その願いを引き裂いて、
「行け!」
 普段滅多に声を荒げないおとうさんが、きつく眦を釣り上げたのを感じた。
 こちらを見ない、振り返らない背中。私を庇う、小さくて大きな背中。
 私の前に伸びた腕は境界線を示していた。
 迫り来る敵。恐ろしさが全身を駆け巡る。
 足が、震える。
「行けぇっ!」
「っ……!」
 叱咤した。震える足を叩き、転びそうになりながら動かす。
 早く。
 早く。
 早く。行かなくちゃ。
 怖い。おとうさんがやられたら、あいつは私を追いかけてくる。やられたら――。
 おとうさんのところにいればよかった。おとうさんの側なら怖くなかった。
 でも、怖かった。
 殺されるかもしれない。死ぬかもしれない。
 死。恐怖。目の前で悠然と立っていた。
 喉がカラカラになるくらい走って、走って、走る。
 たすけて。おとうさん、たすけて。
 だれか――!
「小姫?」
「っ、」
 ボロボロになって辿り着いたのは、のんきに籠を背負って今から野菜を収穫するようないでだちの人。
 着いたんだ。生まれ育った家屋を前に、呆然と立ち尽くす。
「小姫?」
 はっ、と我に返る。 籠を背負った顔に傷のある人が、不思議そうに私の顔を見詰めていた。
 本当に不思議。顔に傷があるのに、恐怖だけが占めていてなんにも考えられなかったのに。産まれた時からずっと側にいたから、かみさまにも見えた。事実、末席と雖も名を連ねるのだけれど外見からはとても想像がつかない。
 ぶっきらぼうで喧嘩早くて、戦好きの戦闘狂。頼りになるんだけれど突っ走るのがたまにきずなのよねぇ。
 戦に出る度に特攻して、傷や返り血を自慢して帰ってくるような人だった。おかあさんが怒っても気にかけた風もなくけろりとしていて、困ったように笑っていた。
 ちがうよ、おかあさん。
 目を丸くしている彼へ、まろび、縺れ、縋り付く。
「たすけて!」
 何かを察した彼の双眸に鋭い光が宿る。
「……どうした、小姫」
「たすけて、おねが、たすっ、たすけ……」
「落ち着け」
「おとうさっ…おとうさんが!」
 たったそれだけで、その人は全て理解した。
 籠を放って、家屋へ引き返す。
 ものの数分もしないうちに、戦装束と刀身を片手に現れた。すれちがいざま、ぐしゃりと頭を撫でてゆく。
 私が来た道をゆく彼の背中を、へなへなと座り込んで見送った。
 その後に続く足音と影。
「小姫、任せて!」
「帰ってくるまでにその涙拭いておくんだよ?」
「僕がいるから大丈夫ですよー!」
「心配よりも驚きを用意しておいてくれよ」
「真作を信じてくれ」
 ひとつ、ふたつ、と五つの手が続けざまに撫でてゆく。それぞれ優しかったり、荒ぽい手つきであったり。
 誰しもが、笑って。
「み、んな……」
 今から死にに行くようで、助けを求めたのが誤りであったかのようにゾッとした。
 どうしよう。みんなが死んでしまったら。いなくなってしまったら――私の、せいで。
「小姫」
 ふわり。言葉と同じ優しい感触が肩にかかる。
 振り返ると、金色の眼差しが覗く。
「お身体に差し障ります。どうぞ、中へ」
 温かいものが目の中にもあって、水たまりの視界でも案じてくれているのがわかった。
「ご案じ召されますな。あれらは、強いですぞ。そこらへんの輩には負けません」
 揺るがない、真実。信頼。
 体温を持つ手が、私の肩に触れた。そこから安心や温かいものが恐怖を丸め込んでいくようだった。
 だけど。
 ねぇ。だけど。
「小姫」
 動かないことを気遣ってか、白手袋がそっと立ち上がらせる。
 この人は、いつだって優しい。
 弟達といたずらをしたらこっ酷く怒るから死ぬほど怖いのに、わんわん泣くと決まって弟達には内緒ですからねと、頭を撫でてくれる。
 知ってたよ。弟達にも同じことをしていた、って。だけど、私だけのおにいちゃんみたいで嬉しくて、ぎゅうって抱き着いた。
 おやおや。これは困りましたなぁ。弟達より小さな妹を持つことになろうとは。
 困ったような口ぶりで、でも優しく笑う彼が大好きだった。
 本丸のみんなが私のおにいちゃんだった。
 ずっと、一緒にいて、守ってくれた。
 それなのに、私は一人で立つこともできない。
 情けない。
 おとうさんの娘のくせに。おかあさんの娘のくせに。戦場にも立てない。死にに行く彼らを見送るだけ。助けを呼ぶこともまともに出来ない。
 なんて、情けない! これが、彼らの妹。私。
 カッと体の内側から熱くなった。

