「公子が着いたようです」
気怠げな、細い目が一瞥を寄越す。瞬き一つののち、腰痛でも患っているかのように重い腰を上げた。王の気持ちを慮って、その後ろを静々と侍従がついた。
長い脚で大きな歩幅を作りつつ、のっしのっしとのんびり向かった。
ああ今日は晴天だなぁと考える余裕すらあった。この鬱屈した気持ちに不似合いなほど澄み切った空の色だった。日頃空なぞ見て感傷に浸ることなどない己が今まさにそうなっていることがおかしく、ガシガシと頭をかいて誤魔化す。
今日は臣民が待ち望んだ婚礼の儀。隣の大国との同盟にやっとこぎつけたのは最近の話。不安を払って胸をなでおろす臣民のためのものだった。政略結婚とはよくある話で。こちらからは大事な臣下を一人やった。
相手は乙種の公子。子を産むこともない。現在、立太子を控えた嫡男になんら影響を及ぼさない相手だ。実家の影響力も少なく、大国の中でも何番目か数えられないほどの子。こちらとしてはうってつけ。相手としても無駄飯ぐらいを放逐するいい機会だったのだろう。
ああ。なんということか。皮肉なことに、まるで祝福しているかのように空が美しく青い。
宮を出ると、膝を折って公子が待ち構えていた。些か伴っている臣従が多いのが気にかかったが大国ともなればこれが当然だろう。ひいては威信を示す絶好の機会なのだ。
「圧切長谷部と申します。国王陛下におかれましてはご健勝のことなによりにございます」
太い声だった。音ではない、色が。芯が。
たちどころに顔が見たくなり、覗き込もうと思った自分に驚く。少し頭を冷やし、眼下に見据えた。
「面を上げよ」
稍あって、一言で応じる。
宛らこれをなんというのだろうか。走馬灯は一瞬で一生を思い起こすと言うが、ゆっくりと時間が流れていくような感じだった。
榛色の隙間から覗く、両の目。閉じられていたそれが時間をかけて眼前に晒される。
現れた色は、藤。
花にも勝るその色は、瞳の中にあってこそよく映えた。なおかつその瞳でなくてはならない。榛色の奥に覗くその色は声と同じくしっかりとした強い芯を併せ持ち、見る者を引き寄せるだろう。
ああ、俺の他に誰も見ていなくてよかった。らしくなく、そう思った。単なる目の色であるのに誰かに見せるのが惜しい。
手元には何もない。ならば、と引き寄せる。
臣従がざわめき出すのが分かった。
「陛下!」
この瞳を覗かれるくらいなら、俺がこの腕に抱こう。
藤色の目が、ぎょっとした。その顔もなかなかに好きだった。悪くない。
離れようと胸板を押すも、躊躇う。ほう。意外に冷静じゃないか。なるほど。やはり悪くない。己も存外冷静であった。
「その目気に入った」
ぱちり。瞬きをする。
きょとんとしたとぼけた顔が、ぽかんと見上げる。
何を思ってあちらの皇帝がこれを送ってきたかなどはどうでもいい。そこに意志があろうがなかろうが、すでに手中におさめたのだ。返してやる義理もないし、そうしようとも思わなかった。いや。したくないのだ。その目に捕らわれてしまったのだから。
「圧切長谷部、と言ったな」
「はい」
「藤君と呼ぼう」
「え……」
「太子ともどもよろしく頼む」
藤君と名付けられた男は、束の間呆然とした。
やがて、形式だけの応えをしたが、やはり意識がどこかへ飛ばされているかのように腑抜けたものだった。
なかなかに面白い拾い物をした。
そうだ、今日はまるで言祝ぐような晴天だったではないか。
ああ、いい日だなぁ。
隣の小国へ降嫁することになったときいた時、たいした感慨もなかった。没落寸前、否、最早すでに家名の栄華もない。どこの家もっよその国なぞに大事な子をやりたくないと言えば、お鉢が回ってくるのはお情けと言わんばかりの金と家門再興と引き換えの人質だ。
別にそれでよかった。どうせいずれは顔も知らない相手と添い遂げる身だ。それならば少しでも家の役に立った分良しとしよう。
