2
うるさい。
ひそひそ。ひそひそ。
うるさい。
わたしがいったい何をしたっていうの。
ひそひそ。ひそひそ。
うるさい。
放っておいてよ。わたしが「ダメ」なら、見ないふりしてよ。
ひそひそ。ひそひそ。
もうなんにも期待なんてさせないで。
「っ…」
ハッと覚醒する。
やけに嫌な夢だった。思い出したくもない過去を次々ぶちこんで、決して逃れられはしないのだと追いつめてくるような。
いや。忘れたことなどない。忘れられたことなど、ただの一度も。
悪夢以外見たことなどないのだから。
だから、こうなっているのだろう?
自身の状況を思い出し、落ち着かせる。呼吸を整える。
はたと、目を瞠る。
落ち着いた思考回路で漸く思い至った。
視界に映る、居るはずのない何か。
恐る恐る視線を上げ、辿る。
「っ、……っ? ! ……っ!」
そこにあったものに悲鳴をあげそうになったが、残り僅かな理性が必死で押しとどめた。
「起きた?」
コン、と手を象って、それは言う。
「おはよ」
一切の表情がまるでないそれは、驚き声も出ない状況を冷静に眺めていた。
「さ、審神者殿! 目覚められたのですね、審神者殿!」
うるさい。
開かない口で、そう呟こうとした。
「叔父上」
お供の狐ではない方を見送って、鳴狐はその場を後にした。早く帰らねば、甥っこ達が起きてきてしまうだろう。ちいさな甥っこも、大きな甥っこも、中くらいの甥っこも。
自然と足を急がせていると、ここにはいないはずの甥が呼びとめた。
「何故ですか、叔父上」
いや。この甥は自分よりも大きくて、起き出してきてもおかしくはない。
少し侮っていたかもしれないと、こんなことで成長を感じてしまう。
「ごめん。心配、した?」
「そういうことではありません」
一体、あの者と何を話していたのですか。
ともすれば、切りかからんと刀に手をかけている。
ああ、本当に大きくなって。
この子は、甥だ。だと言うのに、叔父ですら切ろうとする。小さな何振りもの弟達を守るためならば、叔父の血を浴びることすら厭わない。
強張った顔で、睥睨する。キュッ、と固く結ばれた唇が震えを宿している。
――だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。
きっと、明日は大丈夫。お前達は大丈夫。
何度も、何度も。こわいこわいと泣く弟達を抱き締め、安心させた。気丈にも、這いずり回る掌から笑った。
「一期。あの人は、きっと他の誰とも違うよ」
「そんなこと…!」
「でも、同じかもしれない」
「……ええ。そうです。いつかあの者も化けの皮を剥いで、前任者と同じように私達に厄災を振りまくでしょう」
「うん。でも、違うかもしれない」
「叔父上?」
険を刻む双眸が、鋭く鳴狐を見詰めた。
鳴狐はふっと笑って、狐の手で一期の額を小突いた。
「だから、確かめてくるよ」
「叔父上」
「行こう、一期。早く帰らないと、みんなが起きる」
言葉を重ねようとした一期一振を制して、鳴狐は先を歩いた。
「同じだ。きっと……」
ぽつりと落とされた言葉が、微かに耳に届いた。
きつく結ばれた唇は出血しそうなほど。
左の二の腕を握る手は、震えていた。
「審神者殿! 審神者殿!」
「……」
「……」
約一匹を除いて、口を閉ざしていた。
元から鳴狐はあまり喋らないし、不得手だ。対して、審神者と呼ばれる人物はこれ以上ないほど双眸を見開いて、鳴狐をじっと見ている。驚きで言葉もない、と言ったところだろう。
お供の狐も口を開かない。最近は審神者の様子を窺うようにじっと口を閉ざしている。話すことが不得手なので、お供の狐が代わりに話してくれるのだが。
どうやら、審神者はなかなか意識を戻せないらしい。
仕方ない。鳴狐はつと指さした。
「……おんなのこ?」
「! ……っ」
露わになった胸元。昨日は全くなかった膨らみを即座に隠し、審神者は歯軋りした。
初めて表す威嚇。
枕元にあった刀をとり、抜き放つ。
「いけません、審神者殿!」
「うるさい」
「ですが!」
「ここで見られては台無しだ。殺す」
とてもではないが、全員を助けると言った口と同じものとは思えない。
ほう、と興味津々で観察する。
