腐臭。
 あたり一面撒き散らされる。
 袖を鼻にあてるが、一度貫いた記憶は決して忘れられようもない。記憶となったそれは、精神的摩耗を助長させた。
 一際腐臭が強い部屋には誰もいなかった。但し、中は時間が経ち、腐臭の原因の一つとなり果てた赤だの白だのの体液がこびりついていた。
 むかっ腹が立つ。眉根を寄せた。
 気分が悪い。言外に告げ、ピシャリと襖を閉めた。傍らでちょこんと座る狐がビクリと震えた。
 ズカズカと歩を進める。
 あちらこちらで赤黒い体液が飛び散り、掃除一つ行われていない、黴臭い感じがした。せめて掃除くらいはしても罰は当たらないだろうに。言っても始まらないことではあったが、心の内だけでも悪態を呟かないとやっていられない。
 曲がり角を一つ、二つ……数えるのをやめた頃。多くの気配を感じた。人とは異なったもの。
 いる。
 傍らの狐を見遣ると、張り詰めた空気をにおわせていた。
 言われずとも明瞭だ。
 何故ひとところに留まっているか疑問はあったが、立ち止まっている時間などなかった。
 意を決し、部屋へと歩を進める。自然、歩調が速くなった。傍らの狐は小走りで後を追う。
 そこからの殺気が徐々に増した。
 部屋の前まで来ると、それは明らかだった。
 ぴんと張り詰めた空気。剣を抜く間際と似た。その時が来たら抜き、切るのだろう。
 問答は無用だ。ここへは、そのためだけに来た。
 否。
 そのためだけに、遣わされたというべきだろうか。
 遠い日を思い、ふっと嘲笑を零した。
 思い出す過去など今更ない。
 襖に手をかけ、一息に開ける。
 ピシャン。
 瞬間、殺気が爆発した。
「初めまして。おれは、この本丸へ新しく派遣された審神者だ。よろしく」
 笑顔を見せるも、彼らの殺気は一向に消されなかった。寧ろ、よりましたと思う。一体前任者どもは何をやったんだか。
 溜息を零したいところだったが、そんなことすら出来ないほどに逼迫していた。彼らの前で一瞬でも溜息一つほどの気を抜けば殺られる。
 彼らは今にも剣を抜き放とうとしており、人一人いとも容易く殺す目で睥睨した。
 いちいちかかずらっていたらきりがない。彼らに現状を理解させるために口を閉ざさない。
「誰かおれの近侍をしてくれないか」
 応える者は、ない。
「そうか。では、早速だが手入れをしたい者はいるか? これは日課だからな。一日五振りはしてもらう」
 風を切る音。
 言うか否か。否、ほぼ同時だったろう。
 心臓を狙い、突き。
 正に、風。目にも止まらぬ速さで心臓を射抜く。
 カッと目を見開き、刃を掴んだ。
「なんだ?」
 掴んでから、やや緩かったのか動いた。僅かに刃が胸を貫いていた。
 いきなり刃を向けて来た犯人は、血走った目をかち合わせた。頭から、あちこちから血を垂れ流している。
「死ね」
「ほう?」
 掌から剣が抜かれ、すかさず第二撃が振り下ろされる。すんでで躱すと、二、三。それら致命傷にならない程度に躱した。何度か身体に傷がついたが構わない。
 その一振りは舌打ちをすると、一刹那、一変して動きを速めた。手を抜いていたのだ。
 幸いにも持っていた剣で応戦する。何度か躱すが、この均衡がすぐに破られることは明瞭だった。
奥では、下卑た笑みを浮かべる彼らがいた。
 まったく気分が悪い。
 彼の動きをよく注視し、今までにないほど集中させる。
 振り下ろす。
 今だ。
 機を狙い、頭上から迫った刀を掌で受けとめた。刺した、と言った方が正しいかもしれない。
 まったく力の入らない手で刀を掴み、彼からぶんどった。そして、一瞬怯んだ隙に頬をぶん殴る。
「主へ剣を向けるとは何事だ」
 努めて声を低くする。決して気付かれてはならない。声を出すことが精一杯であるということに。
 ざわり。何振りもの彼らがざわめいた。
「いいか。拳で語るのは認めよう。だが、得物を持っての乱闘はならん。以後、これを破ったものは厳しく罰する。いいな?」
 返事は、ない。
 分かっていたことだ。
 幾つもの睥睨が降りかかり、その中で意識を保っているのがやっとだった。
「こんのすけ。手入れ部屋へ案内しろ。……早速今日の刀を頂けたからな」
「審神者殿!」
「返してほしければ手入れ部屋へ来い」
 歯軋りする一振りへ視線をやると、睥睨が返る。口角を上げると、険が増した。
「行くぞ、こんのすけ」
「待て」
「……なんの真似だ」
「この子を返してもらおう。ニンゲン」
「こんのすけ。この無礼な者は誰だ」
「い、一期一振殿でございます! 彼……薬研藤四郎殿の兄君です! 審神者殿、危険です。薬研藤四郎殿をお返しください」
「……そうか」
 首に冷たく光る刃を眺める。薬研藤四郎という掌に未だ刺さる刀よりも長い。
 腰に佩いた剣を抜くと、首筋にかかる圧迫が増した。
 一瞥すると、視線が雄弁に物語っていた。
 溜息を零す。
 短い刀の掌の感触はない。が、動かそうとしてみると案外動くものだ。ピクリと反応を示した。
 薬研藤四郎で、兄の刀を押し返す。
 息を飲む音。一期一振の圧迫が弱まる。
 腰に佩いた剣を床に刺し、どっかりとあぐらをかいて坐った。
 彼らのざわめきが騒々しい。
「いいか。よく聞け。お前らを全員手入れし、ここを『ブラック本丸』から良き方へ変えることがおれの使命であり望みだ。仮令、刀解をおまえらが望んだとしても叶えてやるつもりはない。覚悟しておけ」
 視線をまっすぐに見据える。傷付き、自分を敵と認識している彼らへ。
 彼らの視線が刺さる。しかし、先程のような今にも殺そうという気迫は薄らいだ。
 最初が肝心だ。彼らへ殺せないと思わせなければならない。
 彼らの気迫が弱まったのを見計らい、全員の顔を一振りずつ見遣ってから立ち上がる。
「行くぞ」
 今度こそ、その場を後にして手入れ部屋へと向かった。












