「隣に越してきた、アレルヤ・ハプティズムです。よろしくお願いします…えーと……デカルト・シャーマン、さん?」

これ、よかったら食べてください。そう言って蕎麦を差し出す彼の人先指には、絆創膏が一つ、巻かれていた。

お世辞にも綺麗とは言えないこのアパートに、人が越してくるのは何年ぶりだろうか。家賃が安いうえに駅にも比較的近く、買い物にも不自由しないこのアパートが、デカルトは嫌いではなかった。
外見ほど内装は古くなく、ちゃんとした風呂とトイレも、簡単だが台所も付いている。床が所々軋みはするものの、十分に住める範囲内だ。

「あの……お蕎麦、お嫌いでした…か…?」

ドアノブを掴んだままの状態でいるデカルトを、銀の瞳が不安げに見つめていた。別に蕎麦が嫌いな訳ではない。

「いや、そんなことは…」

良かった。そう笑って瞳を細めるアレルヤに、デカルトは無表情のまま、それを受け取った。



秋から冬への季節が変わるこの時期。日の出は日々遅くなり、同時に寒さも増していく。おまけに昨夜から降り続く雨のせいで、今朝は今までで一番寒い目覚めとなった。
アレルヤ・ハプティズムが越してきてから、一週間が経つ。彼が越してきてデカルトの生活が著しく変わる、ということはなかった。

「おはようございます、シャーマンさん」
「…おはよう」

ただ、毎朝アレルヤに挨拶するということが、彼の日課になりつつあるだけだ。出勤やら、ゴミ出しやら、新聞回収やら、なんだかんだでアレルヤとデカルトは、この一週間毎朝顔を合わせている。ニッコリと人の良さそうな笑みを向けるアレルヤに、デカルトが無表情で返事をする。それが二人のやり取りで、挨拶ついでに世間話をするわけでもなく、それ以外に話したりするようなことはなかった。
以前はデカルトにとって、他人と話すことなど面倒以外の何者でもなかったのだが、アレルヤとの挨拶は嫌いではない。
仕事関係の人間や、自分が知っている人間とは違う、煩わしさを全く感じさせない存在。それがデカルトの中の、アレルヤハプティズムという人間の位置づけだった。

「あら、シャーマンさん。おはようございます〜」
「……どうも」

後ろから声をかけてきたのは、このアパートの大家だった。中年というより、初老に近く見えるこの女性を見るのは久しぶりだ。
彼女はこのアパートだけでなく、他にもう2つ3つのアパートの管理をしているらしいが、自宅はデカルトが住むアパートの近くに所有しており、月一回ほどしか会うことはない。

「最近はこんなお天気で、洗濯物の乾きが悪くて困るわ〜。それに、もう一つのアパートで雨漏りしてるからって、大変なのよ〜。おかげで今夜はそっちに行かないと……」
「はあ…」

彼女は、決して悪い人間ではないのだが、少々話が長いことが厄介だ。必要以上に話をするのは、時間の無駄だ。

彼女の話を右から左に流し、区切りの良いところで"それでは、仕事があるから"と駅へ向かった。傘からはみ出た左肩が、じんわりとグレーに染まっていく。眉を潜めて一瞥するが、あえて拭こうとは思わなかった。どうせ、電車内で濡れてしまうのだから。

確か、今日はいくつかの会議があったはずだ。会議があろうがなかろうが、デカルトにとって、それは退屈な日常生活の一部でしかないのだが。




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