新たな願いを積み重ねる
弱い女は好きじゃない。
気が強くて、俺を愛してくれそうな女が好き。男でもいい。愛してくれるなら、断然女。
「あー。河の下の子です。加州清光。扱い辛いけど性能はいいかんじってね」
ふんわり風を孕んだ桜が、爆発したようにひらりと舞う。祝福のよう。
何かに引っ張られ、そこから抜け出た。眩しさに閉じていた目を恐る恐る開ければ、一番に目につくのはおっかなびっくりこちらを窺っている可憐な少女の姿。同族の後ろで庇われているのは正直言ってあまりいい気分がしないのだが、顕現したばかりで気付いていなかった。
これが、俺の主。
刀本来の特性故か、総じて俺と同じ個体は愛されたがりである。例に漏れず、俺も主に愛されたかった。
しかし、俺は一目で諦めた。
白磁の肌。薄桃色の頬。黒曜石の如くつぶらな瞳。細い手指。余分な肉などついていない。力を入れただけで折れてしまいそうだ。
誰かを愛するためじゃなく、誰かに愛されるための身体だ。
とは言っても、俺は愛したいと思わなかったけれど。
愛されるのが好きだ。愛されるから尽くすのが好きだ。愛された分以上に尽くして、もっと愛してもらうのが大好き。
いかにも庇護欲をそそる、守ってあげなければと思わせる女は相棒(とは絶対に認めないが、他に言い様がない)の好みだ。俺とは真逆。俺たちは好きなものは絵に描いたように正反対。
それでも、主という存在は特別で。いかにも守ってあげなくちゃならないような少女に愛されることは諦めても、刀の本分としては愛されたかったし諦めきれなかった。
俺が支えてあげなくちゃ。
そうしたら、ほんの少しずつでも愛してくれる?
「加州。よろしくね」
「うん。よろしく」
はじめて目があった気がした。
おずおずと進み出た主の瞳に映る俺への色は、不安。
揺らぐその目は震えているようでもあって、俺が一飲みするのだと言っていた。愛という名の蜷局でするすると肢体を拘束して、禍々しいあぎとをぐわっと開く。
すっと俺から主を守るように差し出される手。
「蜂須賀虎徹。虎徹の真作だ」
少し上から見下ろすのは、眼光を鋭くさせた同族。
虎徹の真作。
声には出さず、呟く。
「あー……あはははは。……………よろしく」
よろしくしたくないけど。
「君のよく知る刀とは違うから、覚えておいてくれ」
「……」
絶対いま俺の顔ひきつってる。
藍も変わらず上から嗤う同族。
握った拳を必死の思いで引っ込めた。
俺たちが長とあおぐ人は、「虎徹の贋作」だ。
対して、嗤う同族は「虎徹の真作」。その矜持が俺たちとは相いれない。
ばちばちと火花を散らせて、俺と主(おまけで真作様)の初対面は幕を閉じた。
俺は考えてもみなかった。
拳を引っ込めた僅か数日も経たないうちに、出すところを定めてしまうとは。
擦れ違えば、火花を散らせる。ばちばちと、火傷しそうな音が聞こえてきそうなそれを通りがかった小さい同族たちは怯えて動けなくなった。その都度、保護者たちに説教された。それだけだった。
私闘はしない。元の主の名誉を汚してしまうから。だから、最後の一線もすれすれで越えなかった。
越えるのは簡単だった。
贋作と謗ったのが先か、贋作の弟と謗ったのが先か。
いい加減互いに顔を合わせるだけで腹に据えかね、戻した拳の行く先を定めたかったのだ。
殴り合いへと発展すると、真っ先に駆け付けたのは相棒だった。
俺たちは好きなものは正反対。だけど、嫌いなものは似ていた。
頭を贋作と謗られたことで沸点を振り切った相棒は、拳を振るった。刀身を抜かなかったのはせめてもの理性が働いたのかもしれない。
そして、「鬼の副長」の愛刀が参戦した。
俺たちの中で一番年下の同族は喧嘩っ早くて、止めに入るどころか我先にと参戦したのだ。更に、いつもなら仲裁役を買って出るもう一振りの同族も後に続いた。
多勢に無勢。武士道もへったくれもありゃしない。「鬼の副長」に切腹を申し渡されても否やは言えない。