 ――下がってて

 もうやだよ。おとうさんに庇われるのは。
 一人で残して行くのは。置いて、逃げるのはやだよ。怖いよ。
「小姫……!」
 光が、溢れる。
 胸のあたりから発する強い閃光はぐぐっと突き出て、形を成す。
 [[rb:私はこれを知っている >・・・・・・・・・・ ]]。
 確かな感触を指先に掴むと、悲鳴があがった。
「いけません!」
 ごめんね。でも、もうやなの。
 身体中に力が湧き上がる。身体が軽く、全身へ血のひとすじひとすじ、指先までをも力が駆け巡る。疲れなどはじめからなかったようだ。
 全身へ行き渡るのを感じたと同時に、地を蹴る。
 軽い。先程までの自分がなんだったのかと思うほど、視界が何倍もの速さで変わってゆく。
 来た時とは半分にも満たないうちに、大きな身体と目に黒い光を宿した集団を視界に認める。
 対峙するのは、少し前に見送った背中。
「小姫っ」
 真っ先に気付いたのはおとうさんだった。
 だが、その一瞬、気を取られてしまった背後に大太刀が迫る。
 振り下ろす。
 危ない!
 声は、なかった。
 思考と同時に、握ったこともない刀身が答えたような気がした。
 がら空きの足元を切り崩し、おとうさんを片手に滑り込む。
 敵から距離を置く。敵と刀を交えていた彼らが、一斉にこちらを振り向いて目をむく。
 その僅かな動揺を敵は突く。吹っ飛ばされ、思い切り傷を負い、或いは察知して運よくかわす。
 ほっと胸をなでおろすと、横から叱声がとんできた。
「どうして戻ってきた!」
 怒り心頭、背を向けた時と同じく眦を釣り上げる。真っ赤な目が、感情に反映して色深くなっているようだった。
 きゅっと唇を結ぶ。感じる、命。
 大丈夫。まだ、生きてる。ここにいる。
 眼帯をつけた黒い男が、傷を庇いながら声を荒げた。
「一期くんに任せたはず…っ」
 どうして。
 その問いに対する答えを、私は捨てることが出来なかった。
「だって!」
「っ、」
 おとうさんが口を開くよりも先に、言葉を紡ぐ。
 だって。
 赤い目が、緩く瞠られる。
 それだけで生きてると感じられる。視界がまたもやぼろぼろになっていって、涙の膜で覆われる。
 くしゃりと、おとうさんの胸板あたりを掴んだ。
「怖かったんだもん……」
「こ、ひめ?」
「おとうさんのいないところなんていや! おとうさんを置いて行くのも、全部いや。すごく怖いの!」
 置いて行かれる恐怖よりも、置いて行く恐怖が強い。おとうさんがいなくなること、そのものが恐怖を示していた。
 涙の先で、おとうさんを映す。
 おとうさんと同じ赤い目で、キッと見据えた。
「私も、戦う」
 息を飲む音が、戦場にあってやけに大きく響く。
 決して刀を握らせてくれることはなかった。けれど、使い方は身体に染み込んでいた。
 私の脇差をかまえ、敵を真正面から見据える。
 一瞬、おとうさんを視界に映した。
「でも、怖いから、一緒に戦ってね」
 何故だか、笑ってしまった。
「さぁ、はじめましょう」
 気付かないで。柄を握る手から全身へ渡る震えに。
 おとうさんを殺そうとした大太刀が、再び私の前に立つ。
 あれは隙をついたから出来たことだ。攻撃ではなく、逃げるためだったから。
 だが、まともにやりあって脇差が大太刀に敵うわけがない。
 それでも、戦う。
 もう敵は私とおとうさんを狙い定めてしまった。
 地を、蹴る。
「はぁあああっ!」
 雄叫びは、弱々しいものだった。震えを取っ払うためだった。
 敵に突っ込む私を、おとうさんの手が捕まえることはなかった。
