知らないなんて言わないで、お願い。墨を零したような瞳からぽろぽろと大粒の涙が降り注ぐ。窓の隙間から入り込んだ風にさらさらと彼女の蜂蜜色の髪が揺れ、光が差し込む度に反射して眩しい。あの時、確かに彼女は泣いていた。何かに祈るように縋るようにまた信じるように真っ直ぐと俺をその瞳に捉えながら涙を流していた。彼女の吸い込まれるような綺麗な瞳に映る俺は随分と濁った表情をしていて、まるで彼女に興味が無いといったようだった。だが、そんな狭い箱庭とは対になるかのように真っ白なこの病室の窓から見える風景は縁取られ、まるで青空が描かれた一枚の絵画の如く美しい。嵐が去った後のような静けさの中に彼女の上擦った泣き声だけが鼓膜に伝わる。ぽたりぽたりと俺の掌を滑り、何処か温かみある冷たさを残していた。

わがままなひと

 医者の話によると、俺は学校からの帰宅途中に交通事故に巻き込まれ、病院に搬送されたらしい。左足首の捻挫と擦り傷、打撲と幸いその程度の怪我で済んだらしいのだが、跳ねられた際に頭を強く地面に打ち付けてしまい、現在は脳の一部が記憶喪失になっているという。しかし、実を言えばその一時的に失ってしまっている記憶が何なのかを俺は知らなかった。氏名年齢から身長体重、通っている学校そして部活の部長であることなど全て覚えている。真新しい記憶といえば全国大会で惜しくも青学に敗れた事。別に異常は無かった。けれど、いつの日か部活の仲間達がお見舞いにと来てくれた時、見知らぬ女子生徒が一人紛れ込んでいた。その彼女は俺を瞳に映すと喜びを抑えきれないというかのように、真っ先に俺に抱き付いた。耳元で何度も俺を確かめるように名前を呼ぶ彼女に不快感を感じ、思わず突き飛ばした。彼女の体はまるで空気のようにふわっと病室の床に崩れていった。唖然と俺を見上げる彼女の表情は今にも泣き出してしまいそうだったが突然抱き付いた彼女が悪いと俺は冷たくあしらった。周りの仲間に赤の他人を入れるなよ、と呆れたように言えば皆何故か哀しみを含んだような表情をしていた。その沈黙の中で座り込んでいた彼女は無理矢理口端を吊り上げて痛々しく笑うと一言ごめんとだけ呟いて病室を後にした。後々、この場に彼女が連れられて来たということを考えれば流石に赤の他人は言い過ぎたかもしれない、と思い彼女に謝罪するつもりでいたが、結局それからというもの彼女が病室を訪れる事はなかった。

 零れ落ちる涙は未だ収まる事を知らない。ごめんなさい、俺は君が誰なのか分からないみたいだ。目を伏せてそう苦々しく笑う。途端に彼女の長い睫毛が大きく揺れたかと思うと細く白い腕が俺の首に巻き付いた。耳元で荒い呼吸をしながら、呂律の回らない声でお願いお願いと悲痛に叫ぶ彼女は何処か窶れているようだった。自然と彼女の背中に手を回すとより一層泣き声が大きくなった。俺を知っている君と俺の知らない君。以前、彼女とどういう関係だったのかなんてどうでもいい。それに彼女との関係を忘れてしまいたかったから記憶を失ったという訳ではないと彼女を見ていれば嫌でも分かるだろう。いっそのこと彼女からも俺に関する記憶が無くなってしまえばいいのにという考えが浮かんだが、そんな非現実的な事が出来る訳が無い。彼女に関する記憶を忘失させ、逃避しようとしている俺はなんて我が儘なんだろう。微かに懐かしい香りが病室の中を包み込むように漂っていた。
 やがて泣き止んだ彼女が病室を出て行こうとしてぴたりと立ち止まり振り返った。俺を見詰めながら何か小さく呟くと感情を押し殺したように儚く微笑んだ。彼女はきっともうここへはこないだろうと何となく理解出来た。今更彼女の後ろ姿を名残惜しそうに手を伸ばしていた俺は酷く滑稽だと思う。そんな俺はやはり我が儘なんだろうか。

あなたへ さようなら


20111027
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