他の同族たち総出で止めるはめになり、大騒動へと発展した新撰組と真作様による私闘により、俺と真作様には重い罰を与えられた。
三日間の謹慎処分。その間、寝食以外は反省をひたすらに書き続けることを命じられた。
他の面々も罰を与えられ、最年少などは兄弟刀にこっ酷く叱られたらしい。曰く、「身内の不始末は身内で漱ぐ」とのこと。
重い罰を与えられた俺たちは己の行動を省み、誡め、それから行動には十分慎んで喧嘩などしなかった。
なんてことは全然なかった。
顔を合わせれば殴り合いの大喧嘩。贋作だの真作だの罵り合い。
新撰組も参戦するものだから余計に大きくなる。
どこからともなく起動おばけがやってきて、仲裁と言う名の鉄拳を繰り出さなければ、刀身を抜いていたかもしれない。
お説教中も視線だけで喧嘩を始める俺たちに、起動おばけは容赦なかった。度々拳骨がとんだ。
場所は、決まって主の執務室だった。がみがみと五月蝿い起動おばけの後ろでそろぉっと顔を覗かせ、およそ成人しているとは思えない少女の顔が不安げに彩った。今は二十で成人らしいが、それにしてもいとけない。
視線がばちっとあうと、おっかなびっくり顔を引っ込めてしまう。そのたびにおっかない初期刀がぶん殴ってくるものだから埒があかない。
少女がどんな顔をしているのか。俺は知らない。
俺が怖いのか、視線が合うとすぐに引っ込めてしまうし、俺もお説教中の手前顔を合わせるのが気まずかった。
元々、主は俺たちと一線引いていた。
近侍の長谷部、歌仙。それから初期刀である蜂須賀以外と接しているところを見たことがない。厨を任されている燭台切ですらあまり話したことはないと言っていた。
このところ蜂須賀は近侍を外されることが多くなっていたけれど、初期刀への信頼は絶大だった。本丸創設からずっと主を側で支え続けたのだ。俺とは比べるまでもない。
とうに諦めがついていた。所詮初期刀でもない刀。歌仙や長谷部のような実直さもない。刀としての本分で愛されていればいいかなという程度。
変わったのは、主の告白から。
「あの……。好き、……です……」
それは、なんの前触れもなく。唐突に。
頬をうっすらと紅潮させて、視線すらも合わせられない様は宛ら乙女。守ってやらなければならない、見返りのない無償の愛を注いでやらなければならない少女の姿とは違う。
嘘だ。
だって、主は俺のことが怖くて。愛してくれなくて。だから諦めるしかなくて。
言い訳が次々浮かんだ。少女の手を見るまでは。
震えていた。小刻みに、寒さ故のように。
そうして、少女が決して面映ゆく思っているだけではないことに気付く。顔を合わせまいと必死で、俯いた顔は見えない。視線の先は多分震えているその手。同じものを重ねて、止めようとしているようだった。宛ら死刑台に乗っているよう。
俺はというと、
「え……。お、俺?」
少女の決死の告白もなかったことになりかねないセリフを、お決まりでもあるセリフを、死刑を待つ少女へ向けることしか出来なかった。
嫌われてるのかなぁ、と思っていた。
喧嘩ばかりしている俺を、長谷部に無理矢理言い包められて見ていることしか出来なくて。よくて、苦手。不得手。
視線があったことなんて数えくらい。
いつも俯いて、会話らしい会話もしたことがない。なんとなく話しかけるのも億劫で怠ってきた。愛されてないって自覚するのが怖くて。
考えさせて。
やっとのことでそれだけを告げて、少女と別れた。
あの時、少女がどんな顔をしていたのか。俺はちゃんと見もしなかった。ただ何かに追いたてられるようにしてその場を後にし、頭の中の靄を払うように一目散に相棒のところへ飛び込んだ。気は合わないけど何かあったら駆け込むのは昔からだ。
相棒は突然帰ってきた俺を快く出迎えるわけでもなく、せんべい片手に雑誌をめくっていた。ちらとこっちを見たかと思えば、興味なさげに戻す。
