仄か
 安倍昌浩は、齢十七になろうとしている陰陽師である。
 祖父の代から続く安倍家は、父、兄、更には伯父やその息子たちにまで脈々と受け継がれてきた強い力を持っていた。祖父の父益材に関してはあまりきいたことがない。だが、母であるという天狐の血が由縁しているのだろうと、人は言う。事実、昌浩含む安倍家はそのとおりなのだとなんとなく思ってきたし、祖父も否定したことはない。
 嘗て、悪しき狐と対峙したことがある。その力は壮絶で、祖父や昌浩らも苦しめられた。もう一人の狐の助けがなければはたしてどうなっていただろうか。
 ああ、いや。
 確かに流れているのだ。この身には。
 こと昌浩は天狐の血が力及ばないばかりに暴走しがちで、今は出雲の大神から頂戴した石がなければ見ることもかなわない。
 安倍家は代々強い見鬼の力を有している。とある姫君には劣るが、その力は他を容易く凌ぐほどで。昌浩に力で及ばない安倍家も、陰陽寮の人間に比べればその力はかくやと言われるほどである。
 昌浩は、その力を失った。
 大切なものを守るために一度命を落とした。
 大切だった。大事で、ずっと笑ってたらいいなぁと思ってて、その命が在ることが大切だった。
 大切すぎて、自らの命と引き換えにしてしまった。
 本当は寂しくて、ずっと笑っていてほしいのにもう会えないのは辛くて。それなのに忘れられてしまうのだと、望みを覆してしまいそうになるたびに押し込めて。大切な祖父に悲しみを分けてしまった。
 川の向こうで背中を押してもらえなければ、昌浩は今ここにいなかった。
 この命をずっと大事にしたいと思っている。
 仮令、代償として陰陽師に必要な見鬼の力を失っても悔いはなかった。命の運命を覆すというのはそういうことだ。
 そうして、昌浩はもう一つの夢と約束を守れたのだ。
 いつか。そう。いつかでいい。ずぅっと後になってしまうだろうけれど。いつか。それがあるのなら。
 しかし、今は不可能である。
 昌浩少年はむむと顔を顰めた。
 あの時全力で引っ張った命は傍らにない。今はもう一人の強い護衛と戦略でもしているのであろう。あの二人が修行まがいのことでも始めたらこの郷ですらどうなるか分かったものじゃない。
 そう。ここは、安倍家ではない。
 もうすぐ十七になろうとしている昌浩少年は、自分の力不足を補うために元許嫁である螢の住まう菅生の郷にて修行している。
 小さな頃は祖父晴明にその力を磨かれていたが、見鬼の力を封じられて以来、それすらも怠ってきてしまっていた。更に、一時期陰陽師になどなってやるものかと息巻いていたこともあり、螢に比べると見劣りする。
 よって、己の不足を補うために夕霧や氷知といった現影たちの力を借りて修行に明け暮れる日々であった。
 のだが、
「いやぁ。今度こそ、俺、死ぬんじゃないか? これ、俺の命の危機なんじゃないか? じいさまにもおっそろしいめにあわされたけど、なんとなくあの二人は容赦がない気がするな。うん。そうだな。あれかな? やっぱり螢との結婚をなしにしちゃったのがまずかったかな? いやでもだめなものはだめだし……」
 それに、心に想う人がいるのに結婚などと、彼女にはそれこそ悪い気がする。
 と、実はまったくそんなことないのだが、全然的外れな思考に耽る昌浩の上に陰が広がる。
 頭上に差し迫り、漸く気付いた昌浩は慌てて飛びのいた。
「うわっ」
 命からがら、ひやひやしながら自分のいた場所を見詰めるが、すぐに二手、三手と陰が続く。
 考える隙もなく、不恰好にも逃げ惑う昌浩の遠く上にて二人。ふむと思案する人影があった。
「おお。よけたよけた」
「少し前だったら当たっていたのではないか?」
「ああ。不恰好だが成長だ」
「よもやこのような形で成長を垣間見れるとは」
 不恰好にも逃げ回る昌浩に、ひょいひょいと次々大岩をくりだすのは夕霧と氷知の二人。今日は螢の護衛は神将の二人に任せてある。
 昌浩の修行のためならばと快く送り出してくれた二人は、間一髪なめにあわされていようとも黙認していた。
 螢に比べると力不足が目立つ昌浩であるが、今までは火事場の馬鹿力でなんとかしていたのだ。だが、ここ最近はそれだけではうまくやっていけなくなってきた。力だけではだめなのだ。
 というわけで、泣く泣く谷に突き落した二人ではあるが。
「どことなく楽しげであったのは気のせいだろうか」
 夕霧の呟きに、氷知は沈黙で返した。
 あの晴明の式神として長年付き合ってきたのである。ちょっとやそっとのことでは最早動じないのだ。
 しかし、二人はそんなこと知る由もなく。
 更に、螢と比べると昌浩の武芸の腕前はそれはそれは見事なもので、あんぐりと大口開いて感心せざるをえなかった。楽器など夢のまた夢。