 一合、二合。
 やはり脇差では真正面からの攻撃は厳しい。何度目かの交差で吹っ飛ばされる。素早く体勢を整え、敵を視界から外さない。
 真正面にいるのにも関わらず、敵はずしんずしんと大きな足音を立てて近付く。必要がないのだ。いくら戦いの血があっても、経験はない。実力差を計れないわけがない。
 隣へ同じ脇差がとんでくる。
「小姫」
「青江!」
 大きな同族と比べ、あまり傷を負っていないようだ。彼は同じく敵から視線を外さず、体勢も崩さなかった。
「小姫。いいかい。敵の隙を突くんだ。お尻の重たい連中が突いているからその隙を。戦闘のことだよ?」
「こんなときにまで冗談だなんておかあさんに怒られるよ」
「指南だよ。いいね。今剣の動きよりも僕を見るんだ。大丈夫。彼の血が支えてくれる。出来るなら、蜂須賀くんや同田貫くんを支えて。――来るよっ!」
 言いたいことを終え、彼は後方へ跳ぶ。反対側へ跳ぶと、先程までいた場所に大太刀が振り下ろされる。
 返り血を浴びた男が、のろりと刀を振り上げる敵へ一撃を食らわせた。その背中は決して立ち入らせてくれないものだった。
 昔からそうだ。小さいおにいちゃんたちよりもいたずら好きで、こっ酷く叱られるような人なのに、ここという時は譲らない。頑固で、それなのに甘やかすのが一等上手いのだ。
 たった今まで指南していた男は自分の戦場へ走って行ってしまった。
 ここに自分は必要ない。青江が鶴丸の作った隙をついて攻撃を繰り出す。
 ああは言ったけれども、おとうさんはきっと動けない。動いているのが不思議なくらいボロボロだった。
 ひとりで立つんだ……!
 だてにおとうさんの血を引き、本丸で育っていない。脇差はサポートだということくらい分かってる。実戦経験はないけれど、今はこの身に流れる血だけを信じるしかない。戦況は一貫して変わらない。このままでは全員共倒れだ。
 恐怖が足を絡める。振り払い、蹴る。
 彼の言葉通り、蜂須賀の後ろにつく。気配で察した彼は一瞥を寄越し、視線を後悔に歪ませた。
 それも一瞬。敵に自ら突っ込み、剣戟をかわす。
 その隙を突き、刀を振り下ろす。
 肉を切る感触と音がいやに身近にあった。
 私が戦いやすいように動いてくれているのが分かる。足手まといになっていることも。
 青江と、蜂須賀の動きを、目をかっぴらいてよく見る。一瞬も見逃さない。
 経験値が上がっている感じが全くしない。かと言って、今更投げ出すことも出来ない。
 敵が攻撃を私に向けるたび、蜂須賀がその身を挺して庇う。
「はぁああっ」
「小姫、息が上がっている! 無理をするな。加州を守るんだ!」
 ちらと目に入ったおとうさんは、後悔を滲ませていた。
 ちがうよ、おとうさん。そんな目をさせたかったわけじゃない。
 ごめんね。
 でも、もう動かないんでしょう?
 音もなく、視線を外した。
 腕に抱かれているのは、長い髪の女性。ぬばたまの髪色が美しくて、いつもおとうさんが丁寧に梳っていた。丹念に手入れをして、キスをしていた。私が生まれてからは、二人分。
 もう動かないのでしょう?
「いいえ! まだ、……大丈夫っ」
 私は、まだ動くわ。
 後ろめたさか、背を向ける。あの時とは真逆。
 蜂須賀は双眸を眇め、敵へ切り返す。その合間を埋めるように、極力邪魔をしないように切る。
 ねぇ、おとうさん。
 怖い。怖いわ。不思議ね。おとうさんが近くにいるのに。おとうさんから貰った刀を使っているのに。こんなにも手が震える。
 こんなにも、切ることが怖い。足が震える。
 ねぇ、おとうさん。