相棒だけが頼みの綱だった。
たった今起きた出来事を一から十まで説明する。主が告白してきたこと。主には嫌われていると思っていたこと。頭が追いつかなくて待っててと言って逃げて来たこと。
相棒はばりばりせんべいを片手に、
「へぇ」
すべて語り終えても、ちっとも心を動かされていなかった。
「へぇってなにっ? 驚かないの?」
「まぁ、うん」
「えーっ! 安定、主タイプでしょっ?」
「さすがに主と好きな人は別だよ」
相棒は、昔から好きなものは悉く正反対だった。新撰組と元主だけ。あとは、浅葱と誠。それだけが同じ。
主は気の弱い少女だ。年端もいかない、壊れやすそうで脆い。気の強い、ほどよく育った女が好きな俺の好みじゃない。どちらかというと、安定の好みだ。
と言うのが、俺の持論だった。
その後、ぎゃーすか騒いでいたら五月蝿いと追い出された。ちくしょう、甲斐性のないやつめ。自分の部屋だというのに追い出されるのは納得がいかない。
むかっ腹をおさえつつ、とぼとぼと厨へ歩く。そろそろおやつの時間だ。燭台切が用意している頃。手伝うついでに話し相手になってもらおう。かっこつけの伊達男なら親身に聞いてくれるに違いない。
中に入ろうとして、さっと身を隠す。
そこには、先ほど想いの丈を伝えた弱々しい少女がいた。
背中を冷たい汗が伝った。それに違和感を感じなかったことに、少なからず驚きを隠せない。
そうっと覗くと、頬を染めてはにかむ可愛らしい少女の姿があった。弱々しい印象などない。
楽しげに笑うそれは、俺が見たことのない少女。
まるで、「少女」のようにコロコロと、鈴の音のように笑う。口元をそっと手で隠し、おかしいと目を閉じるほど笑う。
笑う。
少女が笑う。
なんだろう。もやっとする。
正体のわからないものが、胸のあたりを覆った。急な病気とやらではなさそうだ。胸のあたりをさする。
何故か、それを見ていたくなくてその場をこっそり後にした。
後悔したのはすぐ。話し相手がいないことに気付いて、がっくりと肩を落とした。
それから暫くろくな会話らしい会話も刻まず、月日は流れた。
変化が訪れたのは二月後の晩。月の一等美しい日。
出陣や遠征で会話をするものの、事務的なものが殆どで話し方すら忘れてしまった頃。
安定との部屋の前、縁側で月を眺めていると、静かな足音が聞こえた。
「隣、いいですか?」
随分久方ぶりに聞くような感じがした。今更、どこか距離を置いた口調。
弱いくせに、凛とした響きを持った声。存外、この声が好きなのだ。
声色に不安を滲ませた問い掛けへ否やを言うには度胸が足りず、そっと隣を空けるにとどめる。少女は小さく礼を言って、静かに腰かけた。
静寂が打って響く。
少女との距離は寸分もなく、呼吸の音さえ耳に残るほどだった。部屋へ戻らなかったこどをすぐに後悔した。後戻りできない。気まずさに、唾を飲む。
主が袿姿だったのもある。
神の末端と雖も、人の身を与えられたのである。人と過ごし、その感情も人に寄る。
なるたけ視界に入れないように努める。
ふと、視界におずおずと入る箱。綺麗に包装されていた。
その日は、遠い異国の地で心に思う人へ贈り物を渡す風習があった。この国では甘味を贈るのだと、昼餉の席で少女が言っていた。
家族や友人へは義理チョコを贈るのだと。
そして、恋い慕う人へは本命のチョコを。
燭台切と作ったというそれを齧りながら横流しに聞いていた。
家族や友人へ贈る、それを。
「嫌でなかったら、受け取ってもらえませんか?」
「これ……」
昼餉の席で貰ったのは、義理チョコだった。家族や友人へ贈るもの。
これは、
「好きです」
次いで、紡がれた想いに双眸をゆるりと揺るがす。
二度目のそれに、ちりと胸のどこかが焼ける音を耳にした。
呆然と、差し出されたそれを見遣る。受け取ることは出来なかった。
何故か。
何故。
何故?
