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郷里から桃が届いた。執務室の文机に置かれている桐箱から、封を開けていないにもかかわらず、懐かしい、桃の芳醇な香りがかすかに漂っている。審神者に就任して1年。里心がついてはいけないと、手紙のひとつを送ることも憚っていた両親から、初めて届いたそれは、わたしのこころに束の間の安らぎをもたらした。


桐箱の封を開けると、真っ白な一筆箋にわたしの身体を気遣う短い言葉が、母の字で書かれていた。1年前、審神者となり故郷を後にするわたしを、涙を流しながら見送る母の姿が思い出された。母の柔らかな文字をそっとなぞると、一筆箋から墨の残り香と、桃の移り香がかすかに香った。


桐箱の蓋を開けると、中には形の綺麗に整った白桃が整然と並べられていた。蓋を開ける前から漂っていた香りは、いよいよ濃く瑞々しく、執務室の中を満たした。そっと人差し指で桃を撫でると、赤子の産毛のようなやわらかな肌触りだった。


ちょうど食べごろのこの贈り物は、今夜の夕餉の後に刀剣男士たちに振舞うことにしよう。甘いものがすきな粟田口の短刀たちも、きっと喜ぶだろう。歴史を守るためにと身を削りながら戦う彼らに、ほんのひとときでも安らぎを感じてもらえれば、母も本望だろう。


桐箱の中の桃はほとんど同じ大きさと色合いだが、その中でも少しだけ小ぶりなものを取り出して、そっと鼻を寄せて息を吸い込んだ。胸いっぱいに広がる、あまい香り。懐かしく、いとおしい、わたしのふるさとの香りだ。







半刻ほど桃を冷やすその間に残っていた事務処理を片付けてしまって、いわゆる“自分へのご褒美”として桃をいただくことにした。遠征や内番、鍛錬に勤しんでいる彼らには悪いが、わたしとて人の子だ。たまには自分に甘くたって、咎められることはないだろう。


ひんやりと冷えた桃の香りをもう一度深く吸い込んで、少し名残惜しく思いながらも桃に包丁を入れようとした瞬間、執務室の襖の向こうから、わたしを呼ぶ声がした。この声は、近侍の加州清光だ。


「主、入ってもいい?」
「……良いですよ。どうぞ」


机に桃と包丁を置いてから入室を許可すると、そろそろと襖が開かれて隙間からこちらを伺うように清光が顔を覗かせた。いつもならわたしが入室を許可すると待ちきれないとばかりに勢いよく襖を開けて部屋に入ってくるというのに、今日はどうしたことかしおらしい態度でこちらを伺って、部屋に入ってくる気配がない。


「……?清光、入らないのですか?」
「……主、怒ってる?」
「どうしてそう思うの?」
「だって、返事の仕方がいつもと違ったから……」


清光はしゅんと目を伏せながら小さな声で「俺のこと、嫌いになった?」とつぶやいた。どうやらわたしは桃のおあずけを食らったことで、無意識のうちに言葉の端に苛立ちをにじませてしまっていたようだ。


「清光、中へお入りなさい」
「でも……」
「怒っていませんから、お入り」


いつもの何倍も優しい口調で入室を促すと、それでも清光はおずおずと部屋へ入ってきてわたしの正面に腰を下ろした。不安そうにこちらを見つめる清光に微笑むと、ようやくわたしが怒っていないと確信したようで、清光はほっと肩の力を抜いた。わたしの何倍も生きている神様だというのに、こんなときの清光はわたしよりもずっと幼い子どものように思えて、つい甘やかしてしまいたくなってしまうのだ。


「主、なにをしていたの?」
「桃を食べようとしていたのですよ」


机に置いていた桃を手にとって清光の前に差し出すと、清光は「あっ」という顔をしてわたしと桃を交互に見たあと、「よかったぁ」と言いながら大きなため息を吐き出した。わたしが話の意図を掴めないでいると、清光は少し恥ずかしそうに頬を染めて、じっとわたしの顔を見つめた。


「部屋に入ったとき、いつもと違うにおいがしたんだけど、これの匂いだったんだね」
「ええ、いい匂いでしょう」
「うん。……あーよかった!俺以外の奴がこの部屋にいたのかと思ってどうしようって思ったけど、違ってよかった!」


屈託なく笑う清光につられてわたしも笑いそうになったけれど、要するに清光は自分以外の者がわたしとふたりきりで過ごしていたのではないかと危惧していたようだ。近侍以外の者が不必要にわたしの執務室を訪れることがないことなど、清光はもちろん知っている。それでもいつもと違うわたしの態度と部屋のにおいで、あらぬ誤解をしたようだ。


まるで人間のように一喜一憂するその様を見ていると、彼が神様だということをしばしば忘れてしまいがちだが、彼も立派な神様なのだ。形の上ではわたしを「主」として従っているが、本来ならば人間のわたしが簡単にどうにかできる存在ではないのだ。それでも、目の前にいる清光をいとおしく思う。