 ――…………

 視界に入れたのは、一瞬。
 しかし、たった髪一本ほどの間に、敵の刀は頭上にあった。
「小姫ぇっ!」
 あちらこちらから、悲鳴があがる。
 ダメ。
 もう、ダメ。
 おとうさんの娘として失格ね。目を瞑ってしまったわ。
 終わりを感じた。刹那。
 肩を引かれる感触。次いで、抱き留められる。
 [[rb:知っている、これを > ・・・・・ ・・・]]。
「俺の娘に、手ぇ出すな」
 刀身が、鈍く光る。剣先を敵へと突きつけ、直後喉元を掻っ切った。
「殺すぞ」
 鋭い光を走らせるおとうさんの顔を横から見つめる。
 これが、おとうさん。
「おと、……さん」
 呼んでも、こちらを見ない。
「小姫!」
 言葉を紡ごうとした矢先、来た道から続々と見知った顔が現れる。
「無事だな、小姫!」
「ああ、よかった…」
「帰ったらいちにいからお説教ですよ!」
「いちにいだけではないと思う」
「皆お怒りですぞ!」
「み、んな……」
 軍勢はあっという間に覆り、敵は押されていく。
「そう、だね…。……うん……うん……」
 それ以上、言葉に出来ず、ぼたぼたと落ちるそれをぐしゃぐしゃに拭った。
 瞬間、かたいものが顔面に押し付けられた。腰に手が回り、きつく締め付ける。
「二度とするな。こんな……こんな真似、二度と……!」
 震える声。手。心臓の音。
 怖かったんだ。おとうさんも怖い中、ずっと戦ってたんだ。
 私と同じ。
 だけど、頷くことは出来なかった。
 知っていた。もう戻れないことを。刀を握ることも知らなかったあの頃とは違うのだと、はっきりとわかってしまった。
 そして、それをおとうさんも感じている。
 力があるから、私は走ってしまう。
 敵はあっという間に消え、私はまともに戦果を残せぬまま帰還を果たした。
 いちにいだけではなく、歌仙や燭台切、蜂須賀に三日月。青江まで眦を釣り上げて、歌仙などはぼろぼろ泣きながら怒るものだから悪いことをしたのだと思った。
 後で聞いた話によると、私は生まれた時に刀を持っていたらしい。けれど、過ぎたる力は災いを呼ぶ。自分の身一つ守れない私に刀を握らせないために、私の中に封印してたらしい。故に刀どころか武器も何も触らせず、蝶よ花よと育てたようだ。
 こってり怒られた後、おかあさんを見送った。現世のような式はしてあげられなかったけれど、しめやかにひっそりと行われた。
 私を守って逝ったおかあさんを抱きながら戦っていたおとうさんは泣いていたらしい。私を見送って、化粧が崩れるほど泣き腫らして見ていられない状態だったようだ。
 その日はおとうさんの隣に潜り込んで、二人で一緒に泣いて眠った。それから暫くして、新撰組や他の刀も入って来たので、大広間で眠るようになった。誰かが泣いては、誰かが慰めた。
 おとうさんは私をずっと慰めて、おとうさんを慰めるのはきまって新撰組の他の刀だった。
 のこされた私を守るように、大事に抱いて、おとうさんは泣き腫らした目で眠る。
 私がおかあさんの後を継ぐのに一番反対して、顔も合わせてくれないこともあったけれど、寂しくなってまた私を抱き締めて眠った。
 私は今でも忘れない。
 おとうさんのあの背中を。

 ――俺の娘に手を出すな

 おかあさんと私を抱いて、敵に刀を向けたおとうさんを。
 刀を握る手の震えを。
 私は、もう忘れることが出来ない。
 隣で体温がなくなってゆく、おかあさんの身体と一緒に守られたことを。

     
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