それ、ばかり。
「なんで……」
俺なの。
紡いだ言葉が形となると、少女は息を詰めて唇を結んだ。
赤く色づきすぎていない、艶のある唇が皺になった。少女であるからか、いや、少女なのにその唇に紅をさしているところを見たことがない。今度似合いのものを見繕ってやろうか。きっと似合う。あまり赤すぎなくて、でもきちんと赤いものが少女には映える。俺と、同じ色が。
わかりません。唇が、動く。
ああ、やけに月が一等美しい。ずっと見ていたはずの空に浮かぶそれを今更ながらに感慨深くなる。
「あなたと離れるのがつらくて……。けれど、近くにいると話せもしないのがもっとつらくて。あなたといるとずっとつらい」
答えを、待ち続けていることが。
「主」
「どこを、とは言えません。だって、わからない。私が知りたい。あなたの好きなところ。あなたといるとこんなにもつらいのに」
手巾を差し出そうとして、とどまった。
泣いているのかと思った。優しく拭ってやろうと。けれど、反して少女の双眸からは滴落ちることはなかった。
少女の目は、しかし、今にも泣き出しそうに震えていた。
目が合うといつも震えている気がする。
怖くて、恐ろしいのだと。どうしようもなく身がすくんでしまうのだと思っていた。
だが、それは。
ああ。
ああ。
なんて。
なんて、恐ろしいのだろう。
分からないと言いながら、言葉の全てが愛で出来ている。
どれかひとつをあげることなどできない、全てが好きなのだと。
どうして気付かないのか。きっと少女の心は澄み切った色をしているに違いない。そうっとすくってみたい。いつか。
「主」
ここまで言われて答えないのでは、男が廃る。
「いいよ。俺、主と恋仲になりたい」
なにより、こんなにも可愛い
女を手放したくなどなかった。
曖昧な返事に、それでも肯いてくれた少女を引き寄せた。大人しくされるがままになる少女が、どの人間よりも可愛らしく思えた。
末席と雖も神に名を連ねる身の上だ。一人の人間を愛するだなんて罪に問われてしまうだろうか。
叶うならば、少女一人のためだけの神となりたいと思った。他のどんな人間よりも、少女ただ一人だけを守る神へと。
想いが通じあったのは、それから十年ほど経ってからだった。
日々は緩やかに流れた。
手を繋いだり、街へ二人で出掛けてみたりとそれらしいことをしてみたものの、気持ちが追いつかなかった。可愛いと思うし、愛したいとも思う。抱き締めたいとも。けれど、好きに直結するには刀という身の上ではなかなかに難しかった。
追いつけない気持ちに困惑する俺の隣で、少女はいつも儚く消えてしまいそうなほどに淡く微笑んでいた。
やっとのことで彼女と想いを交わした時。頬に大粒の涙を滑らせ、力ない腕で抱き付いた女を生涯愛したいと思った。
彼女を隠さなかった。
神は愛する人間を隠してしまい、自分だけの箱庭へ閉じ込めてしまうと言う。例外に漏れず、言われずともその術を知っていたが選ばなかった。
彼女が望んだ。
人として終わりたい。
人間にしては、小さくて、些末な願い。
けれど、俺の願いとはまったく正反対だった。
恋仲になり、何も望まなかった彼女がいじらしく、どんな願いでもかなえてやりたい、神としての持てる力全てを以てしても。奇しくも、それは瞬きほどの短い時間しか彼女と共にあれないという宣告だった。
いつか来るかもしれないその時。隠してしまえば永劫に訪れるはずのなかった瞬間。隠さずとも、眷属にしてしまえば訪れるはずもなかった。
