5

 全ては順調だった。
 何不自由ない生活、優しい父と美しい母。そして教育し甲斐のある可愛い妹。歪み一つ無い綺麗な歯車は、俺が年を重ねて大人になり、順調かつ成功に溢れた人生を終えるまで回り続ける。そう、思っていた。
 それは間違いだった。
 家計は火の車。それでも貴族の生活が染み付いた両親は生活レベルを落とすことが出来ず、優しいが頭の足りない父は更に事業で失敗を重ね、やがて破滅に至った。
 母上はいつの間に作ったのやら、愛人と駆け落ちし、父上は俺を残して一人あの世へ逃げた。使用人に恨み言を浴びせられ、仕返しとばかりに暴力を振るわれ、申し訳程度に残った金目の物は全て持っていかれた。
 残った物は何も無い。一日にして今までの幸せな生活はなくなってしまった。

「……お前は逃げないのか。もうここにいる理由はないぞ」

 使用人の最後の一人が屋敷を出て行く後ろ姿を眺めながら、背後にぼんやり突っ立っているナマエに声をかけた。
 口を動かすと鋭い痛みが走る。どうやら殴られた際に口の中を切ってしまったらしい。それを自覚した途端口の中に鉄の味が広がった。鼻からも血が垂れていて、不愉快な感覚を振り払うように鼻下を乱暴に服で拭った。
 返事が返ってこない。

「お前がこの家にいた理由は単に浮浪児になるのを避けるためだろう? 子供なんて大人の庇護が無ければ生きていけないからな」
「……、」
「だが残念ながら父上も母上も居なくなった。もうどこにいても同じだ」
「……ルキさま、私」
「何だ」

 そこで初めて彼女を見た。彼女はくしゃくしゃに顔を歪めて泣いていた。
 怪我はしていないらしい。使用人達は俺が彼女をどんな風に扱っていたか知っている。少なくとも貴族の『妹』に対するそれではなかった。だから使用人達は、彼女を没落貴族の一家の一人としてではなく、虐げられた使用人の一人として認識していたのだろう。怪我がないのがその証拠だ。
 そういえば彼女は使用人や執事と親しく会話をしていた。それも彼女が無事な原因の一つかもしれない。
 涙を拭うこともせず、何かに耐えるように唇を噛んで肩を震わせている。頬を伝った涙が顎からぽたりと床に落ちた。

「みっともない顔をするな、見苦しい」
「だって、ルキさまが……泣かないから、私が代わりに、泣いてるんです……」

 意味が分からない。
 思わず顔を顰めると、ナマエはこちらに走り寄ってきて俺の隣にしゃがみ込み、小さな両手で俺の左手を掴んだ。

「ルキさまが一番悲しいはずなのに……泣かないのはどうしてなんですか?」

 泣けるものなら泣いているさ。
 茫然自失。今の俺にぴったりな言葉だ。
 未だにこれが現実なのだと信じられない。寝て起きたらいつも通りの日常が繰り返されると思えて仕方が無い。きっとこれは悪夢なんだ。
 父上が事業に失敗して首を吊ったのも、いつの間にか作った愛人と母上が駆け落ちしたのも、……実は俺がそれほど二人から愛されていなかった事実も。全部悪夢なんだ。そう、思いたかった。
 けれど俺の手を握るナマエの両手が、それは現実なのだと突きつけてくる。俺を心配する素振りと言葉を見せる癖に、やっていることは真逆の結果に繋がっている。
 それが、使用人達が無言で腹の底に抱えていた黒い感情と似た物に思えて、俺は急に吐き気がこみ上げて来た。ナマエは何故此処にとどまっている? もしかして更に俺を陥れるつもりじゃないのか? そんな疑惑がどんどん膨らんでいく。
 腹の底から何かがせり上がってきて、吐き気を抑えるように口を手で覆い腹を抱え込むと、ナマエが心配そうに背中に触れてきた。
 ――偽善に満ちたその手で。

「……っ、触るな!」

 勢いよく振り払うと、驚いたナマエは泣くのも忘れたのかぽかんと間抜けな顔をしてみせた。

「おぇ、げほっ、う」
「ルキさま……っ、大丈夫ですか!」
「……触るな」
「でも、」
「触るなと言っている!」

 めげずに手を伸ばして来ようとするナマエを睨み付ければ、今度こそ介抱するのを諦めたようだった。

「……何だって言うんだ……っ!」


   6

 数日が過ぎた。
 屋敷は賊に荒らし尽くされ、もはや人の住める建物ではなくなった。庭先の父上の死体は烏の餌になったらしい。骨一つ残って居なかった。
 寝て覚めても荒らされた屋敷が元通りになっていることはなくて、良い加減俺もこれが現実なのだと認めざるを得なかった。
 あれからナマエはずっと俺の傍にいた。

