ほう、と息をつく。
何度も立ち寄った、切り立った崖。
真下には、街が広がる。森の奥に、明るい人の顔。
思い出すのは、まだそばにいられた頃の記憶。思い返せば、隆生はいつだって迎えに来てくれた。手を引いて、帰ろうと言ってくれた。どこにいても見つけ出してくれて、大丈夫だよと温めてくれた。冷え切った要の心を。
それも、運命への優しさでしかなかったのだけれど。
思い残すことは、ない。
娘は住職に任せられる。
『いらない』
小さくなっていた弟も、もう大丈夫。要は必要ない。
『要さんは、祈織さんのことが心配だったんです!』
分かった風な口を、と笑ったものだ。
新しい妹も、兄弟と一緒だから大丈夫。寧ろ、ケダモノの中に放り込むようなものかな。いや、きっとあの小さな小さな戦士が守るだろう。キィキィと、小さな小さな体を張って。
ふわ、と微笑んだ。
もう、いいかな。
誰に投げかけたものでもなかった。
身体が、傾いだ。
思い残すことはない。そう、何も。
『かなめ』
甘く蕩けるような声に、想いを残すことはない。
この想いも全て持って行く。
目を閉じた。重力に従って、なすがままになる。
その時、
「かなめ」
甘たるい声が、聞こえた。
腕が、掴まれた。傾いでいた身体が止まる。
それは、もうずっと長いこと聞いていなかった声だった。思い返しては、切なく切り裂かれる胸に痛めて。
ずっと、聞きたかった声だ。
「かなめ」
優しく、呼ぶ声。
運命に従っただけの優しいものだと知っているのに、あんまりにも優しいから、胸に飛び込んで泣きたくなる。でも、きっと、優しいのは理由があるからで、勘違いしてはいけないと堪えてはまた胸を痛めた。
ぐいと引き寄せられる。
気付けば、胸板に顔を埋めていた。
もうずっと長いこと思い出しては残り香を吸うように甘く切なく胸を締め付けて。
抱かれたことを思い出し、ひっそりと眠った。
「かなめ」
長いこと、呼ばれていなかった名。甘く蕩けるような声音で。ずっと呼ばれたかった。
この腕に抱かれ、包まれたかった。
「りゅ、せ……さん」
名を呟けば、キツくなる抱擁。
途端、目尻に涙が浮かんだ。
隆生は、要の顎を掴み、まじまじと顔を眺めた。葦色の目は、感情を読み取ることが出来ない。
「取り敢えず」
そして、隆生は要の頬を張った。
要は突然の平手に言葉をなくした。
が、キッと隆生は険を深める。
「勝手に死ぬな!」
語気を荒げ、言われた言葉に要は目を瞠る。
普段、甘く蕩けるような声音で自分を見つめる眼差しが、怒りも露わに、言葉尻まで荒くなっている。肩に食い込んだ指がぎりぎりと痛めつけてきた。
「隆生、さん」
「かなめ」
次の瞬間には、要は力強く抱き締められていた。
甘い声音が、自分を呼ぶときは甘たるく蕩けるような声音が、力強く彩られる。
「隆生、さ」
ぽたり。滴が、伝う。
夢にまで見た人がここにいる。自分の名を呼んで抱きしめてくれる。それなのに、要は身動き一つ出来なかった。力が入らず、隆生に委ねた。
はらはらと、涙を零して。
「かなめ」
応えの代わりに、隆生の肩に顔を埋めた。

     
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