純粋な目で望まれては止めようもない。なにより、彼女は人として生まれた。今更その理を曲げることはしたくなかった。
娘も同じだ。
三年ほど経ってから生まれた娘はそれはそれは可愛かった。彼女との愛がいっぱいに詰まった小さな存在が愛おしかった。彼女の願い通り、人として見送ることを誓った。
いつか来るその時のために、自分の血を封じた。
娘に武器をもたせたくはなかった。その手は誰かと手を繋ぐために。恋い慕う人へ手を引かれるために。その身は誰かに傷つけられるためではなく、誰かに抱きしめられるために。
彼女と俺の願いはいつのまにか同じものとなっていた。
人にしてはゆっくり成長してゆく娘を、本丸の誰しもが可愛がり、祝福した。
彼女が悔やんだのは人としての生活をさせてやれなかったこと。敵がいつここへ魔手を忍ばせるか分からず、危険を犯せなかった。
生涯籠の中で生きることを定めてしまった。
その代わりに娘を守ると誓った。この小さな命を、ずっと側で。
彼女や娘と異なり、神の末席に名を連ねる俺たちはその命を見届けることなど容易い。 今までも幾人もの人を見送った。
「おとうさんはかみさまなの?」
「そうだよ」
「おかあさんもかみさまなの?」
「おかあさんは、違うよ」
「ちがうの?」
「おかあさんは人だよ。小姫と同じ」
きょとんと首を傾げる娘は知らなくていい。いつか来る終わりも、その苦しみや悲しみも。
ただ健やかに。
「わたしは、かみさまがいいなぁ」
「っ、」
「おとうさんがひとりになっちゃうの、やだなぁ」
だから神様になりたいのだと。でも、そうしたらおかあさんがひとりになってしまうから嫌だなぁと。
膝上にちょこんと座った命が、神としての当然を塗り替えていく。
仮令、この身が人とは異なろうともそこにある思いは等しい。
「おとうさんは、ひとりじゃないよ」
おかあさんも、小姫も、同族も。みんながいる。
「じゃあ、おかあさんもおとうさんもずっといっしょだね」
ずっと、ずぅっと。ああ。一緒だよ。
魂が変わろうとも、心だけはそこにある。
幼い娘に新たな誓いを重ねたのは、だいぶ昔のこと。
「目を開けて!」
弱々しく息を紡ぐ彼女は、最後の最後に化けた。
敵から娘を庇い、定めより早い終わりを迎えようとしていた。
「こひめ、は……」
「大丈夫。本丸へ行った!」
「そ、う…」
ゆっくりと瞼が落ちる。辛うじて紡がれている吐息は、やがて途切れるだろう。ぷっつりと糸のように。
喉糸が切れそうなほどに呼んだのは、二人の時だけしか呼ばない名前。本丸の誰も知らない二人だけの秘密。
「ねぇ、きよみつ」
「な、に……」
あんなに弱かったのに。擦り切れて、吹き飛んでしまいそうなくらい。
娘を庇うだなんて、いつのまにそんなに強くなったの。
娘が産まれた時だって、死にそうな顔で、死にそうだと零して痛い痛いと泣いて。いつだって指先は自分を求めていた。
「こひめを……」
娘の名前が耳を打つ。
「おねがい」
ああ、またそうやって。そんなに泣きそうな、今にも泣き出しそうなか顔をして。それなのにちっとも泣かないんだから。
それきり何も言わなくなった彼女を抱いて、嗚咽を噛み殺した。
怖いくせに。震えて、怖くて、強がって。弱かったくせに。
最期まで、怖いと言うことなかった。
過ごした時間は決して長くはなかった。もっとたくさんの時間を共に過ごせるはずだった。