すでに父も母も亡い。己の身一つ差し出したとて悲しむものなどそうはいないのだから。
家臣に見送られ、隣国へと行く。
この国より文明は遅れており、向こうは大事な臣下を送ってきたという。その代わりに没落貴族の公子を送るとはなんともまあ皮肉がきいているものだ。
これからに希望など持っていなかった。せめて天寿をまっとうし、穏やかな生活が送れるように努めようと思うだけ。嫌がらせにはどう対応すべきか、孤独な日々にはどうするかそればかりだった。
王は既に番を亡くして久しいと言う。運命の番は一人息子を残し、この世を去ったらしい。なるほど。ということは、太子の王道に邪魔にならないとあってはこちらにとってもいいことだったのだろう。たとえ没落貴族であっても、なんの後ろ盾もない若造ならばと考えたに違いない。それは正しい。後ろ盾どころか親戚すら途絶えて久しい。
ならばせめて邪魔にならないように宮生活を送ろう。
太子の後ろ盾となることなどきっと無理だろうから。
そうして踏み入れた国で、よもや王に抱かれ、気に入られ、果ては名前を付けられるなど思いもしなかった。
無精髭の生えた男らしい顔立ちだった。黒い髪を後ろにたばね、細く鋭い目で見下ろすさまはまるで品定めでも受けているかのよう。小国と雖も一国の王であった。
藤君。
榛色から覗く目が美しいとつけられたその名は、何故だろうしっくりきた。
瞳の色は母からの贈り物だ。それはそれは美しい女人だったという母の目はそのまま受け継がれ、父もよく母を思い出しては目を細めたものだ。それがとても嬉しくて、父の顔を見て話すのがとても好きだった。まるで父の世界の中心は自分だけであるかのような錯覚を受けた。
父も亡くなって、この目を美しいと言う人はいなくなった。
いや、いたのだろう。きっと。けれど、それは視界には入らずいつだって通り抜けた。あんなに間近で、それもまじまじと感嘆して美しいと溢されたのは久々かもしれない。それだけではなく名までつけられるとは。
あまり期待していなかったこれからの生活が、大きく変わっていくような気さえした。
王に手を引かれ、向かったのは春宮だった。
訪いを告げると、元気よく中からぴょーんと飛び出してくる影がひとつ。女中が慌てて声をかけたところから、この子供が太子だろうとわかった。
「よっと。おいおい。今は講筵の真っ只中だろう」
「おいしゃんが来たばってん、出迎えてやったとよ!」
「んだと? こいつ、生意気だなぁ」
おいしゃん、と呼ぶ訛りのきつい子供はおやと藤君に気付く。次いで、自身の父親を見上げ、誰何を問う。
「おめぇさんの新しいおっかさんだ。博多。挨拶をしろ」
「こん人がか! えらい別嬪を連れてきんしゃったね!」
話の矛先が向いたので、頭を下げる。こんな子供であろうと身分は太子の方が高かった。当然だ。一国の未来を担っているのだから。
「圧切長谷部、と申します」
「よかよか、博多で。よろしくな、おっかさん!」
「いや、でも」
「ああ、いい。気にすんな。名前で呼んでやれ」
「しかし」
「いいから」
「分かりました」
溜息を、ひとつ。
慣れない。こうまで厚遇を受ければ、何かあるのかと疑ってしまうのも無理からぬことだろう。しかしながらあからさまに気前のいいだけの二人であったのでその疑いもばかげたもので、思わず自分がどれだけ愚かであるのか突きつけられ閉口してしまう他ない。
親子の会話を横目に、これからこの中に入っていけるのだろうかと一抹の不安を抱えた。
礼儀作法などの話ではない。この温度差についていけるかが不安だった。
「ああ、そうだ。式は明日だからな。宴もその後にあるから忘れるなよ」
「はい」
「あ、と」
ずずいっと、王は眼前まで近付く。仰け反ったのは当然の行動と言えよう。しかしそれが気に入らなかったのか、王はがしっと後頭部を掴んできた。
「その口調やめろ。普通でいい」
「しかし」
「いい。おめぇさんにそう距離をとられると俺が嫌だ」