「お前、どうして逃げなかったんだ?」

 行き場を失った俺は暇を持て余していた。何かをして居ないと悪夢のような現実に押し潰されそうになるのに、屋敷には何も残っていない。金目のものは勿論、書庫の本も根こそぎ持ち去られてしまっていた。
 だから俺は、未だに嫌悪感を引きずりながらもナマエにそう訊いてみた。
 数日経ってナマエは少し冷静になったらしく、毎晩泣いては瞳を赤くしているものの、日中は普段通りに振舞っているように見えた。

「……使用人の人たちに一緒に出て行こうって誘われたんです」
「お前はあいつらと親しくしていたようだからな」

 その言葉は自嘲気味な声色で口から漏れた。俺はあいつらと親しくなかったからこんな目に遭った訳だ。まあ、頼まれたってあんな下賤な奴らと仲良くしたいとは思わない。没落しようが俺はそこまでプライドを捨てた人間じゃない。
 そんな俺の考えに反して、ナマエはかぶりを振って否定の意を示した。

「いいえ、きっとあの人達は私のことを何処かに売り飛ばすつもりだったと思います」

 ナマエは性善説を地で行っている人間だと思っていたから、彼女からこんな言葉が漏れたのには正直吃驚した。

「女の子供なんて娼館にでも売り飛ばせば多少なりともお金が手に入りますからね。きっと彼らは金目の物として私を誘っただけです」
「……お前がそんな汚れた世界を知っているとは思わなかった」
「お父さんが死んだ時に大人たちがいっぱいやってきてそんな話をしていました。子供だと思って会話を隠そうともしてなかった」

 そういえば彼女も身寄りがなくて俺の家に引き取られた人間だ。一年前に彼女の父親が亡くなった時、きっと散々大人の悪意に晒されてきたのだろう。いわば俺と彼女は似たもの同士というやつだった。

「お金を奪って私を汚い世界に突き落とそうとする大人たちの話を聞いてる時、何があっても絶対生き抜いてやろうと思ったんです。お養父さまに引き取って貰った時は本当に……嬉しかった」
「ふん、そこで待っていたのは俺にこき使われる毎日だったと」
「いいえ、だってルキさまは優しかったから。最初は家事に慣れなくて大変だったけど、慣れたら楽しかったし、一緒に勉強出来たのはすごく嬉しかったです」

 優しいと思われるような行動をした覚えはないし、雑用をさせたのも勉強をさせたのもひとえに将来下僕として利用するためだ。彼女はその思惑に気付いていないのか。俺が、彼女を地獄に突き落とそうとした大人達と同じことを考えていたとは思わないのか。
 性善説を信じているのか性悪説を信じているのかよくわからない発言だった。

「ねえルキさま。この屋敷を出ましょう」
「出て、どこに行くんだ」
「どこでも。だって此処にはご飯も何も無いじゃないですか。ここで死んじゃうより、何をしてでも生き残るために街へ出た方が良いと思うんです」
「……そこまでする価値のある人生が残っているとは思えない」

 渋る俺に困ったような顔を見せたナマエは、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされた屋敷を探し回って二枚の写真を握りしめた後、俺の手を引いて無理矢理屋敷から連れ出した。
 徒歩で歩いたことのない街への道を引きずられながら、これではどちらが年上か分かったものじゃないとぼんやり考えていた。


   7

 しかし俺には生きる気力がなかった。
 街は俺が思っていた以上に浮浪児が多く、彼らが生きるために死に物狂いで食料や金を集めているのが嫌でも目に入った。
 以前俺が追い払った貴族が仕返しとばかりに置いて行った金貨。それを欲して冬空の下溝に飛び込んでみせた幼い少女を見た時、俺はこんな風になりたくはないと心の底から思った。こんな風になるのなら死んだ方がマシだと。
 だから、街の浮浪児達と同じような生活に溺れて行くナマエが疎ましくて仕方がなかった。
 彼女は俺とは対照的に、二度住む家を失っても心を折られることなく、貪欲に生にしがみつこうとしている。方法は知らないが、毎日何処からか金や食料を調達してきては、その殆どを俺に渡して再び何処かに消えて行く。
 一度あまりにも彼女の言動が腹立たしくなってこう訊いたことがある。