 薬研藤四郎を手入れ部屋へ預け、自身は審神者の執務室へ入る。一等黴臭いところだったが致し方ない。掃除は後回しだ。
 救急セットをとり、こんのすけへと手渡す。短い手足で丁寧に消毒し、包帯を巻いてくれた。
「ありがとう」
 礼を言うと、一瞬動きが止まる。
「どうして、こんなことを……」
「彼らは『ニンゲン』と言った。審神者ではない、人は怪物や悪鬼の類なんだ」
「ですが、あなたがここまでする必要は……」
「そうだな」
 だが、後悔はない。
 彼らとわかりあえるつもりもなかった。もとより言葉が通じる相手と思っていない。
「そんな恰好までして。あなたはまだ年若い」
「こんのすけ」
「……審神者殿」
 言葉を制したことを恨めしげに睨まれ、苦笑を零す。
「だってこうしないと、彼らと同じ位置に立てないだろう?」
 舐められてはならない。彼らは下と見れば即座に弱い者と判断し、虐げてもいいと思うだろう。殺されてやるつもりもない。
 上に立つつもりはない。立場としては上にあるが、独裁者になるつもりもない。
「いいんだ。これで」
 ぽつりと零された言葉に、こんのすけはしょんぼりと耳を伏せた。
「さ。俺は寝るから、少し席を外してくれ」
「わかりました」
 手当てが終わると、こんのすけは器用に前足で襖を開け閉めして去った。
 どうせ寝具は使えないありさまだろう。持ってきた要らない衣服を掻き集めて、畳に敷いて簡単な寝具へとした。毛布もなにもなかった。袿をかけるだけだ。
 痛みが未だ続く手で不器用に着替える。
 闇夜に灯りもなく映しだされた肢体が晒される。
 細く、柔らかな身体だった。











 夜。
 そうろりと感じる気配にこんのすけは目を覚ました。
 主を見詰めるが、ぐっすり寝ているようだ。眠り薬を仕込んでおいてよかった。
 安全のため、暫くは行動を共にすることにしている。今はやむなく腕に抱かれているが、護衛だと自負している。
 腕をすりぬけ、ぴょんと畳に立つ。
 四本足で器用に外へ出ると、驚いた様子でこんのすけを見詰める視線が一対。
 駆け寄ると、一歩後退った。
「いかがされました――鳴狐殿」
 お供の狐がじっと見下ろす。
 鳴狐も同様。彼が口を開くことは元からあまりない。
「お礼を言おうと思って。薬研が、無事に帰ってきたから」
「それは重畳ですね。審神者殿は現在ご就寝されておりますので、私からお伝えします」
「いや……」
「鳴狐殿?」
 彼は少々言葉を躊躇って、稍あって視線を合わせた。
「どうして、あんな言い方を?」
「どういう、ことでしょう?」
 こんのすけの緊張を感じ取ったのか、彼は腰を下ろして刀を置いた。
「ああ言わなければ、薬研は手入れをしなかった。違う?」
「おやおや」
 敏い彼のことだ。審神者の行動に疑問を抱いてもおかしくはない。
「あれからたくさんの審神者が来て、殺したり、追い返したり。でも、あんな人はいなかった」
 体当たりだ。正面衝突、ぶつかり合いで、殴り合い。無理矢理説き伏せ、どっかりとしている。偉ぶっているとはまた少し違う。
「それは、ご本人から直接聞いた方がいいと思いますよ」
「……そう」
 鳴狐は今まで甥を守ってきた。一期一振がいない時は彼に代わり、小さな弟達を。一期一振が来れば、彼を含めて。
 片隅で肩を震わせ、小さな身体がいくつも重なって大きくなってしまうはずなのに、小さく小さくなろうとする彼らを必死に守ってきた。
 けれど、彼は自身の中にほんわりと芽生えた感情を無視することは出来なかった。
「近侍。やるよ」
「鳴狐殿?」
「薬研のお礼」
「それはありがたいです。審神者殿もお喜びになるでしょう」
 こんのすけはにっこりと笑い、審神者の部屋へと戻って行った。
「? 何、しているの?」
「審神者殿のおやすみを少しでも癒したくて、枕を勤めているのです。では、任務がありますので」
 ぺこりと一礼をして、おかしな狐は部屋へと戻って行った。
 襖を開けて確かめたい気持ちに襲われたが、昨日の今日では流石に躊躇われたので後ろ髪を引かれながらも後にした。
 部屋へ戻ったこんのすけは前足で乱れた袿をかけ直してやると、審神者の腕の中へと潜った。すると、温もりを求めていたかのようにぎゅうっと抱き締められたので思わず笑みを零して丸くなった。
「叔父上……」
 そして、物陰からひっそりと覗いていた一振りは、その場を後にした。
     
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