ただ、もう一度――。
「サーヴァント、ルーラー。俺みたいなのを召喚しちゃって大変だと思うけど。でも、ま火急の事態みたいだし役には立てると思うよ」
よろしくな。いつもの笑顔で、ニッと笑うと少女は安心したように笑った。アインツベルンの末だという少女は、事態を重く見、魔術師にしては珍しく正義感から最後の希望として無理矢理召喚を行なったという。
すでにクラスは揃っている。残るは、この異常事態をどうにか切り抜けるための特別出演枠。
聖杯戦争は、終わった。キャスター陣営の勝利という結末を迎えた。少女もその結果には納得していた。
しかし、キャスター陣営のサーヴァントは願ってはいけないものを願ってしまった。この世の理を壊すそれをうけ、正に世界は今破滅の危機へと陥っていた。
マスターはサーヴァントの願いをその命で無理矢理に贖わされ、その命と引き換えに願いは叶えられた。
少女は事態を変えるために願った。すでに己のサーヴァントは消滅した。けれど。この世界の破滅の危機を、その世界自体が回避することを望んでいるのなら。ならば。
そうして、特別出演枠――ルーラーが召喚されたのだ。
但し。少年はこの世の理を乱すサーヴァントがいる方を見やった。
どろり、どろり。この世全ての悪かというほどの混沌が漏れ出している。あれは人類の絶望だ。ルーラーには分かった。この世にあってはならないもの。
けれど。
「行こうか」
少女へ、手を差し伸べる。
少女はその手を恐る恐るとり、小さな手できゅっと握り返した。驚くほど小さな温もりに一瞬目を瞬かせ、ルーラーはにっこり笑った。
「大丈夫だよ」
まるで母親の体内のように安心する声音だった。
少女はひとつ頷き、ルーラーに手を引かれた。
アンリ・マユ――この世全ての悪。
ならば、あれはなんと言おう。あれは、悪よりもなお正しくないものだ。この世にあってはならないもの。産み出してしまった時点で理を変えてしまったもの。
けれど、キャスターは産み出した。己のマスターを弑し、この世全てを混沌に満たして。たったひとつの願いを叶えた。
ルーラーはその願いを知っていた。サーヴァントの正体も。願いの理由も、すべて。それはクラス補正からなるものではなかった。
一歩一歩踏み出すごとに足が重くなる。けれど隣を歩く純粋無垢な目に奮い立たされていた。
「ねぇ」
ルーラーは、重い口を開く。
「この世全ての悪って知ってる?」
いいえ。少女は答えた。
「人類悪って、もとは人類愛から産み出されたものなんだって」
ならばこの世全ての悪とは、この世全ての愛であろうか。
あれは? そうだとしたら、あれはなんになる?
どろり、どろり。混沌が漏れ、街を炎へと変えていく。
あれはあってはならないものだ。この世全ての悪よりも正しくないものだ。
けれど。
ルーラーは唇を噛み締めた。
けれど。
その先を思って、血が出るほどに噛み締めた。
あれの正体を知っている。願いの理由も、願いの行き着いた先もすべて。それを正し、あるべき聖杯戦争へと戻すのがルーラーの役目だ。この少女の願いを受けて召喚されたサーヴァントとしての役目だ。
だから。
「醜いね」
ええ。少女は答えた。瞬間、ルーラーは哀れになるくらい表情を歪めた。
「そうだね」
ぽつり。落とされた言葉は、混沌とともに地へと落ちた。
ああ、とても醜い。そうだとも。あれはこの世の理を乱す。
だけど。でも。
そうっと瞼を閉じた。そして、ゆっくりと開く。
だからこそ、あれを正さなければならないのだ。他ならぬ自分が。
キャスターは、動かずにそこにいた。
じっと目を閉じ、それを抱えて待ち構えていた。それは形もすでに留めておらず、どろりとしていた。
少女は、息を呑む。
「キャスター、クー・フーリン」
ルーラーは、その名を紡いだ。
どろり。混沌と同じものが開かれた瞼から見えた。赤の目はどろりとしたものが溢れ、すでに侵食を受けていた。魔力は変質し、ただ座しているだけでも限界なのだろう。すでに霊基は還りかけている。
「俺は、ルーラー。この聖杯戦争の結末を正す者。この子の願いを受けて召喚された者」
キャスターは、じっとルーラーを見詰める。しかし、その目はもう機能していない。姿形さえわからない。
「令呪解放。サーヴァントルーラー、真名を藤丸立香」
その名すらも、キャスターには届かない。耳も機能していない。
「あるべき場所へと還れ」
手の甲に穿たれた令呪が光を放ち、ルーラーを包み込む。
こぽり。キャスターの口からどろりとしたものが溢れた。
ルーラーはまたもや表情を歪め、すぐに戻した。
「これはすべての路。すべての魂の辿り着く場所」
令呪の光が強くなり、それはキャスターへと向けられた。
「もういいよ」
ルーラーの頬を、一筋のしずくが流れる。
「かえろう。キャスター」
まるで手を差し伸べるように、ルーラーは笑った。
「帰城せよ――遥かなる旅路の終着点(グランド・オーダー)」
光が、溢れた。
少女は顔を背け、光を逃した。
キャスターへと光は走り、この世の理を乱す混沌もろとも包み込まれていった。
ルーラーは光の中を歩く。その目線の先には、最早生きた骸があるのみだ。こつり、こつり。靴音だけが響く。