「何をして金や食料を得ているのかは知らないが、どうせ盗みでもしているんだろう。貴族として恥ずかしくないのか」

 問われた彼女は何故か一瞬顔を曇らせた後、それを払拭するように無理矢理明るい声を取り繕ってこう笑った。

「もう没落したじゃないですか。私はただの浮浪児ですよ」

 こいつは俺とは違う。
 何があっても、プライドを捨てても、生き残りたいという意思。俺にはそれが理解が出来なかった。だからもうこの話をするのはやめた。どうせ意見は平行線になるだけなのだから。
 俺は適当に街を歩き、適当な場所に腰を下ろし、ナマエに手渡された写真を眺める毎日を送っていた。
 屋敷を出る日に彼女が探し出した二枚の写真は、俺が幼い頃の家族写真と、ナマエが来てから一枚だけ撮影した写真だった。
 ナマエが写っている方は、彼女がいつも肌身離さず身につけていたらしい金色のロケットに入れているようだ。ロケットの型に合わせて写真を切っている最中、

「これが最後の金目の物ですね」

 と冗談を言うように笑っていた。笑えない冗談だった。
 写真の中の両親は優しくこちらを笑いかけていて、この笑顔も嘘のものだったのかと思うと言い様のない虚しい気持ちが胸に広がった。何度も捨てようとして、結局捨てられなかった。愛されていなくても、俺にとって両親は大切な人間だったから。

「ルキさま!」

 街の何処にいても、ナマエは毎日俺を見つけ出して、手に入れた食料を置いて、また去って行く。
 死んでも良い、むしろ死んでしまいたいと思っている俺は食事のような命を繋ぎとめる行動はしたくないのだが、健気に俺を生かそうとする彼女の行動を無駄に出来なくて、結局嫌々口にしてしまう。
 そして俺は意味のない生を貪り、空虚な思考を繰り返していた。


   8

 この二日間、ナマエの姿を一度も見ていない。俺が街の何処に居ようとも一日に一度は姿を現していたにも関わらずだ。
 ついに泥棒がばれて警察にでも捕まったか、或いは俺を生かす努力に虚しくなって独りで生きて行く決意を固めたのか。
 どちらにせよ、これで俺は死ぬことが出来る。それに心底安堵した。ナマエも俺のような足手まといが居なければ何とか独りで生きていけるだろう。
 ぼんやり空を眺めながらそう考えていたら、空腹のあまり腹が鳴った。
 空腹で腹は鳴るものなのだと初めて知った。そういえば、屋敷を出てから今日まで、腹が鳴るほどの空腹を感じたことはなかった。――ナマエのおかげで。
 街の浮浪児達はいつも腹を空かせているように見える。それなら、ナマエは一体俺にどれほどの食料を運んでいたというのか。


   9

 ぶらぶらと街を彷徨い歩いていた。
 ナマエが姿を見せなくなって一週間が経っていた。喉に渇きを覚えた時は水道の水を拝借したが、それ以外では何も口にして居ない。人間というのは一週間食事をしなくても何とか生きていけるらしい。俺は自分の肉体のしぶとさにうんざりしていた。
 食事を摂っていない体には歩くことすら重労働だ。それでも俺が街を彷徨い続けるのは、そのまま死んでしまっても良いと思う気持ちもあったが、何よりナマエの姿を探すためでもあった。
 別に食料を恵んで貰いたい訳ではない。ただ、あいつの安否が無性に気になったのだ。独りで生きている姿を確認出来たら俺も安心して死ねる。そんな気持ちだった。
 しかし中々見つからない。ナマエは何故俺を毎日見つけ出すことが出来たのか、不思議でならなかった。
 朝から探し続け、日が真上に登った頃だった。ふと俺の耳に内緒話をするような小さな話し声が飛び込んで来た。

「まだ十歳そこらの女の子らしいわ……」
「うちの子と同じくらいよ。可哀想に……」

 嫌な予感がした。
 声のした方を見れば、建物と建物の間にある薄暗く狭い路地裏を遠巻きに囲むように人集りが出来ている。壁のように立ちはだかる大人達の隙間から見えた路地裏の入口には、黄色いテープが張り巡らされていて、そこには黒い『KEEP OUT』の印字があった。
 嫌な予感が一気に膨らみ、それに突き動かされて俺は人混みを掻き分けた。一週間も食事をしていなかった身体の何処にこんな力が残っていたのか自分でも分からない。迷惑そうに舌打ちを浴びせられるのも構わず一番前に躍り出て、俺は見た。
 汚い路地裏に横たわる、傷だらけの、見覚えのある女の子の姿を。
 一瞬頭が真っ白になって、あそこに横たわるのが何か、そもそも人なのかどうかも分からなかった。
 だっておかしいと思わないか? ナマエは今も何処かで、不思議な方法でお金を稼ぎ食料を手にいれ、独りで生きている筈――

