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シリウスは不眠症だ。理由は定かではないが、3ヶ月程前、やけに隈が酷いと指摘したら、1週間で2時間しか寝ていないといきなり告白された。すぐに病院に連れていったところ、事務的な医者に不眠症と軽いノイローゼのようなものだと告げられて、大量のナントカとか言う薬とナンチャラとか言う薬を処方されて、まあちょっとゆっくり落ち着いた生活を送ればすぐに治りますよと言われて、私はすっかり安心していた。薬の量はちょっと怪しかったけれど、医者がそう言うのだからそうだろうと思っていた。


それなのに、だ。医者に連れていってから2週間が過ぎてもシリウスはどうやら眠れていないようで、加えて『軽いノイローゼ』が明らかに軽くなくなっていた。私はさすがにおかしいと思って、今度は別の医者に連れていった。そうしたら今度は、不眠症と軽い鬱だと言われた。鬱ってあの鬱?とはじめはピンとこなかった。私としては、鬱はもっと年配の人が陥るものだと思っていたし、何よりシリウスはもとが超がつくくらいポジティブな人間なのだ。だからそんな言葉なんて無縁だと思っていたし、むしろ私の方がお世話になるんじゃないかと少し不安だったりもしたのだ。


とにもかくにも、シリウスは完璧な不眠症で、加えて軽い鬱病である。私ははじめこそ戸惑うこともあったけれど、それなりにうまくやっていた。うまくやっていた、と言ったら少し違うかもしれないけれども、とりあえずどうにかやっていた。ただ、シリウスが時々、手をあげるようになったことには、いまだに慣れることはできない。まあ、これに慣れてしまったら色々やばいと自分でもわかっているし、殴られれば痛いけれど、痛いと思えるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。それに、苦しんでいるのは、シリウスの方なのだから。鬱病のせいもあって、彼は最近、生きるのが辛いと口にするようになった。大抵それは私に手を上げる前後で、彼はどうしようもない辛さを、私を殴るという行為で解決したり、私を殴るという行為でどうしようもない辛さを感じたりしている。


つらくないわけではない。だけどここで私までシリウスを見捨てて、否定してしまったら、彼は一体全体どうなってしまうのだろうか。例え不眠症だろうとノイローゼだろうと鬱だろうと、どんな形であれ、彼には生きていてほしい。それが、私の最大で最高の願いで、だからどんなに痛くても悲しくても、私はシリウスから離れないと決めた。彼に、例えどんな言葉で罵られても、痛め付けられても、また、彼が笑ってくれるなら、それで、いい。だから、シリウスに与えられる痛みは、どんな痛みであっても堪えられる。今日だって、私は、大丈夫。


「お前も俺を否定するのか?」
「ち、がう、」
「なあ、苦しいんだよ、怖いんだよ。お前が俺のこと、好きだって、愛してるって、言ってくれないと、俺は、生きるのも苦しいんだよ。眠れないんだよ。なあ、寝ない間、ずっとお前のこと考えてるんだよ。いっそ一緒に全部おわらせた方がいいんじゃないかって、苦しいんだよ」
「う……っ、」
「なあ、どうしたら俺は、ちゃんとした俺に戻るんだ?なあ、なんで、眠れていないだよ。俺は、俺は、なあ、愛してるって、言ってくれよ。お前が、なあ、楽になりてぇよ……」


シリウスの手が、私の首を掴む。3日前に消えたばかりの手の痣があったその場所に、かつては力強かった指が、その力だけ残して痩せ細った指が、私の呼吸を、止めようと絡み付く。苦しいと叫ぶ。辛いと嘆く。寂しいと涙を流す。シリウスはちゃんとした人間なのに、ちゃんとした人間なのに、人間なのに、なのに、なんでシリウスなの。なんで私じゃなくてシリウスがこんなにも苦しんで悩んで眠れないで辛くて悲しくて訳が分からない名前の薬を飲まされて雨の日はベッドから出ることもできなくて私が眠っている間に鳴らないヘッドフォンで何かを遮断してなんでどうして私じゃなくて、シリウスなの。


「なあ、なんで、俺、なんで、なあ、俺は、人間なのか?」


そうだよ人間だよだからねぇ、お願い苦しまないで泣かないで悩まないでお願い、昔みたいに笑ってよ。笑ってよ。ああ、息が苦しい。このままなんにもわからなくなって、シリウスも同じようになんにもわからなくなったら、そうしたらしあわせなのかな。やっぱりシリウスが言う通り、ふたりでなにもかも終わらせた方が、ずっとずっとずっとずっと、シリウスのためにも私のためにもいいのかな。ああ、わからない。大丈夫だと思っていたのに、酸素が足りない。何にも考えられない、大丈夫なんかじゃない。苦しいよ、さみしいよ、悲しいよ、シリウス。ねぇ、シリウス、もうずっと、ずっと、ふたりで眠っていようよ。そうしたら眠れないって、悩まないですむから。苦しいって、さみしいって、悲しいって、思わなくていいから。泣かないで、いいから。シリウス、だから、ねぇ、一緒にずっとずっとずっと、眠っていようよ。そうしたらきっと、しあわせになれるよ。


(2011)

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