あの、と背後から声を掛けられ、反射的に振り返ってしまった私はいつになっても学習能力の無い奴だと一生後ろ指指される事だろう。こんな事なら、とんとんと肩を叩かれ、振り返ると肩の辺りでスタンバっていた人差し指に頬をぷすっとされる親しみのある悪戯と共に小学校男子児童よろしくの「やーいやーい引っ掛かってやんのー。馬っ鹿みてえー」と嘲られた方が増しであるし、こらー待ちなさーいからの、追い掛けて来やがった逃げるぞ、待ーてーとうふふあははなお花畑展開へとゴールイン出来る訳であるのだ。いや、正直何事も無かった方が嬉しいのだけど、せめてなら。
 しかし、やはり現実は私に対して甘くなかった。顔の筋肉を緩ませていたせいかうへ、なんて情けない声を漏らしながら振り返ると、いつぞやのいじめっ子兼日吉くんとやらが無表情で私を見下ろしていた。余りにも唐突過ぎた遭遇に、ひっと短い悲鳴を上げるも喉に何かが押し詰められているようにこれ以上声を出す事が出来ない。日吉くんの透き通った鋭い目とほんのり涙が浮かぶ私の目がばちりと合うが、日吉くんは一向に口を開こうしない。落ち着け、今こそ冷静に考えるんだ私。日吉くんが私に何を伝えに来たのかを考えるんだ。間違えたら、間違いなく殺される。けど、あの目は今度こそこてんぱんに苛め倒してやんよ、と言っているようにしか見えない。寧ろ、その前に視線というレーザー光線にこの世から抹消されてしまう。いやいや、こういう時はポジティブに考えるんだ。冷たい瞳の奥には優しさが隠れていると言うじゃないか。この間はすみません、次は無いと思えじゃなかった。先輩を怯えさせてしまって本当に申し訳なかったと思っています、と伝えに来たのかもしれないぞ。そうだ、そうに違いない。

「――先輩?」
「っは、はい」
「この間は――」

 何を言われるのかと、ぎゅっと手に力を込めて俯く。ばくばくと脈打つ心臓のせいか、息が苦しい。早く早く――。

「おい、日吉。休憩にしてはやけに長えと思ったら油売ってんのか? 部活中に俺様の目の届く範囲で堂々とサボるとは良い度胸じゃねえの、って名字!」

 耳に飛び込んだのは日吉くんの声ではなかったが、私には聞き覚えのある声だった。はっとして顔を上げると、日吉くんの肩に手を置きながら、顔を覗かせる去年同じクラスで仲良くなった彼の姿があった。行事では必ずしも見掛けたものの、端から端のクラスに飛ばされてしまったせいか、余り顔を合わせる機会がなく、相手の方は忘れてしまったかとてっきり思っていたので純粋に驚いた。

「え、あ、跡部くん、だ」
「相変わらず、ちっちぇな。学年上がってから、お前身長伸びてねえだろ」
「うーるーさーい!」
「向きになるとは、ガキだな」
「向きになってない!」
「はっどうだか」
「なってないってば!」

「跡部さん、俺先に戻ってます」

 他愛もない会話で盛り上がっていると日吉くんの一声で張り詰めた雰囲気へと一変した。あれ、と呟くと日吉くんの何処か苦しげな瞳と目があった。だが、直ぐに彼は背を向けて歩き出す。どうして良いかも分からず、彼へと手を伸ばすがそれは空を切った。先程まであんなに怖がっていたというのにそのような行動に出た私自身に驚いた。この感情は何だろう。落胆、失望、一体何に対して。

「追い掛けたいなら追い掛けな」
「でも、私にそんな資格ないよ」
「今はそんな事言ってる場合じゃねえだろうが。だから、チビなんだよ」
「それは関係無いでしょう!」
「――早く行けよ」
「――うん。跡部くんに後押しされるなんてちょっと複雑だけどありがとう。この恩はいつか! 行ってきますっ!」

 何故かは分からない。けれど、彼を追い掛けなければいけない気がした。乱れる呼吸で辺りを見回しながら、テニスコートの方へと駆け寄り、部員に尋ねるも休憩に出たきり、戻って来ていないとの事。擦れ違ってしまったのかと思い当たる場所を捜す内、噴水の前にて日吉くんの後ろ姿を見つけた。力が抜けるように立ち止まり、叫ぶように声を上げた。

「日吉くんっ!」
「え、――先輩、どうして」
「日吉くんが、気になって」
「それはどういう――」

「私の弟みたいなんだもん!」

 二歳年下で私より遥かに頭脳明晰の癖に感情表現が不器用で、だけど寂しがり屋な弟。日吉くんは私の弟にそっくりなのだ。頼るにも頼れない、意地っ張りで自分の中に溜め込みがち、そうだ先程の感情はそう、私は日吉くんに頼って欲しかったのか。そして、日吉くんは誰かに頼りたかったのだ。何で今まで気付いてあげれなかったのだろうと自分を叱咤する。さあ、お姉さんの胸に飛び込んでおいで、というように両腕を広げ、頼って良いんだよ、と言おうとしたのだが、私の言葉を遮ってずっと下を見たまま黙っていた日吉くんが口を開いた。

「――先輩は救いようの無い馬鹿だという事は前々から薄々気付いてはいましたが、まさかここまでとは。一層の事、馬鹿と改名すればお似合いで良いと思いますよ。先輩は馬鹿だから知らないと思いますけど、馬鹿って頭の働きが鈍く、道理や常識から外れている人の事を差すんですよ。正にその通りですよね。馬鹿な姉なんて、俺に馬鹿が移るでしょう。軽弾みな発言は控えて下さい」
「すす、すみません、でした」

 見事に当たって砕けてしまった。
 そこまでなら良かったのだが、拒否を受け取った途端に、再び先程の恐怖が蘇ってくる。青筋を立てて口端を引きつかせながら、じとっとした目でこちらを窺う日吉くんにひぎやあああと思わず後退った。そして、ついにパニックを起こした私は不思議そうに私を眺める日吉くんを後に、逃げるようにその場から全力疾走で去ってしまった。怒鳴るような呼び掛けが背後から聞こえてきたので、相当お怒りの事であろう。あーもう、跡部くんが後押しするからだ、と八つ当たりしながら、私も命は惜しいので当分は日吉くんを避けようと心に決めた。


20120329/愛とか怠い