明けることのない朝を、共に行こう。
「い、いやだぁあああああああああ! ああああああああ、あああ、ああああああああああああああ!」
「レン! レン、落ち着いて。大丈夫ですから。大丈夫ですから! レン!」
「レージ! レージレージレージ!」
「レン…! レン、落ち着いて! レン!」
「れ、じ……」
――たすけて
抱き締めた身体はげっそりと痩せ細っていた。筋肉が逞しく、女性を口説き落とすのに魅力的に映るだろう肢体は見る影もない。
頬はこけ、目は落ち窪み、骨が浮き出ていた。
嘗て、ファンを、そして自分達ですら虜にした男の姿はない。
抵抗のなくなった身体を抱く腕を緩める。
「……」
息を漏らす。眠ったようだ。
少し暴れれば疲れて眠る。まるで子供、否、それ以下だ。
しかし、寝ている間にも悪いものを見てしまっているのか魘され、安らぎが何処にもないことをまざまざと見せつけられていた。
もう一度、痩せ細った身体を抱き締めた。
寝息の合間に聞こえる呻き。零れる声。願い。
叶うならば、今すぐこの悪い夢の世界を絶ってしまいたい。目を覆ってやりたい。
「レージ…」
決して呼ばれることはない。
それでも、届かなかった手を今度こそ掴むと決めた。
仮令、何度心をいためても。
「レン」
もう何度も抱き締めた。
だが、何度抱いても、心が欠け落ちていくようだった。
レンが、妊った。
それは、レンがどこの誰とも知れぬ輩に無理矢理犯されてから三ヶ月経って判明した。
相手はどこぞの社長で、詳しいことは覚えていない。
報せを受け、駆け付けた病院ではベッドに横たえられた男が眠っていた。
表情一つ宿さず、顔にも身体にも見えるところに傷をつけ、再起不能なまでに痛めつけられたことが明らかだった。青白い肌は、彼本来の男らしいものからはかけ離れていた。
何が起こったか。事態を受け入れるには、現状が掴めておらず困難だった。
誰しもが状況を理解出来ず、ただ仲間が、同じ夢を見た同士がもう立てないのだということだけは分かった。
それに気付いたのは、それから日が経ったある日のこと。
毎日レンの病室へ通い続け、時間の許す限り側にいた。
痛ましい姿を見ているのは辛かったが、側にいてやりたかった。
だが、ふと気付いたのだ。
一番傍にいるはずの人がここにはいないことに。
一度も訪れてはいないことを。
しかし、無理もない。
彼が一番この姿を見たくないに違いない。立場は違えど理解は出来た。もしもトキヤならばと考えただけで、現実を直視することも出来なかったに違いない。
感じるのは己の不甲斐なさ。やるせなさ。
犯人への明確な殺意。
やがて、レンは目を覚ますこととなる。
緩やかに開かれる瞳を、トキヤはその場で見ていた。数瞬後、急に身体を起こしたレンは何も入っていない胃の液を吐き出した。
青白い面で、背中を撫でるトキヤをじっと見つめる。
声を出すことすらままならないのか。
はくはくと、紡がれることのない音に絶望へ落とされた気がした。
しかし、最悪はそれで終わるはずもなく。
目覚めたことにより、検診を受けたレンはその場で懐妊を告げられた。
間違いなくあの時に出来た子供だ。
レンの顔から色という色が消え失せた。
その日からレンは暴れ狂うようになった。まるで、死に急ぐように。
そして、それは起こった。
たすけて。
声は、届かないと知っている。
何度夢に魘されようと、犯した罪は消えない。否、罪なんて軽すぎる。この身にふりかかったものはそんな言葉じゃ表せない。
気付いていた。一度も顔を見ていない人のことを。気付かないわけがなかった。
会いたかった。
会いたくなかった。
抱き締めて、安心させてほしかった。
だけど、怖かった。会えないと思った。
あわせる顔が、なかった。
だから、ちらと見えたあの人の片鱗に縋らずにはいられなかった。
「レージ!」
