私の手元を見ていることに気がついた。
「……顔赤いけど、熱でもあるの?」
「ナマエちゃんっ、まだわたしが居るから着替えちゃだめだよ!」
「は?」
「あっあ、そうじゃないわたしが出て行けばいいんだった! じゃあ下で待ってるからね!」
「……」
バタン! と、随分乱暴に扉を閉めてユイは出て行った。何だあれ、照れてるように見えたんだけど。女同士なのに何を恥ずかしがっているんだろう。彼女の奇怪な様子に首を捻りながらも、遅れたらユイだけでなく眼鏡にまで叱られるので、私は手早く着替えを済ませた。
まだ眠かったため制服を濡らさないよう顔も洗って、適当に身支度を整えて玄関に向かう。集まった面子をみると、いつも通りシュウとレイジが居ない。多分寝ているシュウをレイジが呼びに行ったんだ。
ユイが近寄ってきた。にこにことお日様みたいな眩しい笑顔を見せてくる。何だか幻覚で嬉しそうに振られる犬の尻尾でも見えそうだ。
「んだよチチナシ、犬みてーにナマエにまとわりつきやがって」
やはり半分は血がつながっているからか、それとも単にユイの態度があからさま過ぎるだけか、ともかくアヤトが私の内心を代弁してくれた。
「犬って……っ! アヤトくん酷いよ!」
「あ? 今のオマエ、飼い主に構って欲しいって擦り寄る犬そのものだぜ」
「ってことはナマエが主人ですか?」
「だな。ククッ、良いんじゃねえか? ナマエならオレたちみたいに吸血なんかしてこねえもんなぁ?」
「なるほど。それでユイさんはナマエのそばにいるんですね」
「ちがっ!」
ああ、なるほど。
アヤトとカナトの話に耳を傾けながら、自分の疑問が氷解していくのを感じた。私を血の気盛んな兄弟たちから逃げるための防波堤にしようということか。
一人納得して頷いていると、ユイが焦り顔で私を見上げてくる。
「違うよ! 信じてナマエちゃん、わたしそんなつもりで近づいたんじゃないからね!」
「別に気を遣ってくれなくても良いよ。気にしてないから」
「……っ」
ユイの顔が悲痛に歪む。酷く傷付いた様子で大きな瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。何でそんな顔をしているのか。私を利用していたことがばれて何か危害を加えられるとでも思って怯えているのか。
取り敢えずアヤトのニヤニヤした顔とカナトの観察するような視線が鬱陶しくて、早くリムジンに乗り込もうとその場を後にした。
ユイはやっぱり私の後をついてきた。
*
学校は好きでも無ければ嫌いでも無い。気が向けば授業に出るし、人間の真似事をしてノートをとるフリもするけれど、面倒だと思った時は屋上か図書室で時間を潰すことが多い。
授業中に図書室や屋上にくるような不真面目は皆無といって良いから、自分以外の呼吸が聞こえない空間にこもっていると、自分がこの建物にひとりきりなんじゃないかと錯覚して、とても落ち着く。
ひとりは好きだ。
身体を流れる血のせいで同族からも疎ましがられていた私は、父さんの城という名の広い監獄で、いつもひとりきりだった。誰かに会っても私のことを不気味がって遠巻きに見ているだけだから、ろくに他人と会話をしたこともない。あの悪意をもって探るような視線は酷く居心地が悪くて、自分以外は全て敵なんじゃないかと思えてしまって、私は同じ空間に他人がいることにさえ苦痛を覚えるようになった。元々誰も進んで近寄っては来ないので、自分の部屋に鍵をかけて閉じこもってしまえば誰にも会わずに済んだ。
他者の悪意に怯えるのは人間の特徴らしい。私の中には会ったこともない母親の人間としての遺伝子が確かに根付いていて、純血の吸血鬼である兄弟たちの価値観と私のそれにズレを見つけるたびに、自分は吸血鬼の中でも異質な存在なのだと自覚してしまって、またひとり部屋に篭りたくなる。
そうやって幼少期を過ごした。だから私はひとりが落ち着くし、好きだった。
何度目かのチャイムの後、図書室の扉が開かれる。そろそろ授業がすべて終わる頃かもしれない。嶺帝学院は膨大な書籍を広い図書館に有しているが、お金持ちや芸能人の皆さんはそんなものに興味はないらしく、図書館にやってくる人間はあまり居ない。
さあ珍妙な訪問者は誰だろうか、そう思って視線を扉へ向けると、そこには最近見慣れてしまったユイの姿があった。
彼女は図書館を見回し私の姿を見つけると、またあのお日様みたいな眩しい笑顔を浮かべてこちらへ近寄ってくる。
「ナマエちゃん、やっぱりここに居たんだ」
ということは私を探していたのだろうか。私の向かいの席に腰を下ろすユイは、何がそんなに楽しいのか、だらしなく頬を緩ませている。
「笑ってるけど、どうかしたの」
「え? ううん、どうもしないよ。ナマエちゃんを迎えに来ただけ」
「……そう。先帰ってて良いよ」
「何の本読んでるの?」
私の話は聞こえていなかったのか。帰って良いと言ったのに帰る気配を見せないので、仕方なく私は今読んでる本の背表紙を彼女に見せた。みるみるうちに眉間に皺が寄っていく。
「フランス語……。ナマエちゃん、フランス語読めるの?」
「ユイは読めないの?」
「よ、読めないよ! っていうか大半の高校生は英語くらいしか読めないと思うよ」