起き上がったことで分かる肢体は、何故気付かなかったのかと思うほど細い。くびれもあり、決して小さくはない胸は膨らみを持っていた。柔らかくてすぐに壊れやすいように見える。
刀をとる手は、震えていた。
「大丈夫。言わない」
「……」
「今は、言わない」
「……今は?」
「今は」
「いつ、言う?」
「分からない」
視線がぶつかり合う。
真意を探る目が、心の中まで見ているようだった。
やがて、審神者は刀を下ろした。大きな長い溜息を零した。
「今、言わないならいい」
小さな声は、辛うじて聞き取ることが出来た。
「どうして?」
間を空けて、鳴狐は訊ねた。
剣を収めた理由ではない。鳴狐の視線は審神者の身体へと注がれていた。打刀である鳴狐は太刀や大太刀、槍、薙刀の同族よりも細身で一回りほど小柄だ。それよりもずっと小柄で細身で、嫋やかな肢体は守ってやらねばという庇護欲を覚える。
審神者は自身の身体へ視線を移すと、その瞳から色を落とした。
「おれは、自分がこの身体で生まれたことを一番恥じている」
鳴狐は言葉を奪われ、一切の表情を消したそこから辛く重たいものを感じとりかけるものを見失った。
着替えて早々に審神者は軽い食事をとり、鳴狐を呼び寄せた。近侍を自ら希望してきたので、今日から勤めてもらう。
「まず、今日、何がなんでもこれだけは終えるぞ」
「なにを?」
大広間で話すには他の仲間の気配が気になったので、審神者の執務室近くに招いて廊下にて立ち話だ。お供の狐がこんのすけと戯れているがこの際放っておく。足元をちょろちょろと煩わしいが今はそんな場合ではない。
審神者はキッと両眸を鋭くし、自身の部屋となるそこを見遣った。
「……大掃除だ」
その手には、雑巾の入ったバケツと箒とはたきが握られていた。
ピクッと肩を震わせた鳴狐の肩をぐわしっと掴み、それはそれは素晴らしい笑顔を見せる。初めて見せるものだ。後ろに黒いものを背負っているが。
「勿論、おまえもだからな?」
近侍を志願してきたんだから逃げられると思うなよ。審神者の声が聞こえた気がした。
これは早まったかもしれない。今更ながら鳴狐は後悔した。こんなことですることになるとは露ほども思わなかったが。
命じられれば応えるのが配下の勤め。
鳴狐は審神者の執務室に足を運んだ。
「っ……」
入った瞬間、つんと鼻をつく臭い。朝入った時にも思ったが、やはり嫌な空気だ。
最初の審神者から散々同族達をいたぶった痕跡が残っている。こびりついて落とすのにも苦労する体液がそこら中に飛び散っており、よくこんな中でこのか弱い審神者は寝ようと思ったなと感嘆した。
「ふっふっふ。よくもまあ、こんなところでやってくれたものよ。いいか? 今日中に片すぞ」
言うが否か、審神者は畳を片端から剥がし庭へと放った。畳以外にこびりついた体液は雑巾でこすり落とし、それ以外のところも埃が積もっていたりと汚かったので雑巾とはたきを使って落とした。
審神者の身長で届かないところは鳴狐が。それでも届かないところは鳴狐が肩車をして。
それなりに駆使されることを覚悟していたが、審神者本人が目にメラメラと炎を宿し、一期一振あたりが目の当たりにしたら在りし日の悪夢を思い出して卒倒しそうな勢いだったので言われるがままに手伝った。
午前中早めにとりかかったが、昼をとり、夕方あたりまでかかった。
「あああああ! こんなところにまで!」
時に頭を抱え、
「知ってたさ! 布団が使えないだろうことはな!」
時には畳の取り払われた床に拳を打ち付け、テキパキと片す一方で忙しなかった。
更に、障子にまで体液が飛び散っていたので、こちらも紙をはがして汚れを擦り落とし、新しいものを貼った。
畳は新品を要請していたらしく、昼には届いた。
「今すぐ畳を用意しろ。あるだけ全部だ。あ? 無理? こちとらその無理をわざわざしてやってんだよ。いいから今すぐ持って来いや。でないと政府乗っ取って全刀剣を歴史修正主義者に売るぞ」
ドスのきいた声で電話口の政府の人間を脅しているところを見たのは、幸いにも鳴狐とお供の狐、それからこんのすけだけだった。本当にこれがあの嫋やかで細い、今にも折れそうな人間なのかと何度か自問自答を繰り返した。
