青の世界 孫六と権平 | ナノ 別に何をしようとか、そう言う事はで無かった。
ただ何か引きつけられるものを感じ衝動的に、という表現が近いかもしれない。
ふっと体の力を抜き、すぐ後ろにある水面に向かって体を傾ける。
派手な水音を立て地と水の境界線から、なんの抵抗もなく水の世界へと侵入する。
抵抗することのない体は、難なく水の中へと沈んでいった。


地上とは違う、一種の浮遊感。
最初は冷たいと感じた感覚もなくなっていた。慣れたのか、それとも此方の体温が奪われたのか。どちらかはっきりしない。
徐々に水底に引き込まれていくのは体なのか、はたまた精神か。両方かもしれない。
その感覚に対し、苦しいとか怖いとか、そんな思いは無い。
どちらかといえば、母親の胎内に戻り羊水に包まれるようだった。
眠りに引き込まれる様に光が、音が、においが、全ての感覚が遠のく。

この感覚は死という感覚に近いのかもしれない。

なんとなくそう思った。
そうだとしたら、死という事に対して恐怖を感じない。
…母も、こんな感覚だったのだろうか。
そうだといい。父に先立たれ、身一つで僕を育ててくれた母が、死の間際まで辛いだなんてことは悲しすぎるから。


そんな思考も、体も、感覚も、全てが暗闇に沈みかけたその時、一筋の光が見えた。
なんだろうと思い手を伸ばした瞬間、僕は暗闇から引きずり出された。



薄暗い夕闇に響く派手な水音。
長時間活動を停止していた肺に、突然空気が取り込まれたことにより咳き込んだ。
水から地上に引き揚げられたが、力が入らず地面にへたり込む。
咳き込む度に髪や顔、体に纏わりついた水分がぼたぼたと辺りに滴り落ちる。
水を含んだことにより、肌に張り付く着物が気持ち悪い。

「なにやってんだ馬鹿!」

顔を上げると、権平が眉間に皺を寄せ、目くじらを立てていた。
そんな彼を何も言わずじっと見つめると、みるみる不安に満ちた顔へと変わっていく。
不意に手が伸ばされたのを見て、折檻だと思い歯を食いしばった。
が、飛んでくると思った衝撃は無く、代わりに暖かな体温に包まれた。
僕はすっぽりと権平の腕の中に抱きしめられていた。

「こんな冷たくなって…!落ちたのが見えて、慌てて駆け寄ったら…お前、全然上がってこねぇし…。死んだら、どうすんだよ…!」

勿論、僕は死ぬ気など毛頭もなかった。
しかし、肩口に埋められた権平の顔は見えないが、声は揺れており、心配をかけていたことが伺える。
「…ごめん。」
そんな権平の様子に少し困惑し、とっさに口にした謝罪。
返事は無かったが先程より抱きしめる力が込められた。
「着物が張り付いて気持ち悪い。」
「…お前のせいだろ、馬鹿。」
権平は顔を上げ、呆れ顔で此方を見る。
あ、よかった。いつもの調子に戻っている。
いつものやり取りに戻ったことで、僕だけでなく、彼も安心したのか。少しだけ、くすり、と笑いあった。

ぶるり、と体が震えるとくしゃみが出た。
「風呂入るか。」
直ぐ入れる状態だといいけど、と権平は心配していたが、この時間なら多分もう用意されている。
それに、この有り様を見れば誰よりも優先で入れる…と、いうより入れられることは明白だった。
立ち上がった権平に続こうとするが、足腰に力が入らない。自分が思った以上に体力を奪われていたようだ。
「大丈夫か?」
大丈夫、と言いたいところだが、無理だ。
僕が首を横に降ると、背を向けかがみこむ。
顔だけ此方に向け、ほら、と急かす権平の背に大人しく身を預けた。


権平の背から伝わってくる温もりは水の中よりもずっと心地よい。
あぁ、先程死への恐怖は無いと思ったが、この温もりが感じられなくなるのは嫌だな。

そんなことをぼんやりと思っていると、疲労のせいか、心地よさのせいか、はたまた安堵のせいか。とろとろとしたまどろみに襲われた。
徐々に重なる瞼。その重みに逆らうことなく、眼を閉じる。
意識が遠のくまで、その温もりが離れる事はなかった。



---------------
青の世界
2011 加藤嘉明追悼

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -