千の夢をこえて
「まんま。まんま」
「しぃ。ね?」
 よちよちと、まだ歩くこともままならない足が母親を求める。
 歩けるようになったばかりなのに、この子は母親に甘えたい時は必ずといっていい程踏ん張りを見せるのだから困ったものだ。普段はすぐにふぇふぇと泣いて、諦めさせてと泣くのに。
 分かっているのだろう。私達がこの子の涙に弱いということも。
「う?」
 きょとん、とつぶらな目が向けられる。
 私は苦笑して、膝上で束の間の眠りを与えられた人を見詰めた。
 オレンジのさらさらとした髪が足にかかってくすぐったい。規則的な呼吸が穏やかな時間を報せるようで、私に甘えてくれる権利をくれているようで、私は胸の中に甘いものが広がる。
 ソファーの上。二人では十分に狭いのに、それをちっとも感じさせない。私の側だからと思うと、自然を口元が緩んでしまう。
 もっとこの時間を作ってあげたい。もっと気を許して、甘えて、二人でいる時間を作りたい。
 いいえ。今は、三人。
「おいで」
 手を伸ばすと、また一生懸命歩を進める。
 やっとソファーに辿り着いた小さな身体を抱き上げ、空いている隣のスペースに座らせる。
「少しだけ、私と一緒におやすみしましょう」
「あーぅ」
 目をしぱしぱと瞬かせ、眠る母親を見遣る。
 穏やかな昼の束の間。
 きっと、誰のキスでもなく、自ら目覚めるのだろう。
そして、私にキスをする。この時間に相応しい、穏やかな笑顔の後に、くしゃりと笑って。
「う、うー」
 もぞもぞと動いたと思ったら、母親の腕を自分の上に乗せていた。
「……ふふ」
 マネをしたくなる年頃だったのか。ただしてみたかったのか。
 おかしくて、揺れてしまうというのに気にも留めなかった。
 穏やかな昼の束の間の時間。
 起きたらキスをして、この子を抱き上げて、ありがとうと笑う。
 私は昼食の支度を始め、時折二人の様子を窺いながら口遊む。私の歌を。
 あなたは耳を委ね、聞き入る。
 いつのことからか。歌う時はきっちりと謳う姿勢で、口遊むなど有り得なかったのに。気付けば奏でていた。
 多分、あなたの影響でしょうね。
『ほんとうに笑うようになったね、イッチー』
 そうですか? 尋ねると、うんうんと頷いた。
『もちろん今までも笑うことはあったけど。最近、笑い方が違うっていうか』
 それは多分あなたのせいだと言いかけて、やめた。
 同じだ。
 寄り付きもしない猫が、膝上で眠るまで気を許したように、私もあなたを見ている時間に気を許してしまった。そんな時間を作ってしまった。
 私が笑みを零すと、「そう、それ」と言った。
 その時の顔は、私の笑顔と同じだ。
「おや。こんなところで眠ってしまっては、風邪をひきますよ」
 何時の間にか時間は経っていて、隣ではこっくりこっくりと船を漕いでいる。
「うーう」
「ダメですよ。風邪を引きます」
 立ち上がろうとすると、夢現の中でも返事だけはしてくる。
 この子がこんなところで眠っていては、飛び起きて慌ただしくしてしまうだろう。風邪を引きやしないか、はらはらと落ち着きなく部屋をうろついて。私まで移ってしまいかねない。
 目が覚めた後の、キスをするひと時を作ってあげたい。
 だが、尚も首を振る。
「ですが」
「うー!」
 ついには怒りだした。
 さて、どうしたものか。手を出しかね、そうしている間に眠ってしまいそうなのでこのまま寝かせてから連れて行こうか。
「うー」
「…ええ? ……ふふ、ダメですよ。それでは代わりになりません」
「うーう」
「こーら」
 母親の腕が布団替わりだ、とでも言うように。ぺちぺちと叩いて見せる。
 それだけじゃ身体を冷やしてしまうと言うのに。しかし、その突拍子もない発想につい折れてしまいそうになったのも事実だ。
 枕になったはずが、布団替わりにしているなんて。言っても、まだこの子は分からないだろうか。いや。言うには惜しい。
「レン。起きなさい。でないと、風邪を引かせてしまいますよ」
 あなたの責任は重大ですよ。
 数瞬し、膝の上から振動が伝わる。
「……あなた、いつから起きていたんです?」
「…っ、…ふ、ごめ……。か、かわいくって……」
 まったく。人の気も知らないで。
 小さく息を吐く。
 オレンジの髪の間から青い目が覗く。ふんわりと細められた目が私を映した。
「おはよ、あなた」
「おはようございます」
「ハニーって言ってくれないのかい?」
「その場合、あなたは私にダーリンと言わなければいけませんね」
「…っ、そうだね」
 考えていることなんてお見通しだ。クスクスを笑う姿に目を細める。
「それに、私はそんな呼称よりも名前を呼ばれる方が好きなので」
「…っ」
「いい加減恥ずかしがらずに名前の一つくらい呼んでみなさい」
「……」
 耳まで赤く染め、視線が思い切り逸らされる。
 あなた、とか、ダーリン、とかは恥ずかしげもなく言えるのに、どうして名前一つにそこまで拘るのか。今更名前を呼ぶのは照れ臭いと、子供まで産んでおきながら可愛いことを言ってくれるけれど、そろそろ矯正させよう。
「ねえ、レン」
 だって、聞きたい。あなたの口から。
「聞きたいです」
 顔を合わせ、覗き込む。吐息がかかる距離で、息を詰める姿を一瞬たりとも逃しはしない。
「ト、キヤ」
 稍あって、震える声音で紡がれた名前。
「はい。なんですか。レン」
 口元が、自然と緩んだ。
 逸らされた視線が合わさる。
「レン」
 殊更想いをこめて呼ぶと、恥ずかしさを押し隠すように口が引き結ばれる。
「キスは、まだですか?」
 いつもあなたがしてくれるんですから、ちゃんとしてください。
「…っ」
 顔が林檎よりも赤みを帯び、可愛らしく彩られる。
 触れるようなキスが贈られるまで、少々時間を要した。
 そして、私の肩口に顔を埋めるのはすぐのこと。
 ひっしとしがみつく腕に、私は頬を引き締められなくなった。
     
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