まるで声が聞こえていないとでも言うように、追いついたと思ったら姿を消してしまう。
階段の踊り場まで来た時。その姿は見えなかった。
上か、下か。どちらも確かめるが姿はなかった。幻覚でも追いかけていたように。
どちらへ行けば。
考えていると、背中をとんと押された。
声をあげる間もなかった。
振り返った先には見慣れた姿。世界が揺れ、足早に過ぎ去っていく。
最後に見たのは、表情のない目で自分を見下ろす恋人だった。
「レン!」
遠くで悲鳴が聞こえた。
「こ、とぶき……先輩?」
次いで、声の主が呆然と零した言葉に、自分が見たものが間違いではないことを悟った。
再びレンはベッドの住人となった。恋人に突き落されて。
『ああ、死んでなかったの?』
ごはんを食べてなかったのか、というような口ぶりで。なんでもないことのように。否、寧ろ惜しいと言いたげに。
ぞっと背中を冷たいものが走った。
取り押さえられ、連行されるまで一度たりとてレンを見ることはなかった。平然と手首に枷をつけられた。
違う。違う。あんな人ではない。
何が。誰が。彼をあんな風にしてしまったのか。
問いは、自問自答のループへ手を引く。
答えは分かりきっていた。
『いやだぁあああああ! ああああ、ああああ! いやだ。なんで。なんで、ここに? いやだ。いやだいやだ! レージ! レージ! たすけてよ、レージ!』
そして、彼の行動の意図も残念ながら理解出来てしまった。
表情のない顔で眠る人の髪を払ってやる。
悪いものは見ていないらしい。
恋人が取り払ったとでも言うように。
『レージ……』
あの場に居合わせたトキヤは、聞いてしまった。
『ありがとう』
ふわりと、笑った彼の言葉を。
汚れも知らない、輝いているだけの彼そのままの彼の笑顔を見てしまった。
「レン」
風が、そよりと通り抜けた。
窓の外は白い光が溢れ、レンの面立ちを染める。
レンが目覚めたのは、一週間後のことだった。
それから、レンは事情を知ると恋人の減刑の嘆願に明け暮れた。トキヤがどれだけ止めても、嫌だと暴れ狂ってきかない。
「レージは俺を助けてくれたんだ! なのに、なんでレージが……俺だ。俺のせいで、……俺のせいでレージが…っ」
「落ち着きなさい、レン。あなたのせいではありません。決して。あなたのせいでは!」
抱き締めた身体は驚くほど細くて、自分よりも高いのにすっぽりと収まってしまう。それなのに、何処から出しているのかと思うほどの力で暴れるのだ。
「レン! レン……」
声は、届かない。
求めているのは、たった一つ。
トキヤはその中に入っていない。
そんなことは知っていた。今更叩きつけられようとどうとも思わない。
レンが好きだと気付いた時から茨の道を覚悟していた。
あの男に負けるまで、レンの隣を歩き、手を繋ぐのは自分だと思っていた。
『トッキー。レンのことが好きでしょう?』
『今更確認してどうするというのです』
『あれ、俺のものだから』
『知っていますよ』
『それも知ってるよ』
彼に似合わない、男の本能を曝け出した目。
それなのに、大事に大事に囲って、傷一つつけないように大事にしていたことを知っている。臆病で、優しい。
本当に嫌だった。その大事にしたい気持ちが分かりすぎてしまうほどに分かってしまうことが。
だけど、レンが笑うから。彼の隣で、頬を染めて笑うから。
ならば、その恋の先を見守ろう。どうせ次の恋など来やしないのだから。
仮令、心に無数の茨が突き刺さろうとも。想いを消してしまう方がよっぽど辛い。
けれど、今、消さなかった恋はこんなにも辛い。
「レージ! レージ!」
「大丈夫です。レン。大丈夫ですから!」
腕の中に好きだった人を抱いているというのに、こんなにも胸が苦しい。
レンは、もう笑わない。
ずっと心を痛め続けたまま、伸ばした手が空を切ることに耐えきれずに泣き続ける。