そんなものか。
吸血鬼は永遠とも言える命を持っているので、勉強する時間は山ほどある。それに私たちは世界各国様々な地域を転々と移動しながら(といっても数十年単位だけれど)生活を送っているから、その土地の同族と会話するために現地の言葉は嫌でも覚えなければいけない。
だから私だけでなく他の兄弟たちもいくつか言語を扱える筈だけれど、まあそれをユイに説明してやる理由もない。
不思議な顔で背表紙を見ている彼女の視界から本を取り上げて、私は読書を再開する。
私が黙々と読書をしているのに気を遣ってか、彼女は静かに座っていたけれど、やがて手持ち無沙汰そうにそわそわし出した。帰るか本を借りるかすれば良いのにと思いながらも、彼女の「話かけて欲しい」という無言の訴えを無視していたら、向こうから声をかけてきた。
「……ナマエちゃん、もしかして今日一日ここにいた?」
「うん」
「授業は出てないの?」
「うん」
沈黙。気まずそうなユイの顔が視界の端にうつる。もしかして、話しかけてしまった手前立ち去るに立ち去れないのだろうか。
「私に会話能力を求めない方が良い。暇ならアヤトの所でも行っておいで」
個人的には彼女に助け舟を出してやったつもりなんだが、ユイは一向に動く気配を見せないし、視界の端にうつる彼女の顔はやはり曇っている。一体何なんだと顔を上げて真正面からユイを見ると、今度はさっと視線を逸らした。
意図を探るためじっと見ていると、徐々にユイの白い頬が桃色に染まっていく。彼女の行動や反応は本当に不可解だ。
「……わたし、」
「……」
「わたし、ナマエちゃんのことをもっと知りたいの」
「……はあ?」
きゃー言っちゃったーみたいな照れた焦り顔をしたユイが、慌てて私の視線から逃れるように両手で顔を覆った。それでも赤い顔は隠しきれていないし、白い喉まわりまで赤くなっていた。
「せ、せっかく一緒に暮らしてる唯一の女の子なんだし、仲良くしたいなって、思って……っ」
「……女の子の友達が欲しいなら学校で作った方が良いよ」
「ただ友達になりたいだけじゃないの!」
「……?」
「その、なんて言うか、初めて見たときから不思議な雰囲気な人だなって……その、あの、惹かれて」
何に焦り照れているのかは知らないが、ますます赤くなっていくユイの顔を見ていてふと思ったことを口にしてみた。
「なんか告白されてる気分」
その途端、ガタンッ! と、他に利用者が居たら睨まれそうなほどの音を立てて椅子を倒しながらユイが立ち上がった。真っ赤な顔で口をぱくぱくさせて、何か言いたげな涙目で私を見下ろしている。
そういえば去年も学校で似たようなことがあった。私の父さん譲りの外見は中性的な印象を与えるらしく、ついでに客観的に見れば造形も整っている方らしいので、喋ったことのないそれどころか顔さえ知らない女子生徒から愛を綴った手紙を頂いたことがある。
その時の子が今のユイにそっくりな顔をしていたんだ。
「……まあ落ち着いて、座りなよ」
「ナマエちゃんが変なこと言うから……! そ、そんなのじゃなくてね、」
「ごめんごめん、からかった」
「……っ!」
ユイは居心地悪そうに私の視線から逃れながら、自分で倒した椅子を起こして再び腰をおろした。こほん、なんて態とらしく似合わない咳払いをして、無理矢理真面目な顔を作ってみせる。……顔が赤いからさっきのが嘘ってバレバレなんだけど、本人は誤魔化せているとでも思っているのだろうか。
何となく他の兄弟がユイで楽しそうに遊んでいる理由がわかった気がする。一々反応が大袈裟で見ていて面白い。せっかくなので、私も彼女で遊んでみることにする。
「それで、私の何が知りたいの?」
「……うう、お願い、ナマエちゃんまでわたしをからかわないで。……でも、うん、訊きたいことがあるの」
「なに?」
私を真っ直ぐに見るユイは、頬から赤みが引いていて、とても真剣な顔をしていた。何だか嫌な予感がする。そしてそれは的中した。
「ナマエちゃんの昔の話が聞きたいな」
「……世間話をしたそうな顔には見えないね。本当は何が聞きたいの」
「ナマエちゃんのお父さんの城で暮らしてた時のこと」
……さて、何処の誰がそんなくだらない昔話を彼女に教えたのやら。
別に話すのは構わない。けれど私の過去は他の六人ほど壮絶でもない、ありふれたものだから、彼女が聞いていて楽しいとは思えない。そして、そんな他人から見たらありふれた過去であっても、私にとっては口に出したくない程度には楽しくない話だ。
どうやってユイをかわそうかと思案するが、彼女の大きな目がずっとこちらを見ていて、追及をやめるつもりはなさそうな彼女の態度に根負けしてしまう。
「……特に何の感動もない話だけど?」
「それでも良い。わたしはナマエちゃんと仲良くなりたい、だからナマエちゃんのことがもっと知りたい」
「他の連中の防波堤にしたいなら仲良くならなくてもしてあげるよ」
「そうじゃなくて、わたしはナマエちゃんと、普通の女の子同士の友達になりたいの」
「吸血鬼と友達になりたいって、ユイも大概おかしな子だよね。……良いよ、話してあげる。つまんない話だって忠告は先にしたからね」
(20131212)