繋いだ手はいつまでもなくならないと思っていた。しっかりと繋いでいるから大丈夫なのだと。
恋慕がわからないだなんて嘘だ。好きすぎて、こんなにも苦しい。早い終わりが、覚悟していたはずのその時が、今はただ胸を刺し殺す。
「加州!」
時を置いて、同族の声に意識を戻す。顔をあげられなかった。
いくつもの足音。そして、息を飲む。
「身罷ったのか……」
呆然と、天敵にも等しい同族が零す。
応えは、しなかった。出来なかった。認めたくはなかったし、現実をわかりたくなかった。
「悲しむのは後だ。今は、なんとしてもここを食い止めるぞ」
小姫のために。
同族らの胸に一つの決意が宿った。
足もぼろぼろになって動けない自分を、誰も責めやしなかった。
そうしたのは、ただ一人。
「いっしょに戦ってね」
他ならぬ娘が、その背中で責め立てた。
全身で、怖いと泣き叫んでいた。
娘の上に振り下ろされる刀が動かぬ身体を突き動かした。
「娘に手を出すな」
もう家族に手を出すな。
これ以上奪うな。
彼女と正反対に、怖さで震えて泣く娘を守れないなんてあってたまるか。
掻き抱いた娘の身体は、うつりそうなほどに震えていた。それでもひしと立って、戦っていたのだ。信じて、一人で。
腕の中に閉じ込めて、やっと心がよりどころへ行けたような気がした。
それから、彼女を弔った。人と同じものは出来なかったが。
娘は分身を肌身離さず持っていた。そこにこめられた思いを知っていた。
並んで手を合わせ、彼女を見送った。
その日から大広間で全員眠るようになって、娘と互いを慰め合いながら落ちるように眠った。
もうあの願いは叶わない。
娘の封は解けた。他ならぬ、娘の手によって。
順当に行けば、誰かの隣に寄りそうだけでいられた。けれど、もう娘はそれをよしとしないだろう。力を取り戻し、母を亡くした今、娘は刀の本分をまっとうするだろう。その手で、誰かをすくうために。
武器を持たせることなく、誰かに手を引かれるためだけに、抱きしめられるためだけにいられなくなった。あれから娘はこっそり出陣するようになり、同族に稽古もつけてもらってめきめき力をつけていっている。
最早人であることは出来ない。それが最善だと分かっていながら、娘そのものとも言える脇差を見ると胸に靄がかかる。
いつか。そう、いつか。
手を引かれるためだけに。抱きしめられるためだけの身体にしてくれる人が現れたなら。
そうなればいい。
本人の望まぬ未来と知りながらも願う。
「ねぇ、おとうさん」
「なぁに」
「私って半人半神なの?」
「そーね」
刀の手入れを施す傍ら、寝転がってふぅんと頷く。
「なら、もうおとうさんはひとりにならないね」
「っ、」
ああ。怒るだろうか。
彼女と娘を見送るつもりで心を決めていたのに。たったその一言がどうしようもなく嬉しくて。いつか来る別れの日がもう来ないことがどうにも嬉しくて。場違いにも喜んでしまいそうで。
くしゃりと歪めた顔を伏せて、涙を堪えた。
もう一人になることはない。 けれど、彼女の空けた穴はぽっかりと閉じることはない。
ここにあるのは、娘一人だけ。
この胸にある願いと矛盾する未来が、ひとつだけ。
訪れることのない未来は、
家族三人で描いたその名は――
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