脅迫――否。丁重なお願いにより、その日の昼には業者の手を使って畳は運ばれた。汗まみれだったのは気のせいだと思いたい。経費は政府に負担させたと言うのだから、これ以上心痛の原因になりそうなことは聞きたくない。
更に、布団もあるだけ運ばせたらしく、玄関に積まれたそれらは身の丈以上もあった。
そうこうして、やっと審神者の部屋の掃除が終わったのは夕方も過ぎた頃になったのである。
「明日は玄関隣の部屋だから」
暫くは戦いにも出れると思うなよ。
にっこりと、審神者は笑った。
「……性別、間違えてない?」
ぐうで殴られたのは理不尽だと思う。
夕餉。鳴狐は食事を辞退したため、自分とこんのすけの分だけの食事を作った。鳴狐は見ているだけだった。
手っ取り早く夕餉を作り、こんのすけと相対して食べる。本来食べなくてもいいのだが、審神者の願いで渋々ととっている。
会話もあまりなく、鳴狐は襖の前でぼんやりと審神者とこんのすけを眺めていた。
「さて、今日は誰の手入れをするかな」
「鳴狐殿はいかがですか?」
「……いいよ」
「そうか。おまえはまだ手入れをしていなかったんだったな。すまない。それなのに、今日は酷使してしまった」
「……」
気付いてなかったのか。鳴狐の視線に気付いた審神者は罰が悪そうに逸らした。
「あまりにも普通にしているから忘れてた」
「……」
本当に大丈夫かコイツ。
「この後、手入れ部屋へ行こう。……明日はゆっくり休め。掃除は、いつでも出来る。取り敢えずおれの部屋を確保できたから、後はゆっくりしよう」
静かな双眸から、頷きが返った。
夕餉を終えると鳴狐を手入れ部屋へ入れ、審神者は部屋を後にした。
こんのすけを連れ、執務室へと戻る。
「さて、こんのすけ」
「はい」
「夜戦は、夜目がきかないから厳しいと言っていたな」
「そうですよ! 短刀や脇差の方々ならば上手く戦えますが、大太刀や太刀など大振りの方々は難しいのです」
「そうか」
審神者は零し、ならば、と口を開く。
「人ならどうだろう」
「審神者殿っ?」
「おまえも知っているだろう? 全員の手入れをしていたら、資材が足りない。このままでは」
「ですが」
「剣の心もないが、函館あたりなら大丈夫だろう」
「審神者殿!」
「なに。戦場へ出る審神者もいるのだろう? それに倣うだけだ」
浮かべられた笑みは、審神者にしては珍しく苦いものだった。
布団と一緒に運ばせた戦装束を纏い、愛用の刀を佩いて部屋を出る。危ないので、こんのすけはゲートまでだ。
足を忍ばせ、人目を忍ぶ。
深夜。誰の気配もなく、ひっそりとしたその雰囲気がより本丸の中の血生臭さを思い出させた。
ゲートの前まで着き、審神者は刀を抜いた。
額に刀身をあて、目を閉じる。
「行こう」
やがて、審神者はゲートを潜った。
審神者を案じるこんのすけの目がじっと窺っていた。
血のにおい。
土煙。
蹄の音。
夜闇に、深く星が瞬く。
地図とにらめっこをして、先を行く。一番簡単な戦場ではあるが、まったくの初心者である審神者には難しい。一瞬の油断も許されない。取り敢えず、一勝だけでもしようと決めた。
地図に従って進むと、やがて戦場のにおいがした。
気配を探る。
散り散りに感じるいくつもの気配。
一歩を慎重に進む。
茂みから一瞬にして向かってくる何か刀を抜く前に、地へと蹴飛ばされた。
「ぐ……ぅ」
目線を上げれば、物言わぬ骨が目を光らせていた。
これが、敵――歴史修正主義者。
最悪なことに、刀は弾き飛ばされた。
まずい。
死がひたりひたりと迫っている。足音が耳元すぐ近くまで来ている。
死んでたまるか。
まだ、夢も野望も願いも何も叶えていない。ここで倒れては損ばかりではないか。
なんのためにここへ来たのか。
右足をおもいっきり地へと叩きつけ、反対の足で蹴りあげる。敵が飛ばされた隙に後退し、間合いをとった。
一応難を逃れた。が、未だ足音はやまない。
すぐさま敵の第二撃。集中を全開にし、すんでのところで避ける。
刀は当てにならない。敵の後ろにあった。
ならば、あそこへ行くには。
頭を回転させ、敵の僅かな隙を縫ってすり抜けようとした矢先。背後から一閃。
「う、あ…っ」
脇腹を突いた一撃はまさしく勝利の一歩だっただろう。
来るな。
死が迫る。
助けて。
叫びそうになり、きゅっと唇を閉じた。
誰に?