私なら、あなたにこんなに悲しい思いはさせないのに。
そうやって、包み込んで抱き締められたならどんなにいいだろう。
だって、トキヤは知っている。
嶺二もレンも、誰も悪くない。愛し合っただけだった。好きで、側にいただけだった。
嶺二は愛していた。臆病に、優しく。
レンは、嶺二の愛に笑っていた。頬を染めて、花開くように。
手を繋いで笑い合う二人を見るのは心にチクリと棘が刺さっていたけれど、今の二人は剣で貫かれ血反吐を吐くほど辛い。
嶺二は、辛くも死刑は恋人の嘆願と各所からの哀願により免れた。
しかしながら、人生の大半を檻の中で過ごすこととなった。
「レージ……レージ……」
ああ。トキヤは、心に刺さった剣を抜こうと試みた。
けれど、それは決して抜き去ることの出来ない悲しみの剣。レンを腕の中に抱いても、より悲しみの声が近付くだけ。
レンは、弱くなった。
何度も面会を希望し、断られては檻の向こうにいる恋人を思って泣く。
その度にトキヤは抱き締めた。
何も言わず、レンを腕に抱いた。
嶺二を求めて伸ばした手に、掴む人は誰もいないことを泣いて、レンは日に日に痩せ衰えて行った。
腹に子供はもういない。レンを苦しめる存在はもういない。
けれど、レンはまだ苦しいままだ。辛くて、痛くて、一番レンの心を抱き締めてあげられる人がここにいなくて。
きっと、このままずっと力いっぱい抱き締め続けてもトキヤのことなど見もしない。
トキヤは抱き締めることしか出来ない自分を呪った。
嶺二が檻から出たのはずっと後になってからだった。
誰にも知らせず、レンの元へは出所の通知だけが来た。
レンは探し続けた。
しかし、嶺二は巧妙に逃げ隠れ、結局見つかることなく。レンは若くして短い一生を終えた。
最後まで泣いていた。ここにはいない恋人の姿を探した。
皺ひとつない若かりし頃の自分の手。張りのある身体。はっきりと見える視界。
一体全体何がどうなっているのか。
そういえば、どうしてここにいるのか。記憶すらもなかった。
気付けば、河の辺を歩いていた。
上流へ向かって歩く。
澄んだ色なのに魚一匹いない。否。生物すらいないだろう。だが、河の近辺には赤い花がそこらじゅうに咲いている。とって食われそうだ。
赤い花は行先を示す。
その花の名を知っている。
やがて、舟が見えた。黒装束を纏った細身の者が乗っていた。
舟に乗ろうとすると、黒装束がこちらを見遣った。何故か、瞬間、笑った気がした。表情一つ見えないのに。
「この舟は二人乗りです」
「二人乗り? じゃあ、待ってないといけませんね」
クスリ。また、笑った気がした。
顔は見えない。だが、確かに黒装束の向こうで笑い声が聞こえた気がした。
つと指をさす。
「いいえ。ずっと待っていますよ」
そうして、彼は後ろを振り向いた。
「……っ」
刹那、息が止まる。
「そこで、ずっとあなたのことを待っていましたよ」
黒装束の声が遠くに聞こえた。消えたのだろうか。
いいや。今は、そんなことは関係ない。
彼は動けなかった。
もう一人も、動かなかった。
動かず、ボロボロと涙を流していた。
弱々しく頽れることはしない。
ああ。彼は、心の内で呟く。
ああ。
ああ。
オレンジ色の髪。ブルーの双眸。男らしい身体付き、肌の色。確りした身体に似合わず、細身で。
すぐ泣く。
一つたりとて忘れたことなどなかった。忘れたくなどなかった。
全部大好きで、愛したものだった。
髪へ顔を埋めるといい香りがして、項に埋めるとぶるりと震えてこそばゆいと文句を言うものだから、抱き締めて掴まえて。もう、と仕方ないと笑ってくれるから嬉しくなって。
ぜんぶぜんぶ、ひとつひとつ大好きだった。
愛していた。愛している。
だから、許せなかった。
自分以外の男をその身に受け入れたことが。仮令、無理矢理だとしても。