「……わかった」
不承不承といったていで頷いたと言うのに、王はにっと笑った。
「おめぇさんをお飾りにするつもりはないからな」
「だが」
「だがも何もない。俺がおめぇさんを気にいったんだ。それとも博多の将来を遮ろうと思うか?」
「そんなわけ…っ」
「だろ? なら、いい」
しかし、と心の裡で抗う。
自分の入る隙間をこんなに作られる方がいっそ迷惑だ。何故なら、王は甲種。そして、前の番は運命の丙種。そこに藤君が入る隙間は髪の毛一本たりともなかったはずなのだ。だのに、こんなにつけいる隙を与えられると困る。まるで自分の居場所があるみたいじゃないか。
唇を噛み締める藤君の頭を、そっと王の手が乗った。
「安心しろ。ちゃんと俺の中にあいつはいるし、おめぇさんに入る隙はない」
「なら……」
「けど、ま、しょうがねぇだろ。おめぇさんを気にいっちまった。おめぇさんの目を見て、あの日から失っていた色が戻ってきた。こんなに世界は明るかったんだと思いだした。なのに、おめぇさんを放っておいちまうほうが嫌なんだよ」
「……陛下……」
「その陛下ってのもやめろ。号だ。日本号の号でいい」
「しかし」
「いいから」
結局押されて、藤君は頷いた。
わからない。
藤君は乙種だ。運命だのなんだのとはまったく無縁の日々を過ごしてきた。知識として頭に入ってはいるが、自分がよもやそこへ介入することになるとは露ほどにも思わなかった。
運命の番。それは魂で惹かれあう相手だ。本能で選ぶ相手で、どんなに好いた相手がいようと振り払ってしまえるほどの引力を持つと言う。
日本号の前の妻は運命だ。亡くして久しいというが、そこに藤君の入る隙間はないはずだ。それを覚悟でこの地へ来た。
だから怖い。こんなに隙を与えられて、厚遇まで受けて。
怖い。
わからなくて、怖い。
どうしてだかいいようのない不安に駆られ、手を払う。
「申し訳、ありません……」
「……ま、いいぜ。これから慣れていけば」
穏やかに自分を見詰める眼差しが、こんなにも怖いことを初めて知った。
式は恙なく行われ、宴もたけなわ。
夜。
藤君は日本号に招かれ、彼の寝所へと足を踏み入れた。
藤君の寝所もそれはそれは広かったが、その倍近くある。調度品も藤君のものと比べるまでもなかった。無論、藤君のものは国の威信にかけて選ばれたものであろうが、それを越えている。文明の遅れている小国という話だったが、こういったところはさほど遅れてはいないのだろうか。
とくとくと酒をつぎ終え、藤君の杯も満たされる。王直々につがれた酒を一息に飲み干す。いい酒だ。喉まで染み渡る香りと、旨さ。国では飲んだことのない味に、これは酒にはまるのも仕方ないと思った。
「どうだった?」
「ありがたき幸せにございました」
「そういうのじゃなくて」
「……ですが」
「俺は、おめぇさんの気持ちがききてぇんだ」
「……陛下」
日本号は眉間の皺を深くし、嘆息する。
何故だ。何故そんなにも藤君を厭わない?
わからない。
「言ったはずだぞ。俺はおめぇさんを冷遇などしない。気に入った、と」
「しかし」
杯を置き、手で制する。言葉の続きをとられ、藤君は口を噤んだ。
「たしかに俺の中にはあいつがいる。あいつがいない世界はそりゃ酷かったさ。色すらわからなかったんだからな。博多にもどんだけ心配かけたことか」
「だったら…」
「だから、なおさらおめぇさんが欲しいんだよ」
「陛下」
「理屈が欲しけりゃ残念だったな。んなもんねぇよ。けどな、おめぇさんの声とか目とか芯の太いところ見せられちまったら惚れずにはおれんだろう」
「惚れ…っ?」
「なんだ? 今更恥ずかしがってんのか? ああ、そういや言ってなかったな」
「陛下には運命がいるでしょう!」
「運命がいるからって、死んだ後誰も好きになっちゃいけねぇって決まり事でもあったか?」
「ぐ……それ、は」
「ねぇだろ?」
なんて口の達者な男だ! ああいえばこういう!