誰が?
いない。
ここには、自分しかいない。
気付けば、昨日刺した箇所が熱を持っていた。
刀剣と違い、人間である審神者は手入れで治らない。死は等しく訪れる。
にたぁ。二振りに増えた敵が笑う。
来る。
咄嗟に刀をとった。抜刀し、一撃目と交える。
次いで、第二撃。
肩から切りかかってくる。血飛沫を上げ、鮮血が放たれた。
「あああぐ、あぁああっ」
ああ、こんなことなら鳴狐に来てもらえばよかった。薬研ならば、来てくれたかもしれない。手入れの代償だと脅せば。
ダメだ。
即座に否定する。
にたり。
剣を振りあげる。
目は、閉じない。閉じることが出来なかった。
そして、振る。
誰へとも知らぬ別れを告げた。
「まったく! 可愛くないね! 助けくらい呼んだらどうだいっ?」
「……だ、れ……」
「僕はにっかり青江。元は大太刀の大脇差さ!」
「あお、え……」
剣が振る間際、闇夜から素早い身のこなしで間に入ったのは黒に濡れた髪色が美しい男だった。
茫然と、剣をとり落としかねない審神者を青江はキッと睨む。
「何ぼさっとしてるんだ!」
審神者は我に返り、刀を振る。
青江が止めている二振りの脳天を突き刺す。
呆気なく、音もなく敵は倒れた。
「……っはぁ……は、ぁ……っ」
呼吸を紡いでいる間、青江は涼しい顔で返り血を拭っていた。
「礼を、言う……」
辛うじてそれだけを述べると、鋭い視線が返る。
彼は自身の白装束を破り、審神者の腕と脇腹に巻き付ける。
「ありが、とう……」
最早呼吸をするだけで苦しかった。
礼を述べると、青江は審神者をじっと見つめる。
頬を、一閃。張り手だと理解するまでに時間がかかった。
「こんなところに一人で来たんだ。これくらい当然だよね」
「……青江」
「帰るよ」
冷たく言葉を吐き捨てると同時に、意識を失った。
倒れる寸前、青江は審神者を抱き留めた。
「こんなに小さな身体で、どうして一人で戦えると思うんだ」
審神者を肩に担ぎ、ゲートへと向かった。
敵が来たら返り討ちにしてやるつもりだったが、なんの障害もなく辿り着くことが出来た。
本丸へ帰ると、こんのすけがちょこんと座って待っており、審神者を見つけると慌ただしく駆け寄った。
「審神者殿!」
「大丈夫。まだ、息はある」
「青江殿、ありがとうございます! 審神者殿を早くお部屋へ!」
こんのすけに従い、部屋へ連れる。
用意された布団に横たわらせると、息も紡げない審神者の青白い顔が映る。折角新調した布団が血で濡れ、畳が汚れるのも時間の問題だろう。
「今、お医者殿を…!」
「その必要はないぜ」
「や、薬研殿!」
「アンタの言うとおりってわけか。青江の旦那」
「やあ。助かるよ。薬研君」
薬研藤四郎は両手に薬箱やら包帯やらを抱え、傍らに腰を下ろす。白装束の包帯を剥ぐと、処置にあたる。流血が激しい。一刻を争う状況だった。
「薬研殿……」
「青江の旦那がゲートへ向かうところを見つけてな。俺っちにすぐに処置が出来るよう準備しろって言って、自分は戦場へ向かったのさ」
「青江殿が……?」
青江は肩を竦め、皮肉気に笑う。
「こんなに小さな身体で気を張っていると、期待したくなるのさ」
「青江殿」
「おっと。勘違いしないでおくれよ。期待はしても信頼はしない。なにせ僕らはずっと君達に裏切られてきたんだから」
「ま、俺っちは手入れの礼だ。借りは返さないと後味が悪いんでね」
「ありがとうございます。ですが、一期一振殿は……」
「心配ないよ」
「鳴狐殿! お怪我は……」
いつの間に部屋へ入ったのか、寝間着のまま、彼は佇んでいた。
「一期は他の弟達と寝ている」
「そうですか」
「鳴狐の旦那は早く手入れ部屋へ戻ってくれ」
「うん。薬研、青江、ありがとう」
「ああ」
「お礼は身体で払ってくれよ」
冗句に笑みを返し、彼は部屋を後にした。
「さて。ここからが俺っちの腕の見せ所だな」
「楽しみにしているよ」
「両人とも頼んだぜ」
夜明け頃。処置は終えた。
審神者は命を取り留めたが、目を開けることはなかった。
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