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「……ごめんなさい」


私を抱きしめる彼の腕はあまりにも細くて、それなのに彼は行くと言った。こんな細い腕で、一体なにができるというの。喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、私はただ、彼に抱かれていた。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


彼の細い指が、私の頬を撫で、首筋を掠め、心臓の上で止まった。ゆっくりと剥がされてゆく洋服の衣擦れの音だけが、しんとした部屋に響いた。私はゆっくりと瞼をおろして四肢を弛緩させ、深く息を吸った。よく知ったはずの彼の匂いが、今はどうしてか、全く別の知らない誰かのもののように思えた。


「レギュラス」


私が名を呼びじっと見つめると、彼は酷くかなしげな顔をした。今にも泣き出してしまうのではないかと思うほどになさけない顔で、彼は私を見下ろしていた。泣きたいのはこっちだ、なんて言えるはずもなく、私は再び彼の名を呼んだ。


「……ごめんなさい」


彼の静かな声は私の鼓膜を震わせ、甘い痺れを生みながら、ゆっくり、ゆっくりと私の中に染みていった。その声に名を呼ばれると、自分ではどうしようもなくかなしくなった。もう呼ばないで。ずっと呼んでいて。相反する感情が交差して、くるしくて、息ができなくなった。


「レギュラス、レギュラス」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「レギュ、っ……あ、」
「ごめんなさい」


熱い、痛い、苦しい、だけど、泣きたくなるくらい、彼をいとおしいと思った。伝えたいのに、すべての思いは私の中で複雑に絡まり合い、喉の奥にはりついたまで、私はただ彼の名を呼ぶことしかできなかった。


「ごめんなさ、……っ」
「レギュラス、」


私も、彼も、泣いていた。今までふたりで生きてきたどの瞬間よりも、近く、深く、繋がって、同じことを思いながら、だけど、違う言葉を並べて、来るはずのない幻想の未来を夢見ながら、私と彼は、泣いていた。


彼の腕が、私の身体を強く抱いた。熱い波が押し寄せて来て、背筋が震えるほどのなにかが私の中を掻き乱し、わなないた。それでも私は彼を抱き返すことなく、腕をだらりと投げだして、心も、身体も、息も、誰にも明かしたことのない秘密も、過去も、未来も、今も、なにもかもすべて、彼に捧げた。


「……レギュラス」
「ごめんなさい……ごめん、ごめん」


私のすべては、彼で満たされ、彼のすべてを、私で満たした。ああ、これがしあわせなのだろうか。いとおしさと、かなしみと、よろこびと、くるしみが、私のすべてを満たして、後から後から涙が零れた。彼の瞳からもとめどなく涙が流れては落ち、私の頬を濡らし、私の涙と溶け合いながら、ぽろりぽろりと落ちていった。


私の愛が、流れてゆく。涙と一緒に、深い、深い、誰も知らない、私と彼だけの、今という瞬間の中に、閉じ込められてゆく。私と彼は、確かに同じおもいを抱きながら、それでも最後まで本当のことはなにも伝えないまま、ふたりだけの今を、心の奥底に刻み込んでいた。


「レギュラス」


愛してる。伝えられないまま、私たちは何度も何度も名を呼び合い、彼は私を抱き、私は彼にすべてを捧げた。伝えたかったのは、ずっと昔から胸の中に抱き続けている彼へのおもいなのに、何一つ言葉にできないまま、私は彼の名を呼び続けた。


生まれてきた時代が違えば、もっと上手く、私は彼にこのおもいを伝えることができたのかもしれない。世界は理不尽で、力のない私には、彼に行かないでと縋ることも、愛していると叫ぶこともできない。いくつもの未来が、もうすぐ終わる。さようなら、私の、いとおしい人。今までも、これからも、ずっと、ずっと永遠に、愛してる。だからせめて、今だけは。時よ、止まれ。


(2011)

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