「今からちょうど食べようと思っていたところだったんです。あなたも一緒にいかがですか?」
「えっ!いいの?」
「ええ、もちろん」


皮を剥いて食べやすい大きさに桃を切り分ける様子を、子どものように目を輝かせながら清光が見つめるものだから、変に緊張してしまって少し果肉がつぶれてしまった。それでも切り分けた桃は瑞々しく、いっそう甘く芳しい香りを漂わせている。


「はい、切れましたよ。どうぞ召し上がれ」
「うん!……あっ、ねえ、主?」
「どうしました?」
「これ、食べさせてよ。楊枝とかないし、手が汚れちゃうから、ね、いいでしょ?」


言われてみれば、わたしは楊枝のひとつも用意していなかった。自分ひとりで食べるから、行儀は悪いけれど皮を剥いてかじりつこうと思っていたから、楊枝を用意していなかったのだ。にこにこと期待の眼差しでこちらを見つめる清光の顔を見て、いまさら楊枝を取りに行くのも憚られる気がして、仕方ないと腹を決めて桃の果肉を手に取った。


「はい、口を開けて」
「ん……」


清光の口元に桃を差し出すと、こういうときだけ積極的な清光はわたしの言うとおりに口を開いた。その赤い瞳でわたしをじっと見つめながら桃を咀嚼してゆく姿は、餌を啄ばむ雛鳥にも、獲物を狙う獣にも見えた。普段から艶やかな唇は、桃の果汁でよりいっそう艶を得て、いっそ恐ろしく思えた。


「おいしいですか?」
「うん。ねぇ、もうひとつ、ちょうだい?」


濡れた唇と、揺れる赤い瞳。頬はほんのりと桃色に染まっている。なにも悪いことはひとつもしていないはずなのに、清光の顔をみていると、どこか背徳的な気持ちになった。わたしも彼も、どうやら桃の甘い香りに当てられてしまったようだ。そう自分に言い聞かせて、もう一切れ桃を手に取り彼の口元に運ぶと、その手を清光は両手で掴んで桃を口に含んだ。


清光の大きな手に包まれて、普段ならばなんてことのないことなのに、どうしてか今は手が震えてしまう。清光だって気づいているはずなのに、何も言わずに桃を咀嚼し、そして桃を掴んでいたわたしの指まで食んだ。


「っ……清光、」


もう桃なんて残っていないのに、清光はわたしの指先を何度も甘噛みし、舌先でゆるゆると指の腹を舐めた。止めさせようにも、戦闘の際と同じ目で見つめるものだから、情けない声で清光の名を呼ぶことしかできない。散々好きなようにわたしの指を食んで、最後にちゅっと音を立てて指先を吸い上げて、ようやく清光は唇を離した。


「っ、はぁ……」
「清光、調子に乗りすぎですよ」
「ねえ、主?主の指も、桃の味がしたよ」


わたしの言葉などどこ吹く風といった様子で、清光はわたしの手に頬を摺り寄せながら甘えた声で囁いた。わざとなのか無意識なのか分からないが、こんなことを平然とやってのける清光は、やはり人間とは違う存在なのだと思った。そう思わなければ、先ほどから早鐘を打ち続ける心臓がもちそうになかった。


「もう、いい加減にしないと、」
「いい加減にしないと、どうするの?俺のこと、捨てる?」
「そんな話はしていないでしょう。……まったく、あなたという人は」
「ねえ、主も食べるでしょ?今度は俺が食べさせてあげる」
「いいえ、結構です」
「だーめ!」


悪戯っぽく笑った清光を見て、逃げる間もなく頬に手を添えられて、口元に桃を差し出された。にこにこと見つめられては、拒否することもできなくて、差し出された桃を口に含んだ。たちまち口いっぱいに桃の甘さと香りが広がって、思わず顔がほころんだ。


「ん、おいしい」
「主、俺の指も舐めてよ。桃の汁が着いちゃった」
「それは自業自得でしょう」
「ちぇっ。つまんないの」


清光は果汁が着いた指先をぺろりと舐めて、「甘い」とつぶやいた。手が汚れるからとわたしに食べさせておいて、結局自分もわたしに同じことをするのだから、わたしは清光の策略にまんまとはまったというわけだ。


「あなたも物好きですね」
「えー?なにが?」
「いいえ、なんでもありませんよ」


とぼけたふうに笑う清光を尻目に、残った桃を口にする。すこしぬるくなってしまったそれは、まったりと甘くやわらかで、わたしのふるさとの味がした。もう戻ることのできない、遠い遠い故郷。


「この桃は、わたしの郷里から送られてきたものなのですよ」
「そうなんだ。だから、主と同じ味がしたんだね」
「変な言い方はよしなさい」
「でも、本当だよ。甘くて、優しくて、離れたくないって思うんだ」


清光は猫のようにわたしに摺り寄って、また甘えた声を出した。途方もなく清光をいとおしく思う気持ちが溢れて髪を撫でてやると、清光は気持ちよさそうに目を細めて口元に笑みを浮かべた。どうやらわたしも清光も、桃の香りにほんのすこしばかり狂わされたようだ。そう思うことにして、わたしはまた清光の口元に桃を一切れ差し出した。


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