「うええー……」

 目の前に与えられた難題に思わず非難の声を上げる。すると私の座る席の前に座ってこちら側を向いている彼の眼鏡がきらりと光ったような気がした。真面目にやりたまえといつにも増して厳しい口調で話す彼はまるで教師のようだと思った。いや、教師よりも恐かった。私のところの担任ならばできませえーんとでも笑いながら言えば許してくれるだろうが彼の場合笑わせてもくれないだろう。はいはいと適当に二回程頷く。紳士などと呼ばれているが、この彼は間違いなく紳士ではないと断言できる。紳士の風上にも置けない只の眼鏡野郎だ。鬼畜だ鬼畜である。そんな悪態をついていると彼をまるで私の心の中を読み取ったように失礼ですねと眉間に皺を寄せた。

「だってさ、私が因数分解なんてもの出来るとでも思ってるの」
「思っています。第一出来なかろうが死にそうだろうが何だろうがその課題を終わらせて下さらないと私が困ります」

 結局自分かよっ! と席から立ち上がり彼を指差す。しかし彼はぴくりとも動揺していなかった。只々眼鏡の奥から冷たい視線を私へ送りながら口をきゅっと結んでいる。私は紳士の機嫌を損ねてしまったようだ。私達の周りの気温が氷点下へ達した。差していた指を下ろしそそくさと席に着く。しかし眼下には良く分からない記号の羅列がある。分からない分からないよ。どうしようか紳士さん。助けてくれよ紳士さん。さっきは悪かったって紳士さん。プリントから目を離して彼へ目で訴える。依然彼の周りは吹雪が吹き荒れている。

「あのお、柳生サン」
「何でしょう」
「いっ因数分解教えてクダサイ」
「………………はい? 聞こえませんでした。もう一度お願いします」
「因数分解教えろ」
「は?」
「因数分解教えて下さい。お願いします柳生さま」

 宜しいとにこりと微笑した彼にほっと溜め息を吐く。やはりこれは紳士じゃない。これが紳士ならこんな私でも淑女になれる筈だ。この腹黒めと心の中で呟くと同時に、では始めましょうかと眼鏡のブリッジを直す彼。私はシャープペンを手に取り、プリントと向き合ってかりかりと英語よりも理解不能な言葉を解読し始めた。焦りで手を動かしている為め、答えが合っているかは分からない。けれど手を止めれば当然彼の冷えた視線に貫かれるだろう。頑張るんだ私。少しの辛抱だ。紳士に恐怖感を抱き始めた今日この頃の私である。


20110909/愛怠い