「名前、呼んで」 唐突だった。いつもと同じように大広間で食事をしていた。なんてことない、普通の休日で、それなのにあいつはいきなりフォークとナイフを置いて俺を見つめ、まるで「このチキンおいしいね」と言うように、さりげなく呟いた。 「え?」 俺は思わず口に入れかけたチキンを戻して、あいつを見つめ返した。なんてことない、ありふれた言葉。それなのに、どこか違った気がした。 「名前、呼んで」 「名前?なんで」 「いいから」 あいつは表情ひとつ変えないで、まるでまばたきなんか忘れたみたいに目を開いて、じっと、俺を、それこそ穴が開くくらいに見つめた。そんなあいつの表情に気圧されて、俺は呼び慣れたその名前を呼んだ。 「……もう一度、」 あいつはまるでクラシックに聴き入ったかのように、目を閉じてうっとりとした表情で囁いた。促されるままにもう一度呼ぶと、小さく感嘆の吐息を吐き出しながら、あいつはうっすらと笑った。 なんてことない、ただの休日の食事の時間だった。それなのに、やけに綺麗に見えて、目の前にお気に入りのチキン料理があるのも忘れて、あいつを見つめた。 「あのね、シリウス」 ぱっと、前触れもなしにあいつは目を開けて、ふたたび俺を見つめた。何かを秘めた瞳と、俺の瞳が、正面からぶつかった。 「へんなおとが、聞こえるの」 「音……?」 「わたし、おかしくなっちゃったのかな?」 へら、とあいつはいつものように笑った。俺の目には、そう、見えた。否、そう、思いたかったのかもしれない。 「ずーっと、ね、へんなおとが聞こえるの。おかしいよね」 困惑する俺を余所に、あいつはやっぱり「このチキンおいしいね」と話す時のように、へらりへらりと笑いながら話し続けた。俺はただ、そんなあいつを見ていただけだった。 「へんな、おとが、聞こえるの。……だけどね、」 シリウスの声は、ちゃんと聞こえるんだよ。そう言いながら、あいつは俺の皿でフォークに刺されたまま放置されていたチキンをひょい、と取って、ぱくりと食べた。 「このチキンおいしいね」 俺はただ、頷くことしかできなかった。チキンの味は、変わらない。だけど、今までの日常はもう戻ってこないということを確かに感じながら、俺はあいつの名前をもう一度呼んだ。 (2010) |