 どうしてこれがあの安倍晴明をこえる陰陽師などどのたまったのかと、実力の一端を垣間見た氷知たちですら思った。
 螢と異なり、大半を陰陽師に捧げて来なかったつけを払うにはこの程度安いものだとは氷知と夕霧の見解である。
 正直な話、今は亡き時守の忘れ形見時遠の成長をあますことなくこの目で見届けたいのであるが、昌浩の修行のために泣く泣くたえているのである。その悲しみをぶつけているのだとは、本人には言うつもりはない。
 時遠は健やかに成長していた。時守に与えられた予言をものともしない風に、毎日笑顔のたえない子供となった。
 螢はその命を止め、時遠の成長を穏やかに見守っている。その予言に負けないように。
 夕霧と氷知は、二人のそばで時遠の成長を見守る時間が好きだった。
 時遠は時守や螢の血を感じる、確かに自分達の守るべき子だった。
「さて。氷知。そろそろよい頃合いではないか?」
「ああ。そうだな」
 二人は目線をあわせ、一刹那、眼下を見下ろした。
 そして、
「ぎゃあああああああっ!」
 大量の大岩を両手でひょいひょい投げ込んだ。







「うう。鬼だ……」
 みしみしと痛む身体をおさえながら、昌浩少年は与えられた家屋に辿り着いた。
 小さな白い物の怪と、髪の長くない神将がじっと眺めていると布団に辿り着くことも出来ずに倒れ伏した。
「……」
「……」
 二人は顔を見合わせ、小さく息をついてそっと頭を撫でてやった。












 榎笠斎は、にやにやと口角を上げた。
 いやぁ。今日もゆかいゆかい。
 自分よりもずっと小さな子供が慌てふためきながらも必死のていでひぃひぃよけていく子供を眺めていた。仕事の合間のいい休憩になる。
 時折どこからともなく冥官がやってきては、仕事が遅れているとひやりと冷たい声音を浴びせるのだが。
「おい」
 このように。
 ひやっと肩を震わせると、みこしていた冥官は冷え冷えとした目線で見下ろした。多分、この人(元)は、人を凍らせる才能でもあるんじゃないかと常々思っている。
「今から! あああああの今から! しますんで! 仕事! はい!」
 矢継ぎ早に言い訳とも言えないものを並べると、冥官はそっと双眸を伏した。
 視線の先は、
「どう、されました……?」
 ひょっこり窺う。
 少しの間それを眺めると、颯爽と去って行く。
 一体なんだったのか。
 ただひとつ分かることは、この人がこういった仕草をするときは必ずと言っていいほどろくなことがないのだ。
 それは、彼の手にすら余るほどに。











 目をかけてやっているつもりはない。
 そう断言すると、季は口の端に笑みを浮かべる。むっとすると、癪に障ったならごめんなさい、と素直に謝辞を述べるものだから可愛げがない。
 殊更可愛がってやっている自覚はあるが、可愛げはまったくと言っていいほどなかった。なにかといえば兄の後ろをついて回り、その目の奥の意味も知りもしないで懐く姿は些か滑稽であった。
 けれど、それは在りし日の――否、有り得たはずの自分を見ているようでもあって。ほんの少しだけ目が離せないでいた。
 目をかけてやっているというのに、よもやあの狐ならぬ大狸の季の下へ嫁ぐと知った時は殺してやろうかとすら思った。冗談じゃない。あれと繋がりが出来るなどごめんだ。
 それでも、兄が笑ってみてくると言うから。
 妹は、大丈夫だと笑うから。
 人の定めを覆すことの出来ない身を恨んだ。
 可愛がってやっているつもりはない。
 季に比べれば随分可愛いものだろう。
 周りに愛され、一身に受けて育った待望の次代だ。神将に愛され、家族に愛され、その愛を返す術を知っている。小憎たらしい口をきいてもまだまだ可愛いものだ。すぐに言い返されてむっと口をとがらせる。
 けれど、縁もゆかりもまったくない。馬のようにこきつかっている男の季だ。
 可愛がっているつもりはない。
 けれど、事実あの男の季は可愛いものなのだということを知っている。
 あの男の一番の親友が覗いていた情景をふと思い出して、ひっそり息をつく。
 人の世に降り立った冥官は足繁く通う季の元ではなく、今は同じ郷に住む子供の家にいた。
 寝息をたてる姿はまだまだ幼い。
 修行についていけずに怪我が絶えず、めきめきと実力をあげていっているのが手に取るように分かった。
 季ならば触れて前髪の一つでも払ってやるものだが、しなかった。
 代わりに、近くで身を丸めていた白い物の怪と、二番手の闘将が目を覚ました。
「なんのようだ」
 毛を逆撫でて威嚇してくる様は、物の怪というより猫だ。自分には全然懐かないから可愛くもなんともない。
 闘将は少し奥でじっと見ているが、筆架叉に手をかけているところを見ると、攻撃の意志があるようだ。