たしかにそういった規定はない。だが、運命の番を亡くした者はその苦しみを生涯抱かねばならないのだ。それは想像を絶するものだという。ことこの件に関しては何度も言い含められたからよく知っている。
だからこそ、わからない。
運命の番を失い、死を選ぶ者もいるというその苦しみに耐えていた男がある日突然色を取り戻しましただなんて言われてはたして信じられるだろうか。答えは否。この好意もなにもかも裏があるように感じられてならないのも致し方ないというものだろう。
まぁ、いい。日本号は、こぼす。
「俺はおめぇさんと残りの人生を歩む覚悟だ。長い人生の終わりでおめぇさんが横にいりゃいい」
「ごう……」
「……ああ、いいな」
そのとき、藤君は気付いていなかった。自身がその唇から名を溢したということに。
とびきり柔らかく目を細めた男の心中を察することは出来なかった。
けれど、その目があんまりにも優しかったから。藤君を見詰める目が優しかったから。
卓を越えて掴まれた手を拒むことなど到底出来なかった。
あれから、一月。
日本号も博多も藤君によくしてくれたし、家臣たちや女中たちの嫌がらせ等もなく平穏に過ごしていた。なにがなんでも生き延びてやる、という当初の意気込みはなんだったのかというほど平和な暮らしを送っていた。
暇を見つけては、日本号は苑に誘い、時折そこに博多も混ざって三人で散策をした。
なるほど。たしかに文明は遅れていたが、しかしながら美しい苑は歩くだけで楽しかった。覚えることが山ほどあり、宮殿にいるだけで息が詰まりそうだったがたまの散策がいい息抜きになっていた。
隣を歩く日本号の空気にも慣れ始めていた。
最初はわからないことだらけだったが、段々とわかってきた。
彼は裏表のないさっぱりとした気のいい男だった。本当に番のいない間色を失っていたのかというほどで、博多が証言してくれなければ今でも怪しんでいただろう。
番を失った日本号は、それはそれは意気消沈ではすまないほどだったという。日々の業務は滞りなく進めるものの、休むという概念からぶっ壊れ、声をかけても黙々と進めるから無理やりにでも引き離さなければならなかった。大好きだった酒もやめ、その楽しさを忘れてしまったかのように魂だけぬけてしまったようだったと言う。博多以外の臣下にも聞いたので間違いないだろう。
藤君の前ではそんな姿は一度たりとも見せたことがない。いつも笑っていて、時には酒におぼれてべろんべろんになっていて、日々を楽しく過ごしているのだ。
それはとてもではないが、奥方を亡くされて久しいとは思えないほどに。
けれど、かといってその言葉が嘘だったとも思えず、本当に藤君がここにいるだけで笑っているのだと思うと、心の奥底から何かが湧き上がってくる気がした。それの正体を知っている気がするが、知らないことにして蓋をした。
今は、まだ。まだいい。
最早日課となった散策をその日も行っていた。
今日は春宮がまだ終わっていないというので、二人だけだ。
二人きりで散策をするのは久方ぶりのことであった。いつも間に博多を挟んで、時には三人で手を繋いで歩くことが殆どだった。どこからともなく散策ときけばやってくる博多は話し上手でもあり、会話が途切れることもなく楽しかった。
号。とは、まだ呼べずにいる。なんとなく出来なかった。陛下と呼ぶと、ちょっとだけがっかりしたような、眉尻を少し下げるものだから悪いことをした気分になる。
二人で悠々と歩く。臣下は遠くで見ていた。日本号が下げたのだ。二人きりがいいと言って。そうして藤君の手を引いて、ゆっくりと歩いた。
こうして二人きりで歩いてみると、なんだろう。なんだか違う気がする。言葉では言い表せないが、いつもと違ってなんだかおかしな気分になってきた。手から汗だかなんだかが伝わっていないだろうか。何故だか握った掌から先がとてもあつくてならない。どうしてかは分からないのに、理由を知っている気がして首を振る。
苑はいくつもの名勝があり、気分によって歩く場所を変えることが出来る。
今日は大池を眺め、大きな杉の木を散策した。日に日に表情を変えていくので眺めるのもなかなかに楽しい。毎日通っているが、その日によって道が違ってみないこともあるので、一日置いただけでとても変わっていたなんてことがざらにあったり、全然変わっていないこともまたある。
「藤君」
「はい」
藤君と呼ばれることには、未だ少し慣れない。
家族に呼ばれていた名は、もう誰も呼ばない。
皆が呼ぶ名は、当然のごとく。
けれど、藤君という名だけはどうしても慣れなかった。
そう呼ばれると、胸のあたりがおかしくて、いつも顔を逸らしてしまう。そのたびに日本号の顔を見遣ると優しい顔をしているものだからなおさらおかしくなるのだ。
「ここには慣れたか」
「ええ。おかげさまで」
握った手があつい。この温度は伝わっていないだろうか。
とても静かで、静かすぎるほどで、手から音が伝わってしまわないだろうか。それだけが心配で顔も見れない。
「博多も懐いているようでよかった」
「ありがたいことに」
「あれには寂しい思いをさせたから、おめぇさんが来てくれて本当によかった」
「……はい」
時折、博多は日本号が番を亡くしてから魂を抜かれていたような時期のことを話してくれることがある。
母を亡くした悲しみでわんわん泣いても振り向くことはなかった。どころか、博多を認識しているのかすら怪しかった。そんな危なげな中で久方ぶりに自ら顔を見せたかと思えば、表情をいきいきさせている父親の顔に目を剥いたという。
だから、藤君は特別なのだという。博多にとっても。父親を引き戻してくれた人。
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