目の前まで立つと、その手には剣が握られていた。神聖なる気配を感じるものだった。剣先はキャスターへと向けられる。
それは、一瞬のことだった。サーヴァントの心臓を貫き、血を滴らせる。
「もう、いいよ……っ」
ルーラーは、両の目から大粒の涙をこぼした。ぼたり、ぼたり。
崩れ落ちる前のキャスターを抱いて、毅然とした姿とは打って変わってぼろぼろと涙をこぼした。
キャスターの口が、僅かに動く。
「りつ、か……」
瞬間、ルーラーは大きく目を瞠った。そして、泣いた。わんわん泣いた。
背中に手が回ったかと思えば、すぐに消えた。
どんどん己の感覚も消えて行った。
その正体も、願いも。そして、その理由もすべて知っていた。
クラス補正でも真名看破でもない。すべては他ならぬ己が原因なのだ。
生前、人理を正し、異聞帯を正し、地球を救ったルーラー藤丸立香は人知れず英霊のひとつに名を連ねた。聖杯戦争に呼ばれることはなく、なんともまあ気楽なものだった。
ひとつだけ気がかりなことは、生前の恋人だけ。それこそ正にキャスター、クー・フーリンだった。
特異点Fから立香の良き師であり、次第に恋人へと変わって行った彼は願い虚しく立香を残して座へと還った。それは彼の霊基に残るほどの後悔を生んだ。やがてそれは願いへと変わり、執念となった。
今回の聖杯戦争に召喚されたキャスターは、藤丸立香の記憶や記録をすべて引き継いで召喚された異例のサーヴァントだった。他のサーヴァントの奮戦虚しく、その願いの前に倒れ、彼は聖杯を手にしてしまった。
願ったのはただひとつ。今は亡き恋人をその手に抱くこと。
そのために己のマスターを弑し、その命で罪を贖わせ、代償とし無理矢理に生き返らせた。
しかし、それはこの世の理を乱すものだった。それは混沌を産み、街ひとつならず世界までをも飲み込もうとした。
その責を負えとばかりに、ルーラーとして召喚された瞬間から知っていた。この結末も、すべて。
巻き込まれてしまった少女を見遣る。アインツベルンの残した末。幼い少女。
どうか。どうかこの子の旅路に幸あらんことを。
消えゆく意識の中、光へと変化していくキャスターを掻き抱いた。
もうここにキャスターはいない。この世の理を乱す混沌を生み出してしまった瞬間から、中はすべて混沌へ持っていかれた。剰え、生き返らせたはずの恋人ですら混沌へと一瞬で化してしまったのだ。
これが願いの結末。そしてその代償。
贖うにはルーラー一人の命では安すぎるがほかには何もない。
「キャスター」
数多くいるクー・フーリンの中で、彼だけをそう呼んだ。数多顔を揃えるキャスターの中で、彼だけを。ルーラーはつぶさに覚えていた。
「り、つ…………」
紡がれた名前は、最後まで言葉とならず消えて行った。
そして、ルーラーも粒子となって消えて行った。後に残されたのは燃える街と、一人の少女だけだった。
少女は取り残された街の中でぽつんと座り込み、やがて立ち上がって歩き出した。かつての少年と同じように、強い目を抱いて。
ただ、もう一度――
好機だと思った。座へと持ち帰った記憶と記録それら全てを持ち合わせ、なおかつ心すらも持っていた。俺は、俺だ。他のどの自分でもない。紛れもなく自身であると確信があった。
マスターは気のおけるいいやつだったが関係ない。すべてはたったひとつの願いを果たすために。
願いはないというキャスターへ訝しんだ目を向けていたが、次第に打ち解けていき、そうして死んだ。他ならぬキャスター自身に殺されて。
しかし、聖杯は願いを叶えられなかった。否。叶えたのだ。器だけをよこして、この腕に抱くという望みを。
違う。そうじゃない。俺が欲しかったのはこれじゃない!
泣き叫ぶこともできず、意識は遠のき、混沌に支配されていくのを感じた。
どれくらい時間が経ったのだろう。ふと、光を感じて手を伸ばす。それは随分とよく知っている光だった。
「りつ、か……」
ああ、そうか。その瞬間キャスターはわかった。
そこにいたのか。おまえはずっとここにいてくれたのか。なんだそうか。願わなくともよかったのか。なんだ。俺は何をしていたんだ。全くおかしな滑稽劇だ。
クツリ。笑みがこぼれる。
「もういいよ」
バカだなぁ。そう言って、笑っていた。
そうだなぁ。バカだよなぁ。まったくなにやってたんだか。
「かえろう」
いいよ。
ああ、あったかいな。おまえさんはいつだってあったかくて、それでいて強くて。ああ、だから。
だから、もう一度会いたかった。
「り、つ、…………」
ただ、もう一度。おまえさんに会いたかっただけなんだ。
溶ける意識の中、柔らかな笑顔を見た。己という核がすでに消滅しているというのに、それをわかっていながらもおかしなことにそう感じた。
「キャスター」
数多いる英霊の中で、ただ一人だけ己のみが呼ばれていた。それに優越感をもっていた。
だから、なぁ。これだけは持って行っていいだろう。
抱き締めた体は温かく、あつく。
キャスターは光に包み込まれて、粒子へと消えて行った。
好きだ。好きだ。愛してる。
だから、ただもう一度だけ。この腕に抱いて、おまえが笑ってくれたらとそう願わずにはいられなかったんだ。
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