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かつて海は青かった。ほんの、十数年前まで。


海の色が青いのは、この星が泣いているからだと、昔読んだ御伽噺に出てきた魔法使いが言っていた。幼いながらもどこか冷めていたわたしは、そんなのは絵空事だと鼻で笑った。今考えれば、御伽噺の中での話なのだから絵空事であっておかしくないのに、わたしはその御伽噺をばかばかしいと笑って、最後まで読むことなく捨ててしまった。青い海を見たことが無いわたしにしてみれば、海の色がなにでできているかなんて、どうでもいいことだった。わたしの世界のすべては、赤い海と、あの少年だけなのだから。


眼前に広がる海は、赤く、赤く、染まっている。あのとき捨ててしまった御伽噺の題名はとうの昔に忘れてしまったというのに、それでもあの魔法使いの台詞だけはなぜか覚えていて、こうして赤い海を見つめるたびに思い出された。魔法使いが言うように、青い海がこの星の涙なのだとしたら、赤い海はこの星の血液なのだろう。何度も繰り返された運命に傷つけられ、腐り落ちた、いくつもの命の成れの果ての、赤い、血の海。


「こんなところにいたんだね」


不意に後ろから声をかけられ振り返ると、いつからそこにいたのか、カヲルがそこにいた。夢にまで見たカヲルがこんなところにいるなんて、すぐに信じられるはずも無くて、何度か瞬きを繰り返していると、よほどわたしの顔が間抜けだったのか、カヲルは「変な顔」と言って笑った。ああ、この笑い方は、わたしのカヲルだ。


「いつ来たの?」
「ずっとここに居たさ。君だって知っているだろう?」
「……カヲルはいつもそうだね」


カヲルはいつだって、のらりくらりとわたしの言葉をかわす。捕まえようとしても、まるでしなやかな猫のようにするりとどこかへ行ってしまう。できることならカヲルをずっと繋ぎ止めていたいのに、カヲルは決してそれを許さない。それなのにカヲルは、わたしを運命の鎖に縛りつけて、どんなにくるしくて、さみしくて、いとおしいと思っても、わたしを置いて消えてしまう。


カヲルから目を逸らして赤い海を見つめ直したけれど、何度見つめたって、その色が変わることは無い。定められた運命もまた、変わることは無い。カヲルがここにいるということは、わたしの役目の終わりが近いということだ。わたしのいのちは、カヲルのものだから。


「あれ?ご機嫌ナナメ?」
「……違うよ。カヲルだって知っているでしょう?」
「アハ。そうだね。君のことならなんでも知っているよ」


ずいぶん久しぶりに会ったというのに、まるでそんなことを感じさせない会話に、ほっと胸を撫で下ろす。再びカヲルへと向き直ると、いつの間に移動したのかわたしとカヲルの間の距離が縮まっていた。それでも、わたしとカヲルの間には、確かな距離がある。手を伸ばせば届きそうに見えて、実際は掠めることもできない。いつまでも変わることの無い、わたしとカヲルの距離。


「さみしかったかい?」
「当たり前じゃない」
「君なら大丈夫だと思ったのだけど」
「こんな世界にひとりで、さみしくないわけないよ」
「それでも君は、ここにいられたじゃないか」


カヲルは笑っているけれど、内心は不服でいっぱいだということをわたしは知っている。わたしにとっては『こんな世界』でも、カヲルにとっては、『彼がいる世界』なのだ。手を伸ばして触れようとすれば、そのぬくもりを感じることができる距離で“彼”が生きている、この世界。大切な、カヲルの、たったひとりの少年。その少年を見守るためだけに、わたしは生かされている。


カヲルのバックアップにと作られたわたしは、なんの運命の悪戯か劣化コピーにすらなれず、中途半端な存在として生まれてしまった。わたしには、エヴァに乗る力もなければ、使徒のような力も持ち合わせていない。人間でも、それ以外のなにものでもない、カヲルと運命を共にするだけの、誰からも必要とされないわたし。


「カヲル」
「なんだい?」
「カヲル、海が赤いよ」
「そうだね。僕の瞳と同じ赤色だ」


カヲルの赤い瞳が、わたしを映す。わたしの青い瞳にも、カヲルが映る。いつかカヲルに「君と僕は正反対だね」と言われたことがある。カヲルの赤い瞳と、わたしの青い瞳。カヲルは男で、わたしは女。カヲルにはあの少年がいて、わたしにはなにもない。わたしとカヲルは同じ場所で同じときに同じように生まれたのに、瞳も、性別も、運命も、なにもかも正反対だ。どうしてこんな運命が、何度も何度も繰り返されるのだろう。


「カヲル、あの子に会いに行くの?」
「それが運命だからね」
「……」
「今度こそ、彼をしあわせにするんだ」


カヲルのすべては、あの少年のものだ。カヲルの声も、言葉も、思いも、ぬくもりも、なにもかも、あの少年のしあわせのためにある。それが運命だ。わたしのすべてはカヲルのもので、わたしには、カヲルしかいないのに、カヲルだけなのに、カヲルは、わたしのものになることはない。それも運命だ。


「運命なんて、なくなってしまえばいいのに」
「運命がなくなってしまったら、海の色が変わってしまうよ」
「……海の色なんて、どうだっていい」


海の色なんて、何色であろうとわたしには関係のない話だ。カヲルが同じ世界に生きて、手を伸ばせば触れることができる距離にいて、その瞳にわたしを映してくれるのであれば、海の色が何色だろうと、あの少年が不幸だろうと、関係ない。わたしの望みは、カヲルと生きること、ただ、それだけ。


「君と僕は、正反対だね」


いつかと同じように、カヲルが笑った。なにかひとつでもカヲルと同じものがあれば、そうすれば、わたしもあの少年のようになれたのだろうか。赤い海をひとりでただ見つめるだけの運命ではなく、カヲルの隣で笑うことができる運命を、わたしも生きることができたのだろうか。そんなものをどんなに願ったって、望んだって、運命は変わることが無いとわかっているけれど、それでも、願うことを、望むことを、どうしてやめることができるだろう。


この運命の中でもわたしは、永遠にひとりぼっちで、青い海も見ないままに、おわるのだ。


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