大事で、大切過ぎて、触れることすらも躊躇うほどに綺麗で美しいのに、他の男を許したことが。傷一つつけないように優しく触れたのに、無理矢理に暴かれたことがどうしようもなく許せなかった。
剰え、他の男の子供を宿したことを。
『レージ? あの、さ……あの……あの……ね?』
その言葉の先を知っていた。知っていながら、いつも言わせないようにキスをした。
知っているよ。君がいつだって全部を僕にくれようとしてくれていたことも。
でも、もうちょっとだけでいいから君を大事にさせて。
ワガママな願いを口にしたことはなかった。
キスをされて、ちょっとだけ複雑そうな顔をする。何か言いたそうにして、「なぁに?」と素知らぬ顔で聞くと、なにもないのだと、首を振る。
少しだけ切なげに伏せられた睫毛に罪悪感が芽生えていた。
だって、壊れてしまいそうなのだ。ちょっとでも扱いを間違えてしまえば瀬戸物のように壊れてしまいそう。
だから、その先を言わせなかった。
ごめんね。もう少しだけ。あとほんのちょっとだけ待って。
今日も何度目かの嘘をつく。
きっと、少しでは足りない。
堪えた言葉は、君に届くことはない。
それでいい。それで。
良かった。
だが、平穏はいとも容易く瓦解した。
積み上げた愛情を崩され、目の前が真っ暗になった。
湧き上がったのは、怒り。恋人であり、被害者であるはずの彼へ。
何故?
自らへも許さなかった身体を、どうして他人なぞに明け渡した? 不可抗力? 知るか。
君は、俺のものだろう?
だから会わなかった。
会ってしまえば殺してしまいそうだった。怒りに身を任せて一思いに縊り殺してしまいそうだった。
恋人への見舞いもせず、自身の中の仄暗い憤怒を静めていた矢先。恋人の懐妊が知らされた。相手はいわずもがな。
自分以外への誰かに許した挙句妊った?
我慢の限界だった。
子供ごと殺そうと思った。恋人が生きていたのは想定外だったが。
突き飛ばした身体は細く、自分を映した目は窪んでおり、変わり果てていた。しかし、なんの感慨もわかなかった。
その腹に他人の子がいるのだから。
檻の中で何度面会を希望されても会う気はしなかった。自分で怒りを解こうと試みたが無駄だった。
檻から出ても会おうとは思わなかった。
許せない。
怒りが、蜷局を巻いていた。
会ったら今度こそ殺すだろうと思っていた。
けれど、恋人を殺すために残っていたはずの手は、その身体を抱き締めていた。力いっぱい。キツく、息も詰まるくらい。
「レン……!」
「……っ」
恋人の嗚咽が耳元で鳴り止まない。
泣かないで。優しく雫を拭ってやる手はない。
痕が残りそうなほど抱き締めた。
喉を焼けつくす勢いで、奥からせり上がったものを堪えきれず、その肩を濡らした。
真っ白だ。何も書いていない、真っ白な紙。
たった一文だけ。中央に書かれていた。
長いことそれを眺めていた彼は、やがて紙を胸に、まるで抱き締めるかのように閉じ込めた。
「レン……!」
そこには、ずっと側にいたことの礼も、来世での約束も何も書かれていなかった。そんなものではなかった。
トキヤは、嗚咽を噛み殺し切れず、声をあげて泣いた。
――送り出してくれて、ありがとう。
ずっと好きだった。
好きで、好きで、好きだった。
とても酷い人だった。
優しい人だった。大好きで、オレを愛してくれる人だった。
とても、とても、酷い人だった。
それでも、好きだった。
他なんて考えられなかった。好きで仕方なかった。
泣いて、泣いて、泣いてばかりだった。
あなたがずっと抱き締めてくれていたから、ずっと泣いて過ごした。あなたが優しく強く抱き締めてくれるから泣いていられた。
約束も何もないけれど。
あなたを好きになれたらって、オレは思うよ。
「レーン!」
「おチビちゃん!」
ふざけて戯れ合う集団に一瞥を送り、溜息を零す。