「あの子、浮浪児だろ? どうも売春やってたらしいぜ。最近この街に現れて身体を売り始めたって、何人も見た奴がいる」
「何人も見たって、警察は止めなかったの?」
「浮浪児だからだよ。あの娘を探している親なんて居ないだろうし、身体を売っていても何処からも文句は出ない。暗黙の了解って奴だよ」
「酷いわ……」

 聞こえてきた男女の会話で頭に血が昇った。弾かれたように路地裏へ駆け寄り、驚いた警官に引き留められるのも構わずにそこを見た。今度こそ現実を見てしまった。
 引き裂かれた服、そこから覗く未発達の胸はどこもかしこも赤黒く変色していて、何度も何度も殴られたことが分かる。服から伸びる手足にも大量の打撲痕があって、右手は変な方向に曲がっていた。そして路地裏から湿気と共にむわっと漂ってくる不快な、人間の雄の臭い。
 顔も何度も殴られたのか腫れ上がってしまっていて、もしかしてあれはナマエじゃないのかもしれない、という希望が首をもたげる。
 けれどそんな俺を嘲笑うかのように、ナマエが持ち歩いていた金色のロケットが、建物の隙間から射し込む光を受けてきらきらと光っていた。

「き、きみ、いきなりどうしたんだい。もしかしてあの子はきみの知り合いか?」

 俺の身体を羽交い締めにしている警官がそう問うてくるが、耳障りな雑音は音声として処理されずに俺の脳味噌を素通りした。
 代わりにもっと背後から、先ほどの男女の会話の続きが聞こえてきた。

「いくら浮浪児の女の子とはいえ……強姦殺人なんてね、酷い話だ」
「確かにこの街は治安が良いとは言えないけれど、まさかこんなことが起きるなんて」

 ナマエが死んでしまった。
 死にたいと望む俺は生きているのに、生きたいと望むナマエが死んだ。
 俺はまた置いていかれたのか。


   10

 それからどうやってあの場を離れたのか思い出せない。気が付けば俺は朝と同じように街を彷徨い歩いていた。変わったことと言えば、右手にナマエのロケットが握られていることくらいか。
 開いて中を見る。
 幸せな日々を閉じ込めた写真の中でナマエが屈託のない笑みをみせていた。純真無垢そのものといった彼女の表情は、まるであの無惨な死体は夢だと言っているようだった。
 ナマエは恐らく俺を生かすために身体を売っていたのだろう。何となく確信に近いものがあった。身体を売る度胸があるのだから、独りで生きていくだけならもっと他の方法で食料や金を調達出来た筈なのだ。
 それでも敢えてあの方法を選んだのは、俺が空腹を感じないくらいの食料を調達するのに必要な金が、そうでもしないと手に入らなかったからだ。
 一度俺はこう言ったことがある。

『何をして金や食料を得ているのかは知らないが、どうせ盗みでもしているんだろう。貴族として恥ずかしくないのか』

 あの時見せた彼女の曇った表情が脳裏に蘇る。
 泥棒で咎められるなら、売春をしているなどと言えば俺に軽蔑されてしまうのではないか。多分、彼女はそう思ったんだろう。
 彼女が何故そうまでして俺を生かしたかったのかは分からない。もはや確かめる術もない。だって彼女はこの世に居なくなってしまったから。
 無意識に動いていた足は、やがて街を流れる唯一の川を跨ぐ橋に俺を運んでいた。ぼんやりと広がる虚無感と罪悪感に突き動かされて、俺は金のロケットを振りかぶるが――結局それを川に投げ捨てることは出来なかった。
 将来下僕として扱うためだけに飼育していたナマエは、実は俺にとっては両親と同じくらい大切な存在だったのだ。

 気付いた時には全てが遅かった。

 生きたいと願うナマエの命を奪って、死にたいと願う俺の命は続いて行く。罪悪感に押し潰されようと、虚無感に発狂しようと、神様とやらは俺を死なせてくれない。



(20131204)


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