 まったくあの妖怪狸は。部下の躾もしていないのか。
 ともすれば、神将総出でくってかかりかねないセリフを内心淡々と零し、彼らから視線を外した。
 あの妖怪の季。狸の季。次代と期待され、越えると確信されている待望の子供。その力は未知数であり、白い物の怪が唯一心を砕く幼子。
 ふっと冥官は双眸を伏した。
「騰蛇、勾陳。席を外せ」
「何を…」
「……」
 冥官が何も言わないのを悟って、二人は家屋の外へ出た。
 二つの気配が出て行ってから、すよすよと眠りにつく幼子をまじまじと眺める。
 この子供を可愛いと思ったことはない。
 季ならば可愛がろうとも思うのだが、あの妖怪古狸の季だと思うと可愛いとはちっとも思えなかった。聡い季よりも、手がかかる幼子の方が世では可愛いと言われるのだが知ったこっちゃなかった。
 もうすぐ十七か。
 長いようで、あっと言う間だった。
 ずっと見守っていたわけではない。それは、自分の配下となった男だ。幸せな家庭を夢見て、叶わなかった男のなれの果て。自身の亡霊に心を痛めては、なかなか表に出て行けずふんぎりがつかなかった。
 いい加減鬱陶しいと思った矢先、幼子は心を壊した。
 一歩も踏み出せなかった男が初めて歩いた。手を引いた。
 それから何度も顔を合わせる機会があったのだが、未だに合わせにくいと思っている節があるなんともふんぎりをつけられない男だ。
 季は、男の結末を知っている。
 それでも、季は男を「すごい陰陽師」と慕った。自分の祖父にかなう術をひとつだけ持っているのだと。
 その目があれらの希望となっているのを、幼子は多分ずっと知らない。
 どうしてこの幼子が可愛く見えないのか冥官にはよく分からなかった。
 思い返せば、自分の子供ははたしてどうだっただろうか。好いた女との間に生まれた子供たち。
 ああ。そうか。
 冥官となって、鬼になって。愛しいものを数えなくなって。
 忘れていた。そこにあった感情を。
 愛しいものばかり覚えて、愛した記憶をすっかり忘れてしまっていた。
 その記憶は覚えていても、そこにあった記憶は置いてきてしまっていた。
 今でもつぶさに覚えている。産まれたばかりの子供。少しずつ成長していく過程。幼さが抜けていく。
 好いた女と二人で育てた記憶。
 川向うで長い間待っている一人の女がいる。何をどう狂ったのか、あの妖怪大古狸を待っている女だ。
 きっと、彼女もずっと待っている。川向うで待つことはない。それでも、もう一度再び巡り会える日を。
 愛した思い出を愛する日を。
 まったくとんでもない子供だ。置いてきてしまった感情すら思い起こさせるなど。この冥官によくもやってくれた。
 頬をつねってやると、むうぅと唸り始めた。まぬけ面だ。
 ふむ。よくのびるしもちもちしている。本当にまだ幼子なんじゃなかろうか。
 稍あって、子供はかけていてものを引っ繰り返して飛び起きた。
「いったい! ……え? あれ? ……あれぇ?」
 寝起きなのによくもまあ動き回る口である。
 冥官が感心していると、その口から「冥官殿?」と零れ落ちた。
 いつもの如く口角に冷たい笑みをのせる。
「久しいな。安倍の季よ」
「あ、はい。え? ……ええ?」
「どうした」
「え、い、いえ。何故、ここに……?」
「ああ」
 困惑している様子が見て取れて、自分の気配を感じとって毛を逆撫でた物の怪に比べたら可愛いものだと、それはまだまだ未熟者の証なのだと。皮肉たらしい笑みが落ちる。
「安倍の季。おまえ、いつまでここにいるつもりだ?」
「え? あ、あの、いつまでとかは決めてません」
「そうか」
 きっと季は心を砕くのだろう。彼女に似て人一倍心が優しい子供だから。
 そして、この季もそんな彼女に出来る限り心を砕くのだろう。
 それなのに、二人は番とはならない。
 それぞれが心に想う相手がいるからだ。
 けれど、二人は互いに心を砕きたがる節がある。まったく困ったことに。
 何がいいのやら。
 昔、自分の大事なもの以外にはちっとも心を砕かなかった冥官は呆れたていで見遣る。
「あまり、俺の季に気をやるなよ」
「へっ? え!」
 互いが互いを見ていないのなら、そこに心を砕くことは一番難しいことなのだと知っている。
 それでもなおこの季は心を砕き続けるのだろう。いつだって、その手の中にある多くの大事なもののために。
 大きかった幼い目が、成長を見せ始めている。しかし、感情の色はいつだって変わらなかった。
 困惑する季を置いて、冥官は郷を後にした。
 白い物の怪と、傍らに立つ闘将の視線が突き刺さったが、しらっと通り過ぎた。
     
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