「まったく。静かにしてください。他の出演者へ迷惑がかかってしまいます」
「だっておチビちゃんが!」
「レン!」
「あ、イッキ!」
「えっへへ。これ、なんでしょう?」
「もう! イッキまで!」
「あなた達!」
目くじらを立ててまくしたてても、すっかり彼らの世界。聞く耳はなかった。
まったく頭が痛い。
「まあ、よいではないか。撮影も終わったことだし」
「そうですが……」
「わあ、レンくん。可愛いですねえ」
「那月。ワタシにも見せてクダサイ」
「あっ、シノミー! ダメだってば!」
「……まったく」
「たまには息抜きも必要だぞ?」
隣に座る同年代の男が気遣ってくれなければ、今頃青筋がブチ切れて卒倒していたに違いない。
溜息を零す仲間に、隣に座る男はふっと笑う。
すっかり柔らかくなったものだ。昔は冷たい一瞥をくれて、自分は関係ないと言わんばかりだったのに。今では頭を悩ますなど、随分な進歩である。
だいぶ打ち解けたような気がして、実はこうして頭を悩ませる姿が楽しいのだと言ったら、きっと彼は意地が悪いですね、と言うだろう。うっかり口を滑らせてしまわないように、彼は言葉を笑みに隠した。
「はぁーい! おつかれちゃーん!」
「あ、れいちゃん!」
「やっほーおとやん!」
「どうしたの?」
楽屋へ現れた先輩の姿に、瞬間、彼の目に険が宿る。
「ついでだから顔出しに来たんだよ。この後ボクちん達の撮影だからね」
「ほんと? わあ、おれ、見たいなあ」
「いいよいいよおいでよー! ランランとミューちゃんもいるよ!」
「ほんとう? わーい!」
「アイはいないんですか?」
「もっちろんいるよ!」
「俺も行きたいです!」
「おいでおいでー!」
何時の間にかメンバー全員が行く流れとなり、腰を上げた。久しぶりに先輩達の撮影を見学したい。学ぶべきことはまだまだ多いのだ。
しかし、おや、と首を傾げた。
先程まで頭を抱えていた男が一向に立ちあがらない。先輩を睥睨していた。
「一ノ瀬……?」
「っ、は、はい!」
「どうした?」
「いえ……」
「? そう、か…」
それ以上問いを重ねても答えてはくれない気がして、立ち上がらない彼を置いて楽屋を出る。他のメンバーはもう行ってしまったようだ。
楽屋に残っているのは、彼と……、
「……神宮寺、か」
そういえば、幼馴染であり、好敵手でもある彼は一言も行くと言わなかったな。
首を傾げ、だが答えなどわかるはずもない。頭から消して撮影へ向かった。
一方、楽屋では荷物の整理をして撮影に向かおうとするレンの姿があった。
あの場では何も言わなかったが、やはりカミュや蘭丸、藍の撮影を見たい。最近なかなか撮影を見る機会も一緒になることもないから刺激を受けて触発したかった。
荷物を纏め、楽屋を出ようとしたその時。
「……イッチー?」
レンの手首は、捕えられていた。
男の顔は見えない。
「? イッチー」
もう一度。しかし、応えはない。
訝しんで、その顔を覗き込んでみる。俯いていて表情も分からないのだ。
「……どうしたんだい、イッチー」
そこには、鹿爪らしい顔があった。
唇を噛んで、眉を顰めて。らしくない。
トキヤはレンを一瞥し、視線を逸らす。
レンは、何も言わなかった。
何度かそれを繰り返して、絞り出すように言葉が向けられた。
「行くな」
え。
思った時には、レンの顔は彼の両の手に挟み込まれていた。
「行かないでください」
レンは、目を瞠る。
彼らしくない命令口調。強い語気で。
そして、懇願。今にも泣き出しそうだった。
らしくない。
けれど、彼らしい気もした。
心を突き動かすような言葉は、実に彼らしいではないか。
稍あって、レンは笑った。
「オーケイ」
自分を映す紫色の瞳がふわりと揺らぎ、泣きそうな顔のままで笑った。
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